狂ってしまいたくなる、これが現実

「じゃーん」
「…何ソレ?」
「望遠鏡って言うんだってさ! 遠くのものがよく見えるらしいんだ。これで覗けば空の譜石もよく見えるかな?」
 信託の盾兵士の制服を着ている少し劣化した赤毛を持つそいつは、一人ではしゃいで望遠鏡とやらの箱を開けた。
 譜石なんて見たとして、ちっとも面白くないし、意味を感じない。そうやってそっぽを向いて知らん顔で読書を続けていると、箱から組み立て式の望遠鏡を並べて説明書を眺め出した相手の顔がどんどん難しいものに変わっていった。「え? こう? いや、違うか。こっちを…こうか?」一人ぶつぶつ言いながらでたらめな組み立てをして、当たり前だけど、望遠鏡は自立できずにがっしゃんと倒れた。
 はーと息を吐く。本を閉じて脇に置き、仕方なく、一人あわあわと慌てて騒がしい奴のそばに行く。
「ルーク」
 呼びかければ、相手はボクを見る。本物よりも劣化した赤い髪と瞳。レプリカであるルークがボクを見上げて「シンク、上手くいかない」と情けない声を出す。
 はぁ、ともう一つ息を吐いて説明書をつまんで斜め読みした。
 なんでボクがこんなことを、と思いつつ、期待の目でこっちの手元を見てるルークに気圧される感じで望遠鏡を組み立てる。
 譜石なんか見たって絶対面白くも何ともない。星空を見たいっていうんならまだ分かるのに、どうして忌々しい譜石なんかが見たいんだ。
「ルーク」
「ん?」
「もしかして、読めないの? この説明書の文」
「う」
 図星を突かれて口ごもったルークが「だって、難しい言葉が並んで…俺はまだそういうのは、読めない、し」ごにょごにょした声にはーと息を吐く。
 一応教育係を任された身としては嘆きたい話だ。ある程度は刷り込み式で分かってるとはいえ、基礎の基礎しか分からない君にココのルールとか日常生活その他を教えたんだ。もうちょっとボクの教えを活用してよね。
 望遠鏡を窓際に置き、遠い空に浮かぶ遠い譜石を睨みつけてセッティングする。ピントの合わせ方も知らないルークに代わって望遠鏡を覗き込んで、別に珍しくもない譜石に焦点を合わせる。
「はい」
 ボクが退けば、ルークが輝いた顔で望遠鏡を覗き込んだ。「おーっ、すごいよく見える!」とはしゃぐルークに呆れる。
 …これじゃあまるで子供だな。そんなことを思ったとき、カンと部屋をノックする音が響いた。仮面越しに扉に視線を投げる。それまではしゃいでいたルークがぴたっと静かになって扉を振り返った。
「ルーク様。預言を詠むお時間です」
「…分かった。行くよ」
 ふうと息を吐いたルークが望遠鏡を一つ叩いた。「じゃあシンク、俺仕事みたいだから。これ片付けないでくれよ」「はいはい」肩を竦めて返しつつ、預言か、と暗い気持ちで顔半分を覆う仮面をつけるルークを眺める。
 ただのレプリカではなく、ヴァンによって手を加えられ改良と改造をされたルークというレプリカは、オリジナルができないこともしてみせる。たとえば預言を詠むとか、譜歌で戦うとかそういったことだ。こちらにとって便利な捨て駒になってしまったルークは度々こうして仕事を押しつけられ、いつも疲労を重ねて帰ってくる。

 これは実験だ。
 ただのレプリカならいくらだって生み出せる。
 レプリカがレプリカを越えるため、どこまで改良が効くのか。これは実験なんだ。

 部屋を出て行く後ろ姿から視線を外して、机に放置していた本を取り上げる。
 ……最近ルークが熱を出す回数が増えた。ちょっと任務で空けていたら風邪を引いて寝込んでいたなんてことももう珍しくない話だ。
 時間を重ねれば重ねるほど、ルークは脆くなっている。
(…どうせ使い捨てだ。今のルークがダメになったら、また新しいルークが来るんだ)
 ぼんやりと本の文字の羅列を眺め、頭に入ってこないと分かって、溜息と一緒に本を閉じた。
 シンク、とボクを呼んで慕ってくる赤毛と青い瞳の持ち主を、ボクは何人見てきた。そして何人を処分してきたんだ。
 ばんと力任せに書机に拳を叩きつけた。その痛みで溢れそうになる感情を誤魔化して歯止めをかける。
「……もうよしてよ。ヴァン…こんなのもうたくさんだ」
 レプリカがレプリカを越えるため、なんて正当化してボクにレプリカの世話を押しつけるあの男は、世界を滅ぼそうとしている。それは別にどうだっていい。こんなクソみたいな世界滅んだってボクは全然構わない。預言に支配される、未来を見ることをやめた世界なんて、一度死んだ方がいいんだ。
 ただ。もう。もうルークを消すのは、ボクは、疲れたよ。
 床に座り込んで自分の仮面を放り投げた。カラカランと高い音を立てて転がる仮面を睨んで床に転がる。
 もうたくさんだ。もういいよ。そう思うのに、最初にルークの世話を押しつけられて、そのルークが音素解離を起こして消滅してから。ボクは、心と頭が裏腹の考えを持ち、ヴァンにルークを作らせている。

 ルークに生きてほしい。ソレが役立たずになった場合始末するのが自分だとしても。
 本当はもうやめたい。何度も何度もルークを殺すことなんてしたくない。
 だけど。ボクを呼ぶ声と、姿が、そばにない日常なんて。そんな日々、もう想像できない。

 馬鹿みたいだな、と思いながら、ルークが帰ってくるのを待つ。
 今のルークもそうもつまい。そうなれば彼を殺すのはボクだ。またボクが殺す。そしてまたルークが作られる。改良を重ねられ、都合のいいレプリカとなった彼が、またボクを見るだろう。そして言うだろう。誰? って。
 記憶は引き継がれない。そこだけは、今の技術でも変わらない。
 …それが分かっていながら、ボクは彼に教える。シンクだよ、と自分の名前を告げる。彼にもう一度名前を呼んでほしくて。そして、ボクのそばで生きてほしくて。
 ボクは愚かな行いを続ける。
 どれだけ望んでも、ボクが最初に会ったルークはもういないし、その次のルークも、そのまた次のルークも。みんなもういないのに、ね。