「ラビラビ早く! 遅刻しちゃうっ」
「ちょ、と待って待ってオレ転ぶ! 転ぶからっ」
 ブーツで石畳を蹴り上げる音が朝市の人ごみの中に響く。なんだなんだとこっちを振り返る奴もいれば慣れた光景のようにスルーの奴もいるし、見るからに朝市目当てなおばさんなんかはこっちのことなんて気にしちゃいない。
 見慣れた大きなパラソルの下で見慣れた露天が軒を連ねた人の押し合う狭い道。ここは通学路にはない抜け道だ。通学時間帯は朝市でこむってことで一応使用は禁止されてるルート。だけど学校への近道でもある。プラスに今の遅刻しそうな状況なオレらからすると、この際朝市を突っ切っていくしか校門が閉じる前に間に合う気がしない。
 バスを飛び降りてから彼女が急に駆け出すもんだから危うく転びそうになった。ようやく体勢を立て直して彼女の手をしっかり握って、今度はオレが彼女を追い越して先を走る。人が邪魔なのはもうしょうがないからそれを上手に両の視界で見極めて避けながら、「だいじょぶかよ息切れてんぜ」と引っぱられるまま走ってる彼女に声をかける。あははと笑った彼女が「ああもー、寒いからかじかんでるよ手足が。寒いよラビ、寒い。しんどい」「遅刻すんじゃんよ、あと五分」「うーっ」白い息を吐いた彼女は確かにしんどそうだ。
 そこで、頭のどこかで何かが引っかかる感じがした。
(ん? なんだろ)
 いつもの通学路。は無視してるけど遅刻しそうになれば走り抜ける朝市の煉瓦歩道。いつものようにちょっと着崩した制服にコートにマフラー。彼女がおそろいのマフラーを風になびかせてる。いつもの制服姿だ。何もおかしなところなんてない。
 上手に人を避ける道へと彼女を誘導しながら走ってどうにか朝市の通りを突き抜け、一息吐いて顔を上げる。白い息を吐いて「ま、ラビまって。まって」「もーすぐ。走らんと間に合わない」「うー」彼女が石畳を蹴る。「走る、走るから引っぱって」と言われて言われるままにまた走り出した。もうちょい、あと四分。

 それでどうにか校門が閉まる前に学校にたどり着けた。残り二分のところで校門をすり抜け、彼女がそこでへなへなと崩れ落ちて「だ、だめだ。もう無理走れない」と息を上がらせる。オレも息が弾んでたから何度か深く深呼吸した。空気が喉に冷たい。
「ら、ラビ。あと何分?」
「んー一分。いんじゃねぇの、敷地内入ったならセーフさ」
「う、ん。でも出席、教室いた方が」
「そりゃいれたら一番だけど。って、きたぜ」
 いくらか整った息で曇り空を仰げば、ぱたぱたと二つこうもりみたいなものがこっちに向かって飛んでくる。こうもりに見えて実はこうもりじゃないそれ。人口の黄色い一つ目にこうもりっぽい羽のついた、この学校の敷地内に入ると生徒の安全のためにと飛んでくるゴーレムだ。敷地内に入ればどうやってもそのゴーレムに見つかる仕様になってるらしい。だからこれで教室にいなくても実質学校にはいるってことは上に伝わることになる。
 かちかちかちと黄色い目が動いて『ラビに。二名を確認』と機械音声が響いた。それからざざとノイズが入って『こぉらまた君らか!』と怒声。きーんと耳に響くそれに空いてる片手で蓋をしつつ「あーすんませんせんせ。またぎりぎりで」『全く、ぎりぎりすぎる! 本来なら遅刻扱いになるところだぞっ』「はーいすんません。授業には間に合うようにするんで」まだへろへろな彼女のためによっこらせとしゃがみ込む。ほれ背中と示してみせれば顔を上げた彼女があははと笑った。それから大人しく背中におぶさるので、よっこいせと立ち上がってざくとブーツで土を踏みしめる。
