その日、僕はミーンミーンミーンと蝉の声が響いている青い空と白い雲の下を歩いていた。隣には女の子が一人。この間野球をしていて知り合った。ふぁみれす、でご飯をたくさん食べさせてくれて、おいしかった。
 夏休みはもう終わった。それでも夏は終わっていないとばかりに蝉が訴えている。
 今日は、電車で行ったところの科学館で恐竜展がやってるってが教えてくれて、僕がトリケラトプスが好きだってことを憶えていてくれてて、だから、一緒に出かけることになった。
「夏は暑いから嫌いだったんだぁ」
 駅までの道のりで、蝉の声に負けないように声を張り上げたに僕は曖昧に頷いた。返す言葉が浮かばず、頷くことくらいしかできなくて、馬鹿な自分にがっかりする。
 遅れて気付く。嫌いだった、という過去形の言葉に。「…今は、嫌いじゃないの?」と遅いツッコミを入れる僕に彼女はへらっと笑った。「そうだね。今は前ほど嫌いじゃないよ」と。そうなんだ、と頷く。何か、いいことでもあったのだろうか。
 正面に顔を戻すと、行く道の先、灰色のアスファルトでゆらゆらと陽炎が揺れていた。
 ぴたりと足を止めた僕に遅れて立ち止まったが「どうかした?」と首を傾げる、その手を取って、別の道を行くためにすぐ横の角を曲がった。
 猫は苦手だ。あと、陽炎もあまり好きじゃない。つまるところ夏が好きじゃない。
「違う道で行こう」
「遠回りだよ?」
 困ったように眉尻を下げる彼女の手を握ったまま、夏の温度に溶けて消えそうな体温を意識した。
 夏休みが終わったから夏も終わるわけじゃない。気温は今日も高いし、陽射しは強いし、体感温度は予想気温よりも高いだろう。油断すればこの体温すら気付かないうちに消えてしまっている気がする。
(それは、嫌だ)
 遠回りして駅に行って、そこからは彼女が僕をリードした。僕は切符の買い方も曖昧だったし改札の通り方も分からなくて、電車だって遠くで見たことがあるだけで乗ったことなんて数回で、一人では絶対に科学館へ行くなんて無理だった。が教えてくれて、一緒に行ってくれると言うから叶ったことなのだ。
「コノハはあまり外へ出ないの?」
 電車の中で、通り過ぎる景色を眺めていると、彼女がそう訊いてきた。こくりと一つ頷く。「ニートってやつ? それともヒッキー?」「……?」言われた言葉の意味が分からず首を捻った僕に彼女は笑ってぱたぱた手を振った。「分からないならいいのいいの」と、少し困ったような顔で。
 自分に知識や常識が欠けていることは知っているし、気付いている。どうやらそうらしい、という程度だけど。
 ぼんやりと次の駅名が表示される電光板を見上げた。
(…そういえば、僕、いつからこうなんだろう)
 考えてみたけど、答えは出なかった。記憶を辿れるのは『先生』に会うまでのことで、そこから前は何もない。だから僕はこうなんだろうと思っているけど、ないものはしょうがない。先生に会う以前の自分がどうだったのか分からないけど、分からないから、気にしても始まらない。自分に都合のいい忘却の理由と理屈を並べて、隣にいる女の子に視線を移す。
 この子には普通に過去があって、常識と知識があって、世界のことを知っているんだろう。それは僕からすればすごいことだ。
 街中に突き立つビル群の中で、大きめで広めな敷地に公園が隣接している建物が科学館だった。今は恐竜についてのイベントを開催中。科学館というより半分博物館で、客引きを兼ねてよくこういう催しをやっている、とが教えてくれた。
「お金」
「え? ああ、ありが…って大きい」
 先生に『トリケラトプスを見に科学館に行く』と言ったら預けられたお金を渡したら、彼女は顔を顰めた。「こんなにいらないよ」と。「それしかなくて…」と返す僕にむむっと眉間に皺を刻んで、何か格闘したあと、ふう、と息を吐いて僕の手からお札を一枚持ち上げた。「じゃあ、崩したら残り返すね? お釣りね」頷く僕に待っているよう言ってから入場券だか何かを買いに行く背中を眺めて、視線をふわふわさせる。
