そうして、月日はただ流れた。
 魅魔の宝玉で起こされた事件は次第に過去のものとされ、生き残ったカノンとバノッサはオプテュスに戻ることもできずに結局フラットに仲間入りすることになったわけだが、それすらもだいぶ昔のことに思える。
 あれからもう三ヶ月。カノンはリプレの家事を手伝い、バノッサはどこからか収入を得て帰ってきている。
 僕はその後セルボルト家の名を継いだ。正確には遺産相続がしたかっただけで、それ以外の権利はどうでもよかった。他にも義兄や義姉はたくさんいたけれど、まともに話し合いができて頭の働くような心を持った人はいなかった。皆壊れていた。だから必然、僕が一番上の兄弟として屋敷も相続した。
 そしてその屋敷を早々に売り払って得たお金でフラット自体を建て直し、大人数でも住める家へと変えた。リプレには泣いて感謝されたけれど、僕にできることはこれくらいだと分かっていたからしたことだった。
 僕にできたのはそれくらいだった。残ったお金はあまりなかったから、それはすぐに食費やらに消えた。
 今まで通りのようでいて、皆の生活は確実に変わりつつある。
 僕の大好きな彼女も、そして、僕自身も。

「……ふぅ」
 どうにもまだ着慣れない制服に身を包んで、姿見で身だしなみがおかしくないかチェックする。無造作にしている髪に手櫛を入れて少しましにして、歪んでいたネクタイを直す。
 そうこうしているとかんかんとノックの音。
「キール、準備できた?」
 がちゃりと扉を開けて入ってきたのはで、短めのスカートから細い足を曝け出してかわいらしいウエイトレスの格好をしていた。目のやり場に困る、と思いながら「ああ」と返せば、彼女はこっちへ歩いてきてまだ歪んでいたらしいネクタイをきゅっと直してくれる。
 それからくすくすとおかしそうに笑って、「まだ慣れないのね」と言う。僕は息を吐き出して「接客とかは苦手なんだ」と返した。
 彼女が小首を傾げて「なら無理してやらなくてもいいのに」と不思議そうに言う。だけどそれに僕は首を振る。これにはちゃんと理由があるのだ。
一人を、僕が知らない場所にやるわけにはいかない」
「知らないって…商店街の喫茶店のバイトなのに」
「僕が知らない間に君に何かあったらどうするんだ」
 真面目にそう言ったにも関わらず、彼女はぷっと吹き出すとおかしそうにくすくすと笑った。僕はむっとして「」と不満げな声で彼女を呼ぶ。
 それと同時、「時間だぞ二人ともー」という店長の太い声が聞こえた。彼女がはっと振り返って「はぁい」と返して僕の手を引き「行こう」と言う。
 僕は手を引かれるままに歩き出して、深呼吸した。これからまたいらっしゃいませとかご注文はとか笑顔を貼り付けて言わないといけない。知らない人に。それは他人にあまり慣れていない僕にとっては試練のようなものだ。
 だけど一人ではないし、彼女がいる。だから僕は頑張れる。
 だから僕はからんからんとドアに取り付けられたベルが鳴る音を聞いて、営業スマイルを貼り付けて入ってきたお客に「いらっしゃいませ」と言うのだ。
 そして夕刻。ようやくバイトから解放されて家路に着くと、彼女はまだまだ元気らしく「今日の夕飯は何かなぁ」なんて口にした。僕は気疲れで肩を落としながら、「元気だねは」とぼやいて返した。彼女はくるくるとその場で回転して、まるで翼があるあの頃のように軽やかに舞った。
「元気よ、元気。だってキールがいつもそばにいてくれるんだもの」
 ぴたりと立ち止まってこっちを振り返った彼女のその笑顔に、僕は面食らってしまった。それからぽりと頬をかいて、参ったなと思う。彼女がかわいくてかわいくて仕方がない。
「…身勝手だとは思わないかい?」
「え?」
「君の決めたバイト先にまで乗り込んで、君に張り付く僕が。やりすぎだとか、思わないのかい?」
 彼女はきょとんとした後に、ふるふると首を振って「ううん」と言った。それから僕の前まで歩いてくると背伸びして僕にキスをして、至近距離で目を合わせる。
「私は、キールがそばにいてくれて嬉しい。だからそんなこと思わないで」
「…
 我慢できない、と思って彼女をひょいと抱き上げた。「わっ」と声を上げた彼女が慌てたように僕の首にしがみつく。
 そのまま彼女を抱き上げて歩き出したら、当然のごとく道を行く人には白い目で見られていた。「キール下ろして下ろしてっ」と彼女が恥ずかしそうに耳元で騒ぐのが聞こえたけれど、今回は無視する。
「キールっ」
「こうしてれば、君が僕のものだって分かるだろう」
「何それ。心配しなくても私もキールが好きだってばっ」
 ばたばたと暴れる彼女をそれでも下ろさず、僕はただ笑って彼女を抱き上げる腕に力を込めた。
 この手を決して離すまいと心に誓う。

「もーキール下ろしてっ」
 まだ抵抗を続けている彼女の顔に顔を寄せてキスしながら、僕は言う。
「愛してるよ」
 彼女の動きがぴたりと止まって、その目が大きく開かれて僕を映す。僕はただ微笑む。彼女の視界にいるのは僕だけ。僕が全て。それがどんなに幸せなことか。
 彼女がやがて顔を赤くして視線を逸らして、「キールのいじわる」と口を尖らせた。僕は笑って「本当のことだよ」と彼女の額にキスを落とす。
 彼女はむくれたまま、だけど嬉しそうに口元を綻ばせていた。僕は噛み締めるように幸せを実感して、彼女を抱く手に力を込めた。

(幸せです。君と一緒にいられて、僕はこんなにも)