「今から行きまーす。そんな怒んないでよルベリエせんせ」
『早くしたまえ! それから、本来なら君は歩くべきだぞ!』
「はいー、すいません。体力尽きたのでおぶさってまーす」
 背中で力なく笑った彼女。まだぶつぶつうるさい先生の呟きを漏らしながらゴーレム二つが飛び去っていった。中央の大きな時計塔を見上げて時刻を確認する。あー、八時半。まじギリだった。
「はぁー、今日の敗因はラビの寝坊よぅ。なんで寝坊しちゃうかなぁ」
「悪いって言ってんじゃん。ちょっと本読んでたらいつの間にか二時でさー、オレも慌てて寝たんよ」
「もー」
 それで教室。彼女がぷんすかと機嫌を損ねるからオレは両手を合わせて謝り通しだ。それで前の席にいたアレンがぺしとオレの頭にチョップを入れて「を困らせるもんじゃないですよラビ。本読むなら時計も気にしてください、ラビはすぐ没頭する悪い癖があるんですから」「お前のイカサマほどじゃないけどな」ぼそっと言い返したらばこんとさらにチョップをくらった。痛いっての。
 頭をさすりつつ顔を上げる。彼女はまだ怒ってるらしい。というか単純に疲れたから怒ってるんだろうけど、オレが夜更かししたことにっていうよりは。だからぱちんと手を合わせて「帰りどこでも寄り道付き合うから。な、だから機嫌なおして」と笑いかける。
 彼女はむすっとした顔をしながらも一つ頷いてくれた。だからふうと一息。
 さすがに恋人の機嫌が悪いまま授業を受けるのは気がひける。というか普通に気になって授業にならんし。
 さてなんだっけな最初はとごそごそポケットから手帳を取り出した。前期の授業予定が組んであるそれの週予定表を睨みつけて「今日何曜日だっけ?」「金曜ですよ」「に訊いたんだけどなー…はいはい金曜ね」金曜日は七限まで授業あるから好きじゃないんだよなぁ。そう思いながらざっと時間割を見てぱたんと手帳を閉じる。
「…なぁまだ怒ってる?」
「ちがーう。まだ疲れてるの…朝から全力疾走は疲れる」
「ごめん」
 力なく座り込んでる彼女の手に手を伸ばしてぎゅっと握った。暖房の入ってる教室ではマフラーも手袋もいらないくらい暖かい。彼女の手をあたためる必要なんてない。これはオレがただ彼女の手を握りたかったから、ただそれだけ。
 小さく笑った彼女がオレの手を握り返してくれた。こてんと机に顔を預けて「ラビの甘えんぼめ」と言われて、だからオレは笑った。「わるーございましたね」と。彼女がくすくすと笑う。「悪くはないよ」と。
 アレンがやれやれって感じに肩を竦めて前を向いた。気付けばもう始業時間で、がらがらと開いた扉からバク先生が入ってきたところで、ああもう授業かと時計に視線をやってリンゴーンという鐘の音を聞く。
 ぎゅうと彼女の手を握ってから離した。
 授業はちゃんと聞かんと。そろそろ試験が待ってるし、抜き打ち小テストってのもたまーにあるし。プラス成績上位者ってことで補助受けてるオレなんかは特に気が抜けない。別にトップにいなくちゃいけないってわけじゃないけど学年全体の四分の一、それ以上の成績を収めないとならないんだから。
