僕が出会ったあなたは、

 ある夜のことだ。聖堂に忘れ物を取りに行った僕は、特徴的な人物を見つけた。顔の半分を舞踏会で使うような仮面で覆っている、赤毛の彼だ。
「どうされたのですか? こんな夜に」
「…導師様」
 声をかければ、掠れた声を漏らした彼が穏やかな笑みを浮かべた。「最後に、このステンドグラスを見たくて」そうこぼした声はやはり掠れていた。僕に向けられた視線はすぐに聖堂のステンドグラスへと戻る。
 最後に、という言葉が気になったけれど、外に連れを残している僕は教壇に歩み寄った。忘れてしまっていた書物を取り上げて顔を上げれば、赤毛の彼はぼんやりした顔で僕の後ろのステンドグラスを眺めていた。
 …その表情が。あまりに空っぽで。それから、あまりに穏やかであるので。僕はつい、口を滑らせてしまっていた。
「最後、とは。異動か何かを命じられたのですか?」
「…そんなもんです。たぶん」
 弱く笑った彼は、ふらりと立ち上がった。兵服の袖から覗く手には白い包帯がきっちりと巻かれ、襟元から覗く肌も白い包帯が巻かれていて、肌だと分かるのは仮面をしていないもう半分の顔だけだった。
 怪我だろうか。そう思った僕に一礼して「では、導師様。おやすみなさい。さようなら」とこぼした彼がふらふらと歩き始める。その背中に「おやすみなさい」と返して、さようなら、を返すべきか迷ってやめておいた。
 アニスが待っているだろうと聖堂を出ると、やっぱり待っていた。ぷーと頬を膨らませて「忘れ物はありましたぁ?」と言われて「はい」と書物を掲げる。「じゃあ行きましょう、もう寝ましょう? あたしも眠たいですぅ」と言うアニスに促されて聖堂を離れながら、仮面の彼がいないかと視線を彷徨わせる。
 …もうどこにも、その姿は見当たらない。
「アニス」
「はい?」
「顔の半分を仮面で覆った、赤毛の人を。見ませんでしたか」
「そんな人がいればいやでも印象に残ると思うんですけどー」
「…そうですか」
 かつんこつんと靴音を響かせながら歩き、導師の部屋へ通じる譜陣に踏んだ。アニスがぱたぱた手を振って「じゃあイオン様、また明日ですぅ。おやすみなさーい」「はい。おやすみなさい」眩い光を放つ譜陣の中で小さく手を挙げてアニスに答え、目を閉じた。
 光で焼かれる瞼の裏に、弱く笑った、名前も知らない彼の姿が浮かんだ。
(誰だったのだろう。兵士であるのは間違いないけれど…それだけでは判断材料が足りない)
 自室に戻り、ベッドに入ったその夜は、月が妙に明るかった。
 …空気に何か。いつもと違う成分が溶けて。消えていくような。その最後の輝きが、月に反映されているような。そんな、明るくて悲しい夜だった。
 それから一週間がたち、僕はまた仮面の彼を見かけた。
 教会が開くミサの日に預言を詠んでいた彼は、どうやら預言士らしかった。
 普段の預言を詠むことを禁じられている僕は、ミサでは挨拶ようなものをして最初と最後に顔を出すだけで、彼のようにずっと預言を詠むことはない。
 退席する足取りの鈍くなった僕をアニスが急かす。「イオン様」と呼ばれて視線を彼から剥がせば、預言を求めて殺到する人々の姿がある。それを制す兵の姿も。
 彼がかざす手と、その首に、もう包帯はなかった。
 …あの夜、彼は、最後にステンドグラスを見たかったから、と言っていた。僕が異動かと訊いたら、たぶん、と答えていた。
 てっきりダアトを離れる異動を命じられたのだとばかり思っていた。あのときの包帯は怪我が治ったのだと考えればそれでいいけれど、この現実と彼の言葉の辻褄が合わない。
 何か変だ、と思いながら聖堂を出て、時間までは自室で控えながら、アニスが持ってきた差し入れの紅茶のカップを持ち上げる。
 陽が沈むまで開かれる一日を締めくくるために聖堂に行けば、預言士の彼はそこにいなかった。そのことに引っかかりを覚えながらミサを終えるために教壇に上がり、毎月の恒例の口上を述べた。
