ずっとずっと、仲間にも彼女にも、隠し続けていたことがあった。
 僕が無色の派閥の召喚師であり、今無色を束ねているセルボルト家の長男であり、サプレスの魔王を召喚するのに失敗して彼女を呼んでしまったこと。
 だけどそれも今日全てが皆の知るところとなった。成り行き上仕方のないことだった。
「……………」
 あれからずっと、仲間達とはあまり口を利いていない。彼女にさえ、僕はあまり目を向けていない。
 自分がどうすればいいのかが分からなかった。
 父上に言われた通りにフラットの皆を始末するなんてことは、まずできなかった。冷静に考えれば僕はそうするしかないはずなのに、僕の心はそれを拒絶していた。
 そう、心。僕がフラットの仲間達に出会って彼女と接していって手に入れたものが、今や全身を支配していたのだ。
(失くしたくない…)
 彼女の背中に生えた三対の翼が思い浮かんだ。魂の部分から天使ロティエルと融合してしまっているのだという彼女は、魅魔の宝玉のせいで最近はずっと寝ていることが多かった。戦いに参加してもどこか虚ろな目をして、最近は、笑うこともなくなってしまった。
 今僕の中でせめぎあっていることは、彼女のところへ行くか行かないかということであって、フラットの仲間を殺す殺さないではなかった。それについては問うまでもなく答えが出ていたのだ。
 ただ決心だけがついていなかった。
…」
 呟く。彼女の姿が思い浮かぶ。いつかのラムダの時のように、自分自身を犠牲にして誰かの幸せを掴もうとする彼女の姿が。
 大丈夫だから。そう言ってあくまで笑う彼女の姿が。
 重い腰を上げて暗い視界の中部屋のドアへと向かう。ノブに手をかけてぎぃと力なく開ければ、今まさにドアをノックしようとしていたらしいリプレと鉢合わせした。とても焦った顔をしている。
「キール大変なの!」
「…何がだい?」
が!」
 目に涙を浮かべてそう言って胸元を掴んできた彼女に、僕の身体は冷水を浴びせられたかのように一気に冷え切った。停滞していた思考がかちりと音を立てて動き始めて、僕は彼女の手をやんわり外すとがいるはずの部屋へと駆け出した。
 急いでいたせいでばんと遠慮なしに扉を開け放って、そうしてそこに仲間が集まっているのを見て一瞬だけ後ろめたさに視線を伏せてしまった。けれどすぐに「う…」と彼女の呻く声が聞こえて意識がそっちへ飛ぶ。
 ベッドへ歩み寄れば、彼女が苦しそうな顔をして荒い息を吐いていた。
…」
 呼んでも返事はなく、彼女はただ何かにうなされるように呻いて苦しそうにしている。
 一体何が。そういう目で近くにいたレイドを見れば、彼も分からないとばかりに首を振った。
「一番最初に彼女の変化に気付いたのはジンガだが…私にも分からない。これはどういうことなんだ」
「姉ごー」
 いつもの元気はどこへやらの弱々しい声でのジンガがベッドのふちに顎を乗せてを見ている。
(魅魔の宝玉、か?)
 冷静になれ、落ち着けと自分に言い聞かせて頭をフル回転させる。

 彼女はバノッサが宝玉を使い始めた辺りからだんだんとおかしくなっていった。サプレスに住むものたちの声が聞こえると言って苦しんでいた。
 それは多分ロティエルが彼女に憑いているせいなのだ。彼女は召喚術の気配に常に敏感だった。だからこそ皆彼女が戦える子だと信頼していた。彼女の言葉はよく当たる。召喚術の気配を確実に感じ取る。
 そして多分、感じ取りすぎていた。声が聞こえるとはそういうことだ。
(バノッサが絶え間なく悪魔を呼び込んでいる。…絶え間なく、彼女は声を聞いているのか)
 そう、そのせいで彼女の意識はこちら側とあちら側を彷徨うことになり、眠っている時間が多くなり、目が覚めていても虚ろなことが多くなり、そして今、最悪の状態に陥っている。

(どうすれば…どうすれば彼女を助けられる?)
 苦しそうに息をする彼女。何もしてやれない自分。
 言うべきことは山ほどあって、それを言わなければと引き摺っているうちにこんなことになって。結局何も言えないうちに、彼女に言葉を伝えることができなくなった。
……」
 彼女の手を取る。少し汗をかいている手。その額に手をやれば少し熱かった。熱があるのかもしれない。
「…プラーマ」
 手順をすっ飛ばして名前と念だけで聖母を呼び出した。急に呼ばれたためか少し驚いたような顔をしている彼女に、僕は「お願いだ」と頭を下げる。
「彼女を助けてやってくれ。僕では…何もできない」
 苦しそうに息をする。僕がこの世界に召喚し、あのどさくさでサプレスの天使と魂が融合してしまった人。僕に心をくれた人。僕が最も大切な人。
 そっと、頭に温かい手が置かれる感触がした。顔を上げればプラーマが微笑んでこちらを見ている。
『自分を追い詰めずに。彼女なら、私の助けがなくともロティエルと共に戦って勝つことでしょう。あの宝玉の誘惑に』
「……やはり宝玉のせいなのか」
 呟けば、彼女は頷いた。それから少し悲しそうな顔をして、『私では手助けすることができないのです』と言って視線を伏せた。
『あの宝玉はサプレスのものを狂わせます。彼女は今戦っている。あなたにできることがあるとするならば…見守っていることでしょう。彼女が目覚めるそのときまで』
 戦っている。彼女は。そうだ、彼女は戦っている。昔も今も、そしてきっと未来も。
 僕はそんな彼女の力になりたい。ほんの少しでいいから力になりたいんだ。
 プラーマに向かって僕は頷く。彼女が淡く微笑んで、『熱だけは取り払っておきます』と告げてその掌をの上にかざした。淡い光が生まれて彼女を一瞬包み込み、すぐに消え去った。
「すまない…感謝する」
 心からそう言えば、彼女は笑った。きらきらとした光の粒子になって霊界へと消えていく寸前、声だけがこう言った。
『あなたは変わった。だから大丈夫でしょう』
 もう間違えることは、と声が響いて、プラーマが完全に向こう側へと消え去る。
 一歩引いてこちらのやり取りを見ていた仲間達が「なぁはどうだって?」とか「プラーマは何を言っていた?」とか口々に言ってきたけれど、僕はただ首を振って「今はただ見守るしかないと、それだけ」とこぼしてベッドのふちに膝をついた。彼女の手を握って、少しは熱さの引いたことにほっとして息を吐き出す。
(今はただ、彼女を信じて待つしかない…)
 そうして君が目を覚ましたら、言えなかったことを言おう。僕が今まで隠していたことも全部、この想いも全部君に伝えよう。
 悩むのは、その後でもいい。