 まぁ祖父の手一つでよくオレもここまで学校に通えたもんだと思う。あのじじいにはまぁ、感謝してる。学校は別に教養と看板程度の認識しかなかったけど、でもオレは。ここにきたから彼女に会えたんだ。
 授業中、ちらりと彼女を横目で確認する。眠そうに欠伸をしたりたまにほんとに寝そうになってるから、そういうときはこっそり起こす。くーと寝息を立てて平和そうな寝顔の彼女を見てるのもまぁいいんだけど、彼女はそう成績優秀ってわけじゃない。きちんと授業聞かないと、オレの倍は勉強せんとオレに追いつけないくらいだから。そういう意味で心配だしでオレは彼女を起こす。起きた彼女は眠そうに目をこするんだけど、オレと目が合うとえへと笑ってありがとと声なしで言ってくれる。だからオレも声なしでどういたしましてと返す。そんな感じ。
 それでお昼になる。オレはなるべく学費を抑えたいもんだから自炊派。自炊って言えば聞こえはいいけどつまりまぁ握り飯をいくつか。それでそんなオレに気を遣って彼女もお手製の弁当だ。ちょっと大きめサイズのそれにはオレのためにおかずが倍入ってる。そんな幸せな弁当を学校へ行けば毎日食べられる。
 オレは幸せ者だ。

「んーんまいー。さんきゅーな、まじうまい」
「そう? おにぎりだけなんて私の方がラビ心配しちゃうもん。ご飯くらい作ってくるよ」
「オレのはしょうがないー。バイトとかすればもうちょい生活に余裕出ると思うんだけどさ、じじいは学校に行ってる限り学業に専念しろ! ってバイト許可してくれないんさ」
「そっか。おじいちゃん元気?」
「おー元気。相変わらず針治療でやってってるよ」

 ベーコンエッグを口に突っ込む。中庭の白いベンチは午後の陽の光でそれなりにあったかかった。風が通り抜ける場所はさみぃけど。いつか彼女お手製のケーキとかも食べたいなぁと思いながら顔を上げる。「どしたん?」と首を捻れば彼女がふるふる首を振った。視線がオレ以外にいってないか
 首を捻りつつばくとサラダの方に食いつく。あー贅沢。うちの夜ご飯でもこんなには食べないぞ。だから痩せてるって言われんだろうけどとか一人思ってたら彼女が席を立った。口に物を突っ込んだままだったから慌ててごくんと飲み込んで「、どしたんさ」と彼女を追って振り返る。振り返った先にはなぜだか優等生で有名な神田ユウ。に彼女の姿。

「ユウ」
「…、名前で呼ぶなって言ってるだろ」
「ごめん、カンダって言いづらくて。ね、バクせんせがさっき探してたよ」
「あ? ゴーレムは来てねぇぞ」
「うん、なんか渋ってたみたいだから。よくわかんないけど行ってあげてユウ」
「ちっ」

 舌打ちしたユウちゃんがこっちに気付いてあからさまに顔を顰めて逸らしてみせた。何その反応と思いながら「ー」と彼女を呼ぶ。ばいばいとユウちゃんに手を振った彼女と、その彼女にちっさく手を振り返したユウちゃん。え、何それ。オレよりユウちゃん優先?
 ぱたぱた戻ってきた彼女が「ごめんラビ、せんせに頼まれてたから」と言ってベンチに腰かけた。オレはちょっとむすっとしながら「えー、なんでさ。なんでユウちゃん」「バクせんせはユウのしかめっ面が苦手なんだって」苦笑した彼女がオレの頭をぽんぽんと叩く。「嫉妬した?」なんて言われてぷいとそっぽを向いて「べっつにー」と返しつつはむと自分で作った握り飯を頬張る。やっぱり彼女のご飯のがおいしい。
(…もしかしなくてもあれか? オレはもうちょっと自分がの彼氏だってことをアピールした方がいいのか?)
