犠牲なしで、誰かを救うことが果たしてできるのかどうか。
『理想を持った者が力を合わせたなら、何も不可能はないと思っていた。だがな、理想を現実にするためには必ず何かが犠牲になるんだ』
 ラムダという元騎士の言葉が甦る。
 そう、犠牲は何にでもつきもので、犠牲なしに何かを変えることは決してできはしない。物を買うのにもお金という犠牲があり、ただ生きるという行為にも大変な犠牲が払われている。それがこの世界で、理で、きっとずっと先まで変わらないだろう唯一のものだ。
 彼はその犠牲を自分自身として、現実を変えようとしていた。けれどそれは間違っているとレイドは言った。それではきっと何も変わらないと。
 だけど、じゃあ、どうすればいいのだろう。現実を変えるには何を犠牲にしたらいいのだろう。一体どうしたら。
(…堂々巡りだ)
 息を吐き出して微かな頭痛に頭に手をやったとき、「キール」と聞き慣れた声がして顔を上げた。見れば彼女が少し向こうの路地に立っている。買い物帰りなのか紙袋を手にしていた。

 腰掛けていた樽から腰を上げて歩いて行けば、首を傾げた彼女が「何してたの」と言う。僕は苦笑いを浮かべて「考え事を。フラットはいつも賑やかすぎるから」と返した。
 本当に、あそこでは常に物音と話し声が絶えなくていけない。考えないといけないことも考えなくていいような気にさえなってしまう、ある意味危ない場所なのだ。
 ずっとこのぬるま湯に浸かっていられたらと、そう思ってしまう場所。
 彼女が傾げていた首を戻して「これ、食べる?」と紙袋から一つパンを取り出した。紙袋の中身を覗けば全てパン。
「…まさかとは思うけど、これ全部今から食べるのかい?」
「うん」
「一人で?」
「…駄目?」
 彼女が眉根を下げて困ったような顔をしたので、「いや、駄目というわけじゃ…」と中途半端に言葉を濁した。

 彼女が栄養を取るというよりひたすらエネルギーを得るために食物を取っている、というのは最近になってようやく気付けた。全然食べない日があるかと思えば、食べすぎだろうと思うくらいの量を細いあの身体に詰め込んでいくときもある。
 そしてそのよく食べるときは決まって、彼女が怪我をしたときだということも分かっている。
 今日も彼女はあのラムダという人と真正面からぶつかり合って、斬られた。容赦なく左胸、心臓を狙われた。
 けれど幸い、彼女が上手く避けたおかげで斬られたのは左の肩のみ。致命傷は避けたものの相当深く貫かれたようで、怪我をしたときは出血が酷かった。少し貧血気味にふらつきながらも彼女はすぐに斬り返しで攻撃し、僕らは勝利したのだ。
『大丈夫…すぐ治るから』
 血を流したことで顔色を白くしながらも、彼女はそう言って僕に微笑んでみせた。傷口を隠すようにして押さえている彼女の手を取ってみれば、負傷した傷の部分はじわじわと生きているかのように再生を始めていた。
 彼女が微笑んで『大丈夫だから』と繰り返す。それからかちんと剣をしまうとくるりと仲間の方を振り返った。怪我を心配して駆け寄ってくる仲間達。けれどその頃にはもう傷口は塞がって、後には肩口に穴が開いて血の色が滲んでいる服が残るだけ。
 駆け寄って口々に大丈夫かと言う仲間に、彼女はこう告げた。
『キールがリプシー召喚して治してくれたから、もう大丈夫』
 ね、とこっちを振り返る彼女に、僕はもう頷くしかなかった。本当のことを言うつもりなど毛頭なかった。
 けれどそのままにしておくつもりもなかったのだ。

「君のそれは…一体何なんだ?」
 僕が壁によりかかって、彼女が樽に座ってパンを食べる。もらったパンに視線を落としながらそう口にすれば、彼女はもぐもぐと租借しながら「それって?」と首を傾げた。
 僕は息を吸い込んで吐いて、ようやくずっと疑問に思っていたことを口にする。
「君のその、治癒能力。それから背中の…翼」
 今日の戦いで、僕はアキュートの攻撃を受け止め損ねて足場を踏み外してしまった。そしてその時彼女の背中から翼が生えて、落下する僕に追いついて助けてくれた。その時の彼女はまるで天使だった。本当に。
 今は背中に翼を持たない彼女が、薄く笑う。
「言ったじゃない。私、人間じゃないから」
「そういうことが聞きたいんじゃない」
 思わず強く言ってしまって、それからバツが悪くなって視線を伏せる。彼女はただ小さく笑うだけだった。
 もらったパンをかじる。何の特徴もないシンプルな味のパンだった。彼女はそれをもくもくと食べ続けている。
「……キールは」
「うん」
「聞いても、大丈夫な人?」
 それは多分僕が聞きたいことの内容を言っていた。僕は迷いなく頷く。ここまできてやっぱりいい、なんて言うはずもない。
 僕の中の半分くらいは、もう彼女でできているのだ。
 彼女はゆっくりとパンを飲み込んで、それから紙袋の口を何回か折って蓋をした。深く息を吐き出して口を開く、月を見上げるその横顔を見つめる。
「私には、ロティエルっていう天使が憑いてるの」
「…なんだって?」
「だから傷も治るし、召喚術のダメージもあんまりない」
 天使ロティエル。それは守護天使とも呼ばれる、人間を守る役目を担う天使の一人だ。呼び出すにはきちんとした手順を踏まなければこちらに顕現することはない、光の賢者。
 それが、彼女に憑いている。つまりは憑依召喚。
「…ずっとなのか? 僕の憶えでは、君は僕と出会ったときからもう…」
「うん。ずっと」
 彼女はあっさりと頷いて、それから少しだけさみしそうな顔をして「やっぱりおかしいかな」と呟いた。口元だけが笑っている。その目は孤独に満ちているにも関わらず。
 樽から浮いた足をぶらぶらさせて、彼女は何でもないふうに続ける。
「ロティエルはね、もう離れることはできないんじゃないかって言ってる。魂の段階で、私と彼は融合しちゃってるんだって。だから無理矢理引き離したら、どうなるか分からないって」
 僕は絶句した。思わず持っているパンを落としそうになって慌てて両手で包み込む。
 改めて彼女に視線を向ければ、がさがさと紙袋の中からパンを取り出してまた食べ始めていた。僕は何をどう言ったらいいのか分からなくて、手にしているパンを口にする。さっきよりずっと味がなくなったような気がした。