最初は見間違いかと思った。いや、そう思わざるを得なかった。
 人の背中に翼はない。それは誰もが分かっているし知っている。人は決して空を飛ぶことはできない。
 それなのに今僕の目の前には翼を生やした人がいる。全部で六枚、三対の翼を持った人が。
 月明かりの下、青白い大きな月を見上げていたその人が気付いたようにこっちを振り向く。さらりと揺れる長い髪。僕のよく知っている顔がこっちを見る。
「…、キール」
 ぽた、と赤黒い液体が、彼女の腕から指を伝って地へ落ちた。上着を切り裂かれた向こう側に見える彼女の腕。どう見ても深い傷口から、血が溢れている。
 思わず反射で駆け出して、ポケットに手を突っ込んで手探りでサモナイト石を探し出す。聖母プラーマと契約したそれに一瞬だけ意識を集中させて詠唱を飛ばして召喚しようと口を開いて、
「キール」
 静かに強く、彼女に呼ばれた。自然と足が止まる。言葉を紡ぎかけた口が中途半端に開いたまま、彼女の強い視線に負けて結局閉じることになる。手当てはいいと、彼女は言外にそう言っている。そっと歩み寄って「傷が、手当てを」と口にしてから気付いた。傷はもう塞がりつつあったのだ。
 彼女が孤独に満ちた目で僕を見る。僕は彼女の背中から生えた三対の翼を見ている。美しい翼。
「君は……」
 言うべき言葉が見つからずに視線を彷徨わせれば、彼女が静かに笑った。そうして僕を見てことりと首を傾げ、「言ったでしょう」と静かに言葉を紡ぐ。
「私、人間じゃないのよ」

 静かに静かに、月明かりが音を立てたような気がした。そんな音が聞こえた気がした。
 気付けば彼女の背中にあった翼は夜闇に溶けるように消えてなくなり、彼女の傷も、初めから怪我などしていなかったようなきれいな白い腕だけが、切り裂かれた袖の向こうに覗いていた。血が流れていたことを語るのは、赤く黒く染まったその袖口だけだった。
 仲間が僕らを呼んでいる声が遠く聞こえる。
 彼女が僕の手を軽く握り「行きましょう」と言った。口止めも何もなかった。ただ行こうとだけ言った。僕は頷くだけでよかった。頷いて、彼女の後に続いて歩くだけでよかった。
 彼女の背中。今はもう翼のないその背中。
 僕は一度目を閉じる。それから瞼を押し上げる。見える光景はさっきと変わらない。
 冷たい月明かりに照らされるその背中には、ただ孤独感だけがあった。