 ちらっと自分を振り返る。ここはあくまで学校だし学業をするための場所だから、あんまり手を繋ぐとかキスするとか公じゃしない。つーかそんなことしててもし学校の敷地内を飛び交うゴーレムに偶然にでも目撃されたら、まず担当のマルコム先生からすんげー怒鳴られそうだし。いや確実に怒鳴られてどんな処分が下るか。そういうのは避けたいし波風立たない方がいいと思っていつも通りだったけど、もうちょい彼氏だぞってアピールすべき。なんだろうか。周囲に。
 うーんと頭を捻らせていたところに、昼休みどき学校の校庭内を移動して回ってる販売車が来た。彼女がぱっと顔を輝かせて「ワッフル! 今日ワッフルだよラビ」と嬉しそうに笑う。言われて目をこらせば確かに今日はワッフルっぽい看板を掲げてた。よく分かったなぁ
 財布を手に立ち上がった彼女が「ラビ何がいい味。おごったげる」「えー、いやいいよ。悪いし」「いいの、寒いしあったかいワッフル食べよ。ね」彼女に笑いかけられるとこっちとしてはもうそれだけで十分なんだけど。だいたい彼女におごらせるってのもあんまり、気分いいもんじゃないし。これじゃオレが彼女の世話になってるだけに見える。
「あー、ほんといいよ。オレはほら、残ってる握り飯食わんと」
「そう? じゃ私買ってくるよー」
 ぱたぱた駆けていく彼女の後姿と揺れるスカートを見つめて、それからぶんぶん首を振ってばくと握り飯に食いつく。途中でアレンと行き会った彼女が笑って何やら会話してる。そういやアレンも甘いもん好きだったっけか。
(むー…恋人かぁ)
 ふっと陽がかげって顔を上げる。分厚い雲が太陽を覆い隠していた。風でそのうち流れるだろうけど、陽の光がないとやっぱさみいや。
(オレは幸せもんさ)
 目を閉じる。午後の授業はあと三つ。それが終わったら、今日は寝坊した代わりに彼女の予定に付き合わないと。女の子らしく買い物がいい、雑貨がみたいと笑った彼女と一緒に帰るんだ。なんだか幸せだなほんと。オレはこんなに幸せでいいんかな。
「ラビーっ!」
 呼ばれてぱちと目を開けて振り向けば、アレンが紙袋いっぱいのワッフルを持って隣にいた。「アレンが一つ分けてくれるって! よかったねラビっ」と言われてはいと差し出されたワッフル。チョコのかかってるそれを受け取りつつ「いいのかアレン、オレ金ないぜ」「知ってますよ。調子に乗って買いすぎたんで一つおすそわけです」にこっと笑ったアレンがすっとオレの前を通り抜けざまぼそりと付け足した。「彼女と仲良く」と。カードでイカサマするときの黒い声で。
 ぞぞっと背筋が寒くなる。腕をさすりつつもらったワッフルに視線をやった。た、食べていいもんだろうかこれ。
「どしたのラビ」
 きょとんとした顔の彼女。ははと空笑いして「いや、うん。なんでも。食べるけどさ」それで恐る恐るぱくとワッフルを口にした。焼きたてだけあって確かにあったかい。それにチョコがかかってるからちょっと溶け出してんだけど、甘いな。これ。女の子なら確かに好きそうだ。よかった、妙な薬の味とかしなくて。
 隣で笑ってる彼女。満足そうに苺のチョコがかかったワッフルをほおばってる。幸せそうだ。オレも幸せで彼女も幸せなら、ほんとにもう言うことないな。
ー、そろそろ次の授業の準備しましょ。私とあなたが今日道具の当番よー」
「はーい、ごめんリナリー今行くねーっ」
 リナリーに呼ばれた彼女が慌ててワッフルをもごもご口に入れた。それから空っぽになった弁当箱を片付けて「ラビまたあとでね」と行っちゃうもんだから、オレはぽつんと一人残されて彼女の後姿を見送った。
(ああそうか、次実験か。忘れてた)
 そういやが当番だったっけ。危ね、オレも彼女のことは憶えてないと。リナリーに感謝。
