夜になると、私は決まって外へ出た。誰か特定の人と話をするためではない。ただ外に出て、暗闇の中ぽつんと一人月明かりを浴びる。月光浴をする。全身で月の光を浴びる、そのために外に出る。
 私は月が好きだった。だけどそれは多分、彼がいるから余計にそう思うようになったのだろうとも思う。
(今日もお月様はきれいね)
 河原まで出て行って、適当な草原に腰を下ろして足を投げ出して、ごろんと寝転がる。雑草がちくちくと首筋なんかを刺激してくすぐったいけれど、夜風や河原の音、月明かりの全てが心地よくて、くすぐったいのさえなんだか心地よく思えた。
『月はいつでも美しいよ』
 聞こえる声に、私は小さく笑う。
 確かにそうだ。月が汚いなんてことは在り得ない。月はいつでも美しく光っている。ただそれだけだ。
(そうね。そうだった)
 大きく丸い月を見上げて目を閉じる。さらさらと川の音がする。揺れる草原の、かさかさと奏でる心地のいい音もする。眠たい、と思いながら意識をたゆたわせる。
 現実世界と切り離されたどこかで彼が言った。
『無理はしない方が良い』
 私は薄く目を開けて、ほとんど暗闇に溶けるようにしてそこに立っている三対の翼を持つ天使を見上げた。月明かりに負けてしまいそうな危うさでそこに漂う彼に、私は少し首を傾げる。
「無理なんて。私はできることしてるだけ」
『それが無茶なんだ。お前は死なないわけじゃない』
「でもあなたがいれば、傷は治るでしょう?」
『首を落とされでもしたら、私にはもうどうすることもできない』
 首を落とされる。その言葉にきょとんとしてしまった。それは、考えたことなかったかも。
 確かに在り得ないことではないしそういう可能性だってあるけれど、でもあんまり、考えていなかった。今まで斬られたのは腕とか足とか肩とか背中とかお腹とかで、首とかそういう急所になる部分には傷を負ったことがなかったからかもしれない。
 頭に怪我なんかしたらそれはものすごく痛いだろうし、死ぬような傷を負ったら、確かに天使の彼でも治せないのかもしれない。
「…怪我するな、ってこと?」
 そう訊けば、彼が向こう側が透けて見える顔で薄く微笑む。
『わざと傷を負って自分を弱くみせて、敵を引きつけ倒す。お前の戦い方に異議はない。だけど程度を知らないと、いつかその首がなくなるかもしれないだろう』
「……心配してくれてるの?」
 さらに首を傾げて訊けば、彼が面食らったような顔をして黙り込んだ。それからその姿がさらに薄く闇に溶けて、月明かりに負けて消えていく。
 そして消える直前、彼は言った。
『そうかもしれない』
 私はきょとんとした後何度か瞬きして、それから笑った。くすくすと笑った。彼はもう何も言わなかった。だから私は一人で笑っていた。
 だけどなんだかさみしくなってふぅと息を吐いて、笑うのをやめた。相変わらず川の音と風の音と月明かりが満たす空間だけが広がっていたけれど、思えばそれは一人きりで見ていると安心するというより、孤独を感じるものだった。
(……死なないように、気をつけるよ)
 胸の内で呟いて、さくりと微かな足音に顔を上げた。上半身を起こして腰にある剣の柄に指を這わせて、そこがまだべっとりしているのに気付いて思わず舌打ちする。手入れをまた忘れていた。これではすぐに剣が錆びて使い物にならなくなる。剣だってただじゃない。もっと大事にしないといけない。
 そんなことを思っている間に、街へと続く歩道のある方から現れたのはよく知っている人だった。
「キール?」
 呼んでみたら、やっぱり彼はキールだった。足を止めた彼の白いマントが風になびいてばたばたしている。
「…。こんなところにいたのか」
 なんだか疲れた顔してこっちに歩いてくる彼に、私は柄にかけていた手を下ろして河原の方へと視線を移した。彼が私の隣まで歩いてきて、深く息を吐くのが分かる。
「探したよ」
「どうして?」
「君が、いなかったから。フラットのどこを探しても」
 すとんと力なく座り込んだ彼に顔を向ける。やっぱり疲れた顔。もしかしたら何かあったのかもしれない。無色関係の方で。
 そう思っても口には出さない。「散歩ぐらい、いつも行ってるよ」と返せば、彼が緩く首を振って「そうじゃないんだ」と言って黙ってしまった。私は彼が何を言いたいのか分からなくて、また河原に視線を戻す。さらさらと心地のいい水の音。
(余計な詮索は…しないべきだよね)
 思って、私は自分から何も訊かないことにした。だから黙っていた。彼が私の左手を握ってきたときも、少し驚いたけれどそれだけで、黙ったままでいた。そうして月を見ていた。河原の上に浮かぶ月。とても大きく、きれいな。
「…きれいよね」
 それだけ口にすれば、彼が顔を上げて私の視線を追いかけて同じように月を見た。「そうだね」と呟く声。

 私達は月を見ていた。ずっとずっと、ただ見つめていた。