 部屋に戻り、今日を終えて一人おしゃべりなアニスの声に適当な相槌を打ちつつ、いなかった彼のことを考え、いつもなら一度目を通したらそれで終わりな書類を取り上げた。今日のミサの詳細について書かれたものだ。今日ミサに参加した預言士の名前が連ねてある欄に目を通す。けれど、そこに書かれているのは顔と名前が僕の中で一致する人ばかりで、仮面の彼の名前はなかった。
 何か、変だ。その思いが僕の中で強くなる。
 夜になり、僕は部屋を抜け出した。
 アニスが寝入っていることを承知の時間帯に階下へ下り、警備の兵にはミサで忘れ物をしたから、と説明して聖堂へと足を進める。
 今夜は月が明るかった。あの夜のように。
 予感が、していたのだ。そうとしか言いようがない。僕はここに彼がいるという予感がした。
 ぎい、と聖堂の扉を押し開ける。目を凝らせば、月夜の明かりを落とすステンドグラスを見上げている誰かがいる。あの兵服と赤毛は間違いない。彼だ。
「こんばんわ」
 声をかけると、彼は僕を振り返った。ローレライ教団の方式で一礼し「導師様。こんばんわ」とこぼした彼の声に少しほっとする。これでようやく、あなたの名前が聞ける。
 かつんこつんと歩いていって彼の前で歩みを止めた。彼は僕に頭を下げたままだ。「顔を上げてください」と言えばようやく僕を見た彼は、あの夜のように、顔の半分を仮面で覆っていた。
「この間、最後だという言葉を聞いて、僕はあなたがダアトから異動の命を受けたのだとばかり思っていました」
「…? この間、ですか?」
 はて、と首を傾げた彼に僕も首を傾げる。「一週間ほど前の話なのですが…」忘れてしまったのだろうか、と眉尻を下げた僕に、彼は慌てた様子で「あ、いえ、すみません。えっと」と取り繕おうとして失敗する。
 何か変だ。その思いが、強くなる。
「…あなたは預言士だったのですね。今日のミサで見かけました」
「あ。はい。一応、そうみたいです」
「……ですが、今日の予定が書かれている書類に、あなたの名前はありませんでした。よろしければ僕に名前を聞かせてはもらえませんか」
 違和感を覚えながら訊ねると、彼はあどけない顔で笑った。「ルークっていいます」と笑った顔は、半分だけでもよく分かる、子供のように無邪気な顔だった。
 そこでかつんと第三者の足音がして振り返る。警備の兵が痺れを切らして追いかけてきたのだろうと思ったのだ。
 けれど、聖堂の入口に立っていたのは予想外の人物だった。
 鳥のくちばしのような仮面をつけたその人物は、神託の盾幹部六神将の一人、烈風のシンク。
「ルーク。ベッドにいないと思ったらこんなところで、」
 かつかつ歩いてきたシンクが僕に気付いて足を止めた。
 ステンドグラスから落ちる光の中にいるルークと、闇の中に溶ける僕ら。
 何かとても、近いものを感じた。何がどうと説明はできない。ただ、感じたのだ。
「…ルーク。寝るんだ。帰るよ」
「はぁい」
 光の中から抜け出したルークが僕の隣をすり抜け、シンクに駆け寄った。僕と同じ髪色の彼に「シンク」と呼びかけても、シンクは僕を見なかったことにしてくるりとこっちに背を向けて聖堂を出て行く。途中、ルークが僕を振り返って「おやすみなさい導師様」と笑った顔を最後に、彼もシンクについて聖堂を出て行った。
 …やっと見つけたと思った。
 仮面をつけた赤毛の彼の名前を知った。彼が神託の盾の人間だということも分かった。
 けれど、なんだろう。この強烈な違和感と、何かが違う、という強い思いは。
 彼が見上げていたステンドグラスを見上げて立ち尽くしていると、痺れを切らした警備兵がやって来て、僕を部屋へと連行した。
 その夜から僕はまだルークのことを見かけていない。ただの、一度も。