 最後の握り飯を胃に突っ込んで立ち上がる。ぐっと伸びをして手提げをぶら下げて教室に戻った。移動ならオレも早くいこ。することもないし、何より彼女のいない空間に長くいる理由も全然ないし。
 はぁと息を吐き出す。陽が沈みかけてる夕刻だっていうのに吐く息はもう白かった。
「終わったー。休みだなぁやっと」
「うん。ラビ予定は?」
「んー、じじいの手伝いがちょっとね。親孝行はせんと」
「そうねぇ。私も家族と出かけるから、おあいこかな」
「そっか」
「うん」
 校門を出る。下校時刻はぱたぱたと例のゴーレムが飛んでて生徒が出て行くのをじっと見ている。そうして校門から出ればあのゴーレムの目に見られることもなくなる。あれはあくまで生徒が校内に入った場合の安全面を保証するシステム。敷地外は論外だ。っていうかそこまであのゴーレムに見られてるのもやだし。
 敷地外だ。だから彼女と手を繋いで、行きはあんなに走ってきた道を今はゆっくり気の向くままに歩いてる。
 石畳をブーツが行く音が二つ分。彼女がマフラーを口元まで上げて「寒くなったねぇ」とこぼす。オレも片手をポケットに突っ込みながら「そうだなぁ」と相槌を打った。「すっかり陽も沈んじゃうし」「うん」「気をつけないとね。私はラビが送ってくれるからいいけど、最近物騒だし」困った顔で笑ってみせる彼女。だからオレは眉尻を下げた。オレが送るから安心していいってことでもないと思うんだけどなこれは。
 最近問題になってる貧困の差。ここのところそれで犯罪が多発してる。この地区でもそうだ。あの学校が厳重にゴーレムなんてものを用いてまで安全面を強調するのもそう。それだけ現代は危ない時代になってきてる。そんなオレも補助受けないとやってけないような生活してるし、犯罪はスリから人殺しまでごまんとある。気をつけるだけじゃ色々足りないんだけどな、ほんとは。
 まだ学生だし、彼女と付き合いだしたのはいつからか、よく憶えてない。だけどオレにとって彼女はとても大切だ。できるなら将来結婚とかして奥さんになってもらって、ずっとそばにいてもらいたいって思うくらいに。彼女を守って生きていきたい。オレはそう思ってる。
(…なんて。今から何考えてんだか。オレはまだ学生だよーっと)
「ラビ、こっち」
 物思いにふけってたらぐいと手を引かれた。つんのめりながら「あ、れ帰り道は」「もー、寄り道付き合ってくれるんでしょ。こっち」ぶうと頬を膨らませた彼女にあははと笑って「憶えてる憶えてる、わりぃ」と返して隣に並んだ。大通りから一本の小道に入る。
 人が二人並んで通れるだけがやっとの狭い道だ。こういうとこは犯罪場所になりやすいからなるだけ避けるようにって学校から言われてる。けどまぁ、今はオレがいるからいっか。
「どこ? 雑貨屋さん?」
「もうちょっと。そこの角曲がったところに看板見えると思う」
 それで言われた通り角を曲がる。曲がったところで壁から小さく突き出てる看板が目に入る。あれはー、ペガサスか。遠めだから両目使ってもよく見えんけど、たぶん。
 そこで、頭のどこかで何かが引っかかる。また。
(ん? …なんだろ。朝もこんなのが)
 くしゃと髪に手をやった。両の目頭に軽く指を当てる。冷たい自分の指先が分かる。
 これは。なんだろう。
「ラビ?」
 ひょこと彼女に顔を覗き込まれた。ぱちと目が合う。あははと笑って「いや、なんも。それであれ? の言う雑貨屋さんて」「そう、看板からしてかわいいでしょ? ちょっと奥まったとこにあるからあんまり知られてないんだけど、かわいいものがいっぱい置いてあるの」彼女が嬉しそうに俺の手を引いて歩く。そのうち我慢できなくなったのかオレの手を離して駆け出す。おそろいのマフラーが風になびいて揺れる。
