今年もまた『夏休み』という学生にはウェルカムカモンな暑い季節がやってきた。
 休みを満喫して部屋でぐーたらしていた私だったけど、両親から『弟が公園に野球をしに行ったまま帰ってこないから迎えに行って来い』という理不尽な命令を受け、渋々、暑さの残る十九時の道路をスニーカーで蹴飛ばして、帰りの遅い弟を迎えに行く。アイツが帰ってくるまで夕飯はお預けだと言うのだから、私にはアイツを迎えに行くしかなかったりする。ひどい仕打ちだ。私が何をしたというのか…。好きで野球馬鹿の姉に生まれたわけじゃないぞ。
 陽が沈んでも暑さが引かない温度が私の苛立ちの加速を手伝う。
 もう汗だくだしお腹は減ったしサイアクだ。これだから夏は嫌いなんだ。暑い。もう暑い。年々平均気温がジリジリと上昇している昨今、このうだるような暑さはそのうち『夏死』という現象を作り出すであろう。日射病と熱中症を合わせたような感じの死因だ。ほんと、毎日これだけ暑くて猛暑日が続けば、暑さで死人も出るって。
 だらだらと歩いてここらで野球ができるだろう一番大きい公園に到着。まっすぐ向かうは緑の金網フェンスで囲まれネットで蓋をされた場所だ。
「おいコラ馬鹿弟、飯だ! 帰るよ!」
 入り口の扉を押し開け、暑さで苛立った尖った声を出した私に被るようにカキーンと硬く高い音が響いた。野球らしいあの音だ。父親が好きで垂れ流す夏の野球大会的なあの番組で聞くヒットの音。
 つまり、誰かが投げた球を誰かがバットで打ち返したということだ。
 別にそれはいい。野球ができるようにと背高の緑の金網フェンス、上はネットで囲われている場所だ。間違ってどこかの家の窓ガラスを突き破るということはないだろう。
 しかし、ヒットボールが打ち出された場所が悪かった。
 瞬きを忘れた視界には、高速でまっすぐ一直線に私へ飛び込んでくる野球ボールが一つ。
(当たる。絶対当たる。頑張れ私。しゃがめ。転ぶ勢いで。または反復横跳びの要領で横っ飛びしろ)
 気持ちだけは回避方法を頭の中で唱えるのだけど、身体はついてこない。この暑さですっかりだれている。公園に来るまでの十分で体力を奪われているせいもあり、もともとそう運動が得意でない文系人間というせいもあり、間違いなく私を負傷させるだろう一撃を回避できない。
 目を閉じる暇もなく眼前まで肉薄しあろうことか乙女の顔に叩き込まれようとしていたボールは、突然差し出されたグローブによって回避された。
 バン、と目の前で大きな音を立てて茶色いグローブがボールを受け止める。
「……は、」
 危険は回避された、と分かって、一瞬のうちに緊張した身体から力が抜けた。砂のグラウンドにぺたっと座り込んではぁーと一人脱力していると、脇に立っていた誰かが合わせるように座り込んだ。「大丈夫?」と声をかけられて、ああコイツが寸前のところでボールを受け止めてくれたのか、感謝せねば、と顔を上げて。
 てっきり中学生にしては背高の誰かだと思っていたのに、違った。見慣れたスポーツ馬鹿の丸刈りではなかった。なんていうか、違う。スポーツ刈りじゃなくて白い髪を後ろの方で一つにくくっているし、目はピンク色をしてるし、あと、スポーツ少年らしい日焼けが少しも見られない。そう、どちらかと言えば、スポーツするって元気っ子というよりは、部屋で読書してるもやしっ子というか?
 はっきり言おう。タイプである。
「あ、ありがとう」
 そんなわけで、私の胸はさっきとは別の意味でどきどきし始めるわけである。「どういたしまして」と淡白に告げた相手がグローブで受け止めたボールをピッチャーに放って返す姿をぼやっと見上げた。
 いかん。いかんぞ。これはときめいた。しばらくぶりのどきどきだ。
(いいか? 落ち着け。落ち着くんだ私。きっかけは今できた。出逢いは今あった。それなら次のステップは? もちろんお近づきになることでしょう)
 とりあえず立ってみた。どのくらい身長が違うのだろうということを確かめたくなったのだ。で、見事に頭1つ分は違っていた。理想的な身長である。日本人男子は目標にしたくなるような高身長。
 私が弟を迎えに来たのだと知っている野球団は「てっしゅーう!」と片付けを開始していた。
「あの」
「…?」
 すぽっとグローブを外した彼が無表情に首を傾げる。なんだそのポーカーフェイスは。どきがむねむねだ。違う。胸がどきどきだ。
「今の、お礼に、ファミレスでも一緒に」
「ふぁみ…?」
 私の言葉にさらに首を捻った彼に、日本語の下手くそな自分を呪って、いや、今のは何もヘタしていないはず…と少し眉根を寄せて。それから言い直すことにした。「ご飯食べに行かない?」「ご飯…!」こっちは食いつき方がすごかった。ぽいっとグローブを放るとぶんぶん首を縦に振って激しく肯定された。これもまた意外である。まぁ男の子で運動するのに食べるの嫌いなんて子はそうそういないけど。
 というわけで、ちゃんと財布を持ってきた自分を褒め称えながら道具の片付けをしている弟に『あとは勝手に帰れや』と片手を振ってから、私より頭1つ分高い彼と連れ立って公園を出たのである。
 そういえば、まだお互い名乗ってもいなかった。