 来たことのない場所。見たことのないものがたくさんある。
 あそこで売っているのは恐竜の商品だろうか。お釣りで買えるかな…。記念に何か買っていきたいな、なんて考えてそわそわしているとが戻ってきた。僕が見ているものに気付くと小さく吹き出して笑った。
「売店は最後に寄ろ、荷物になるから」
 こくり、と頷いて、こっちだよ、と手を引く僕よりずっと小さい女の子についていく。
 僕の方がずっと大きいのに、僕の方が何も知らなくて、だから、こんなに小さな女の子がとても強くて頼もしい。と言ったら女の子は喜ばないと彼女の弟に釘を刺されたので、言わないけど。
 恐竜展を満足するまで巡って、売店でトリケラトプスのお土産を選んだ。あれもこれも欲しいと手に取る僕に、預けたお金の残りを計算しながら付き合ってくれたはなんだかおかしそうに笑っていた。「子供みたいだよコノハ」と。
 知識がないという点では確かに僕は子供なんだろうと思う。背ばっかり大きくて、中身が伴っていない子供。
 歩き通しで疲れたから休憩しようと提案されて、建物内の小さなカフェに入った。メニューが文字だけで写真がないので何がどれなんだと困っている僕に「何が飲みたい? または食べたい? って言っても、コノハのお金残りがそうないから…うーん私が決めようか? 帰りの電車代もあるし」こくり、と頷いて返し、彼女に全て任せた。
 お金の計算とか、僕にはまだ難しい。さっきこれだけ払って今これだけ使うとしてそうしたら残りは、なんて、考えただけでも頭がいっぱいになってくる。
 喉が乾いたのでコップの冷たい水を口に含む。
 そういえば、何も飲んでいなかった。そんなことに気付かないくらいトリケラトプスに夢中だったようだ。
 トリケラトプスのラバーキーホルダーとぬいぐるみと恐竜がたくさん載った図鑑の入ったビニール袋に手を入れて、キーホルダーを取り出す。どこにつけようか迷って、ズボンの金具にキーホルダーを引っかけた。
 なぜトリケラトプスが好きなのかと言われると困る。個人の好み、としか言えない。または、僕には分からない以前の僕の趣味、とか。
 シンプルに言えば、かっこいいから、好きなんだと思う。
 人を呼んでオーダーをすませたがテーブルに頬杖をついた。彼女の癖だ。
「コノハって面白いね」
「…面白い、かな」
「うん。今まで色んな人と会ったけどさ、コノハみたいな人初めて」
 笑った顔をぼんやり眺めて、曖昧に頷く。
 …僕は、自分が何者で、教えられた『コノハ』という名前すら名乗っていいのかと曖昧で。よく分からなくて。記憶もほとんどなくて。物覚えは悪いし、分からないから一人で行動できないし。そんな残念な自分は、人と一緒にいるときによく自覚する。
 人に迷惑をかけたくないのなら、一人でいればいいんじゃないかと思うこともあるけど…それは、やっぱり、寂しいから。僕と一緒にいても大丈夫だって言ってくれる人と一緒に、いたい、なぁ。たとえば、目の前の君とか。
 暑さがピークの時間帯を避けて、夕方に科学館を出たら、目の前をサイレンの音と赤いランプの車がいくつも通りすぎていった。「何かあったのかな」と顔色を曇らせた彼女が携帯を取り出して操作し始める。僕は黙って道路を走り去る車を見ていた。
 赤い色。サイレン。
 じわり、と背中に嫌な汗が滲んだ。感覚が麻痺しているかのように今日の暑さすら曖昧だった僕が、はっきりと感じたそれは、この現実に過去の体験を重ねさせた。
 夢。だった気がするけど。それが体験として植えつけられるほど何度も何度も同じ夢を見た。目の前で少女と少年が繰り返し死んでいく夢。僕はただの陽炎で、手を伸ばしても触れることも叶わず、助けたいと願っても何も力になれず、ただただ、全てを見ていた。