 くるりと振り返った彼女、路地から射し込む斜陽。眩しいそれに目を細める。
 何かが遠い。
待った」
「ラビはーやーくー」
「なぁ待った。ほんとに待った」
「?」
 足を止めた彼女。大股で近づいてがしとその手を掴んだ。「離しちゃやだっての」と言ったら彼女がくすと笑った。「ラビは甘えんぼだなぁ」と。こつと彼女の頭に頬をぶつけて「うるせーやい、じじいにこんなことできっか。オレにはだけなんさ」とこぼせば彼女が困ったように笑う。それからオレの手をぎゅっと握って、離した。
 するりと体温が抜け落ちる。オレの掌から。
?」
「…ほんとに私だけなら。そろそろ目を覚ましてラビ」
 彼女がなんだか悲しそうに笑う。だからオレは彼女に手を伸ばす。その肩を掴んで引き寄せて「何が、目を覚ますって。オレ起きてるし。今日の寝坊は悪かったよほんと、でも」「違うわラビ。ねぇラビ」腕の中で彼女がオレを見上げて、白い指先がオレの右目に伸びる。そうしてその掌が右の視界を塞ぐ。
 そこで、かち、と頭の中で何かがはまる音がした。
(あ、)
 左だけの視界。眩しい斜陽。悲しそうに笑ってる彼女。現実が歪む。今日の朝がオレの中から消える。彼女と懸命に走った朝市の風景が頭の中から消えた。彼女と過ごした授業の時間も、風に吹かれるように自然にぼろぼろと記憶の中から崩れていく。
(いやだ…、いやだっ)
 逆らうようにきつく目を閉じた。閉じた視界の中でもどうしてか彼女が見える。「ねぇラビ」とオレに囁く彼女が。

「夢は幸せだわ。この夢はすごく幸せ。でもね、現実の私は泣いてるのよ。あなたがずっと目を覚まさないからって泣き濡らしてるの。毎晩毎晩、誰もいなくなった病室でずっと」
「…、」
「ラビ。もう目を覚まして。ほんとの私がかわいそうだわ。あなたは学生なんかじゃない。あんな学校なんてない。ねぇラビ、知ってるよね」
「オレ、は」
「ラビ」

 ラビと。囁く声で薄目を開ける。左の視界だけで。制服姿の自分と制服姿の彼女。それがさらさらと砂のようにとけて崩れていく。
 彼女を抱いていた手が、腕が、全部が感覚を失う。
(…これは。夢なのか)
 思った瞬間。視界が焼け、全てが幻のように掻き消えた。
(……いてぇ)
 目を覚まして、暗い天井を見上げて。最初に思ったことはそれ。とりあえず全身痛いってこと。
 それから左の視界で視線を彷徨わせる。彼女の姿を探す。
 ラビ。もう目を覚まして。そう言った彼女の声は泣きそうだった。
、いるんだろ。…
 と。動くことができない身体で彼女の名を呼んだ。夜の帳が落ちてる病室は個室で、それなりに長い時間がたってるというのは自分の声の掠れ具合いでわかった。オレこんなしわがれ声じゃねーし。
 つまりそれだけ、時間を空けてたってことだ。オレは。次期ブックマンがなんたる失態。
 次期ブックマン。
「…、ああ。なんだ。いた、のか」
 右の、見えない視界の方。耳をすませば一人分寝息が聞こえた。まだ寝てるんだろう。そう思って顔だけはどうにかそっちにこてんと向ける。彼女がいた。制服は制服でもエクソシストの団服を着た彼女が。その首にはおそろいのマフラーが巻いたまま。
 もしかして任務帰りとかで寄ってくれたんだろうか。そう思いながら細く息を吐き出す。どっか骨もやられてそうだな、この分だと。
 それから気付いた。自分の手がさっきから拳を握ってることに。何かを握り込んでることに。ぎちぎちの身体でどうにかその手を目の前に持ってきて、どうにか拳を崩す。掌からこぼれ落ちたのは何かきらりと光るもの。
(…あ)
 ガラス製だったかなんだったか。四葉のクローバーが入った月の形をしたそれは、彼女が首にまいてるマフラーを止めるのに使ってる留め具についてるそれと、よく似てた。彼女のは星の形をしてる。よく似た、四葉のクローバーが入った、ガラスか何かでできてるキーホルダ。