「えっと、私って言います。弟が今の野球チームに所属してて…で、迎えに来たの」
「弟」
「うん。まぁただの野球馬鹿です。えっと、そっちは? 野球少年…?」
 ふるふると首を横に振った彼は「僕は、多分、コノハっていいます」「…多分?」「多分」「コノハ、さん?」年上ならさんづけで呼ぼうという意図を込めたのだけど、彼は首を傾げた私に同じように首を傾げてみせる。
 …もしかしたらおバカさんなのかもしれない。野球少年に混じって野球に興じるくらいには。いやいや、それでも全然胸がどきどきしたままですがね。
「コノハさんはいくつ?」
「…何が?」
「年。年齢」
 私の言葉にコノハが黙り込んだ。ときどき上を見たり下を見たりしてどこかに答えがないかと探してるようだったけど、結局出てきた言葉は「分からない」という、誤魔化すにしてももうちょっと言い方があるんじゃというものだった。
 どれだけうっかりのんびり屋でも自分の年は憶えておくものだろう。誤魔化したくなる年ならまだしも、私と同年齢くらいなんだろうし。
 私が気落ちしたのを見て取ったのか、コノハは若干眉尻を下げて困った顔になり、それから視線を跳ね上げた。それまでどちらかといえばマイペースでのんびりという印象だったのだけど、そういえば最初に私を助けたときは私が気付かないうちに接近してボールを受け止めてくれたわけで、機敏な動きで運動はできるのだった、ということを思い出す。
 彼が腕を突き出して私の歩みを止めた。その急なことに驚いて足を止めて、彼がピンクの瞳でじっと見つめているものを追ってみる。
「…猫だよ?」
 そこには一匹、白と茶色のぶち模様のちょっとふくよかなお腹をした猫がダルそうに道路を横切っていた。
 ただ猫が道路を渡っているだけだというのに、コノハはさっきとは別人みたいなピリッとした空気を醸し出して、無言で私に動くなと言ってくる。その空気に逆らえずに口をつぐんで見守っていると、私達二人の視線の先で猫はどこかの家の門扉の下をくぐり抜けて見えなくなった。
 ほ、と息を吐いて腕を下ろしたコノハを見上げる。変わらないポーカーフェイスながらも、額に汗が浮かんでいる。「猫嫌いなの?」と訊いてみると曖昧な感じで頷かれた。そうか、じゃあ猫の話題はよそう、と胸の内で唱えて、再びファミレス目指して歩き出す。
 友達内でちょっと涼しいところで何かつまみながらお喋りってときファミレスは最適だ。値段がリーズナブルだし、まぁまぁ涼しいし、ご飯の時間帯で混み合わない限り退店の声をかけられることもない。遮蔽性がないのが気になるといえば気になるけど。
 辿り着いたファミレスで、コノハはメニューを前にピンク色の瞳を彷徨わせた。ご飯の単語に反応しただけあってご飯が大好きのようで、あれもいいこれもいいという感じでページを前後に繰っている。
「何食べたい?」
「…えっと」
 頃合いを見て声をかけたのだけど、まだ迷っているようで、視線はメニューの中を彷徨う。
 彼がマイペースだということを把握した私はそれ以上急かさず、彼に合わせ、自分はミートドリアにしようと財布と相談をすませる。ゆっくり話すことを前提でドリンクバーもプラスしようか。
 つい癖でテーブルに頬杖をついてコノハを観察してしまう。そんな自分に気付いてから頬杖はいかんだろと姿勢を直すのだけど、落ち着かず、結局また頬杖をついてしまう。
 ……白い髪か。染めたのかな。っていうか瞳はなぜにピンク色。カラコンだろうか? おしゃれに興味あるのかな。いや、年頃的に興味ないってなるとアレだしね。男子はいっきにダサくなるからな。それは女子も一緒か。言ってる私もそこまでおしゃれするわけでもないしな。ダサくはないだろうって気にする程度で今日だって弟迎えに行くだけのつもりでいたからジャージで来ちゃったし…。
 ………しかし、まだ決まらないのだろうか。もうだいぶ、十分くらいはメニューを見て悩んでいるはず。
「決まった?」
「えっと……」
 最初のページに戻ったコノハが牛百パーセントのハンバーグを指した。ふむ、と頷いた私に次のページにいってイカスミパスタを指す。まぁ男の子だし、野球したあとだし、お腹も減ってるんだろう、と頷く。次にコノハは魚メインの和風定食を指した。この辺りでんん? と眉根を寄せる私。ハンバーグにパスタに和風定食だと。それはさすがに食べ過ぎっていうか、食べれるのだろうか? 疑問に首を傾げた私にコノハも首を傾げた。そしてデザートにパフェまで指差す始末。
 まず、テーブルの下でこそこそと財布と相談。今月はもう何も買えないほどファミレスで散財してしまうことになるが、ないことはない。危うく顔面に野球ボールを食らうところだった私を助けてくれたコノハにお礼がしたいのも本当だ。これを機にお近づきになろうと企んだのも本当だ。これでコノハの中で私が好印象になるのなら願ったり叶ったり。手痛い出費だが堪えよう。
「食べれるんだよね? それ全部。ハンバーグとパスタと和風定食とパフェ」
 確認した私にコノハはぶんぶん頷いた。ポーカーフェイスに喜びの色が混じっている、ように見える。
 コノハの食べたいアピールに負けた私は、オーダーボタンを押し、今月一番の散財を決め込んだのだった。