 炎天下。
 赤い色。サイレンの音。
 伸ばしても届かない手。
 叫んでも伝わらない声。
 ぐるぐる繰り返し繰り返し回る毎日と変わらない悲劇。

「あ、あったこれか。…なんか、事件があったんだって。っていうか現在進行形かなこれ…ちょっとヤバめ。殺人犯逃走中だって……コノハ?」
 ぱし、との手を取る。殺人犯ってものが何か分からないけど背中は相変わらず嫌な汗をかいている。「どこか、入ろうよ。危ない、んでしょう」「そうだね。科学館の売店でも冷やかそうか…?」こくこく頷いてぎゅっと小さな手を握って一歩目を踏み出して、二歩目を踏み出して、僕の歩幅に追いつこうと慌てた感じで彼女が一歩目を踏み出し、
 高い悲鳴が夏の空気を切り裂くようだった。
 声に驚いたんだろう、背筋を強張らせて悲鳴が上がった方に顔を向けるの足が止まった。手を引かれるような形で僕の足も止まる。
 少し向こうの通行人の女の人の腕から赤い色がしたたっていた。「退けぇ!!」と大振りのナイフを振り回す、どう見ても健康的ではない顔色の男が一人、こっちに向かって走ってくる。「お前らも退けえッ!」と罵声を浴びせられてびくんとが震える。その横顔を見て、泣きそうだ、と思う。
 反射だった。自分がそうできると知っているからこその。
 身体を強張らせて動けないを両手でひょいっと抱き上げて、片方の肩に担ぎ上げて、跳んだ。だん、と強く地面を蹴り上げ、脅威の届かない場所を視線で探し、跳べる距離も計算して科学館の屋上を選んだ。衝撃がいかないようにを両手で胸の前に抱き直して、ずだん、と両足で着地する。
 ふう、と一つ息を吐いた。振り返れば、さっきまでいた場所では走ることも忘れて呆気にとられた様子でこっちを見ている殺人犯がいる。
 …よかった。何事もなくて。僕に、この力があって。
「こ、こここここ」
 聞こえた声に視線を下げると、抱えたままのが口をぱくぱくさせていた。「……?」何が言いたいんだろう、と首を捻ると、「こ、こ、コノハ」「何?」「いや、いやいやいやいや! なんでそんなふつーの顔してるの。スーパーマンなの? ねぇ何今の。明らかに、なんていうの、スーパーマンだったよね? ねぇ」スーパーマン、と復唱する僕に、がなんでか泣き出すので、とても困った。どう、すればいいんだろう。泣いてほしくないんだけど。どうしたら泣き止んでくれるんだろう。
「こ、こ、怖かったよぅ」
「う、うん。でも、もう大丈夫」
 目に痛い赤いランプが見える。サイレンの音が聞こえる。
 ようやく逃げることを思い出した殺人犯が警察の包囲に囲まれた。
 事件は終わる。ちゃんと終わる。今日は今日で終わって、明日はやってくる。それが普通のことなのに、それが変だと感じる心がまだ残っている。
 事態が収束するまで、僕らは科学館の屋上にいた。まだ泣いている彼女を腕に抱えて、夏の陽射しに晒されそれなりに熱いことになっている無機質な床の上で胡座をかいて、暮れていく空を眺める。
 ……この現実で、僕は守りたいと思った人を抱いて跳べた。
 なら、次もきっと大丈夫。大丈夫。この手は届く。

「うぃ」
 ほら、この声も届く。
 ずび、と洟をすすって鼻声の彼女の目元は赤い。でも、目は普通だ。日本人の色。彼女は何も知らない。何も関係ない。もしかしたら僕と一緒にいない方が彼女のためなのかもしれない。
 それでも、トリケラトプスのキーホルダーが、お土産として買ったぬいぐるみと本が入った袋が、彼女と一緒にいたからこそ得られたものがあることを訴えてくる。
 こんな、僕が。何かを求めたり、好きになったりしていいのか、分からないけど。
 細く息を吐き出しながら、まだ残る暑さにその体温が紛れて消えてしまわないよう、確かめるように抱き締めてみる。
(君が、無事で、よかった…)