 記憶を手繰り寄せれば少し前に内緒と言って彼女がオレにくれた、恋人同士が持ってると幸運を運んでくるっていうあれ。
 小さく笑う。何が幸運だ。オレはこれが吹っ飛んだから、彼女がせっかくくれたものをなくすわけにはいかないと、アクマと混戦中なのも忘れて手を伸ばして。それで。
(いや。彼女は悪くない。悪いのは、オレだろ。…全部)
 ぱたと手を落とす。身体に力が入らない。一体どんな攻撃食らったんだオレ。さっぱり憶えてないぞ。記憶すら飛んだってか。あーもーかっこわりい。
 何より彼女に迷惑かけたし心配かけたし。この分だとさすがのじじいも心配してそうだ。
(…夢。いい夢だったと思ったんだけどな)
 そこにいる本物の彼女を見つめながら、もうぼんやりしてる夢を思い出そうとした。だけど無理だった。記憶力には自信があるけど夢は別物。苦い夢はなんとなく憶えてるもんだけど、憶えてないってことは。まんざらでもない夢だったってことかな。
 はぁと吐息して目を閉じる。あー全身痛い。オレちゃんとまた戦えるかな。でないと困るけどさ。だって泣いちゃうだろうし。そんなことを思いながら落ちた手でもう一度幸運を運んでくるっていうそれを握り込んだ。
 ほんとに幸運運んできてくれるんなら、今彼女にお早うって言うことくらいさせてくれよ。
「…あ」
「、」
 ぱちと。それで彼女の目が開いた。ほんとに。それでぱちぱちと瞬きした彼女がぼんやりした顔でこっちを見て、オレと目が合うとぱちと一つ瞬きして。「ラビ?」と呼ばれて「お早うさん」と返せば、彼女がまた瞬きして。それからがばと起き上がって「ラビ、ラビ目が覚めたのねっ? よかった、よかった」と泣き始めるもんだからオレはほとほと困り果てた。願っておきながらなんだけど、幸運ってこんなことを呼ぶんじゃ。
 ひっくと泣きじゃくる彼女が「し、しんじゃったかと思ったんだからね。ひどかったんだからね、怪我。ラビのばかー、ばかラビぃ」泣きじゃくる彼女を抱き締めたくてももう腕が動かない。身体が動かない。口だけどうにか動くけどそのうちまた眠ってしまうだろう。疲れがたまってる感じがする。彼女と言葉を交わしてたいし彼女の存在を感じてたいし彼女を見ていたいけど、しょうがない。
「ごめん。ほんと、ごめん」
「う、うるさい、謝ったって許さないんだから。う、ううーっ」
「ほんと、ごめん。さ。泣かんで…オレ動けんから、抱き締めてもやれないし。涙、ぬぐってもやれない、し」
「うー…っ」
「…ほんと、ごめ」
 声が掠れる。オレはどのくらい眠ったままだったんだろう。正しくは昏睡状態ってやつか。生死の間を彷徨うってのはやっぱ気分いいもんじゃないな。オレよりも、そんなオレを見てる奴の方がもっと。
 彼女に触れたい。でも叶わない。キスの一つでもしてやりたいのに。
 次期ブックマンは、オレにはもう失格かもしれない。
…オレ自分で動けん。から」
「ひっく、う、」
「だから、顔近づけて。キスしてよ」
 彼女がごしごしと袖で涙を拭った。ぐすと鼻を鳴らして「ばかラビ」と毒づかれる。どうにか笑って「ばかで結構。にならばかのままでいられるさ」とこぼす。納得してない顔の彼女がちょっとむくれた顔でちょんとオレの唇に唇を押しつけた。やわらかい感触と温もり。彼女の。
 ゆっくり目を閉じた。まだ全身痛い。眠ってしまいたい。
(わりぃじじい。もしもそうなったら、ほんとに。わりぃ)

 ラビ。彼女にそう呼ばれることにオレはもう疑問を感じなくなった。
 ラビ。49番目の名前。オレはそれを、自分の名前にしたい。

好きになるのを
許して下さい
(幸運の四葉のクローバー。できるならオレと彼女を、ずっと繋いでて)