胸を刺す痛みは 加速する

「シンクー、これ何?」
 倉庫に片付け忘れていた望遠鏡の箱を発見したルークが、わくわくした顔で駆け寄ってきた。本の斜め読みを続けつつ「望遠鏡だよ」と返せば、ルークは「へー、これが」と箱を引っくり返し始めた。
「遠くのものがよく見えるんだろ?」
「そうだよ」
「じゃあ空の譜石とかもよく見えるのかな」
 彼の言葉に、ぴくりと手が震えた。前のルークと同じことを言う別人のルークに、憤り、哀しみ、寂しさを覚え、それを胸のうちにしまい込んで「どうせなら星空を見なよ。そっちの方がきれいだ」と言えば、ルークは「それもそっか」と笑った。
 痛む胸を感じながら本を閉じる。
 …この間導師がルークの存在に感付いた。ボクが任務に出てる間に勝手に部屋を抜け出して聖堂へ行っていたルークをあいつが見つけたのだ。聡い導師のことだ、調べようと思えば、ルークのことがバレる可能性もなくはない。それを誤魔化すためにも、預言士の役目を押しつけられて彼が無駄に浪費されることを防ぐためにも、ボクはルークを外へ連れ出さなくては。
 以前と同じことをしていたら、以前と同じようにルークは都合よく使われ、そして補充される。
「ルーク」
「ん?」
「実戦に行こう。もう練習だけは飽きたろ。そろそろ実習もすべきだ」
「え、いいの? シンク外はダメだって言ってたのに」
「…ボクと一緒にだよ。基本的なことは変わらない」
「えー。外で遊びたいのにな」
 子供の顔をするルークに一つ吐息してびしっと指を突きつける。「守れるの? 守れないの? 約束が守れないなら連れていけないよ」ボクの言葉に慌てたルークが「守る、守るよ。仮面は外さないし、知らない人とは話をしないし、不用意なことはしないよ」「…なら準備しよう。ほら、トランク持ってきて」「うん!」すっかり望遠鏡のことを忘れ去ったルークがばたばたと隣の部屋に駆け込む。その姿を見て、ずきりと胸が痛んだ。
 ルークは生きている。そこにいる。もうそれでいいじゃないか。あれはルークの声だしルークの姿だしルークそのものだ。ボクにとってはオリジナルなんかよりずっと本物のルークじゃないか。
 そうだ、あれはルークだ、と自分に言い聞かせ、初めての旅支度にはしゃぐ彼と一緒に一から荷物を作った。
 任務のために小隊だけ引き抜いてダアトを抜け、適当にあっちこっちへ移動していくつかの任務を片付けた頃、導師がマルクトとキムラスカの和平のために動き出したという話を耳にし、にダアトに戻った。
 事が動き出したのだ。裏工作ばかり続けていたヴァンも大きな動きに出るだろう。六神将の一人であるボクも、動かなくてはならない。
 そして、考えに考え抜いて、ルークを連れて行くという決断をした。それには今までよりもさらに規約が厳しくなるけど、一緒に来るか留守番をするかと訊いたボクに、彼は一緒に行くと言った。
 どれだけ窮屈でも、シンクがいないよりはずっと我慢できるよ。そう言って笑ったルークに、ボクは、泣きたくなった。
「どうして、導師様は教団を抜け出して、独断で動いたんだろう?」
 夜。キムラスカの国王に新書を届けた導師を連れ去って、セフィロトのあるザオ遺跡へ向かう陸艦の中で、ルークが至極不思議そうにそう呟いた。
 ようやく部屋に戻ってこれて仮面を外したボクは「さぁね」とだけ返す。ルークには余分な知識を与えていないから、今導師がやろうとしていることも、ボクらがやろうとしていることも、何も分からないのだ。それでもルークはボクについてくる。それしか分からないから。
 人前に出るときは仮面をつけること、外套のフードを深く被ること、必要なこと以外喋らないことを義務づけられたルークが、長い息を吐いて仮面を外した。窮屈だった、疲れた、という顔をしている。
 これまで気をつけていたからこのルークはアッシュとも現在のルークとも会っていない。会ったところで、抱いた疑問を忘れろと言えば、彼は忘れるだろう。そういうふうに育てたのはボクなのだから。
 ごろんとベッドに転がったルークが「シンクぅ、俺眠たいよ」と枕に顔を埋めた。「寝れば」と返して、面倒くさい制服から着替えるのも面倒くさいと思って手を止めた。うつらうつらしているルークを見ていたら、ボクまで眠くなってきた。もうボクも寝ようかな。
「奥行ってよ。狭いだろ」
 一つしかないベッドの真ん中にいるルークを肘でつついた。「うー」と唸って壁際に寄ったルークと同じベッドに入る。当たり前だけど狭い。狭いけど、一室につきベッドは一つだから、仕方ない。
 仮面を取ったルークは、現在ルークの名を騙っているあのレプリカと同じ顔だった。
 …本当によく似てる。髪型が違うくらいで、あとはほぼ一緒だ。あっちのルークよりこっちのルークの方が聡明で、物覚えがよくて、預言が詠めて、譜歌を使って戦いができる。むしろあっちのレプリカよりは出来がいいだろう。何せアレは七年前の刷り込みもできなかった頃の産物で、目の前のルークはこの間できたばかりの最新の。
 そこまで思って思考を閉じた。
「明日は、どこ行くの?」
「ザオ遺跡」
「…? 導師様、ダアトに連れ戻すために捜してたんじゃないの…?」
「……いいんだよ。ルークはそんなこと知らなくて」
 手を伸ばしてルークの赤毛を撫でた。ぱさぱさの髪は、以前のルークより、劣化していた。「そっか」とこぼしたルークが目を閉じてすぐに眠りに落ちたのを見て、髪を撫でていた手で色の白い頬を撫でる。
 …以前のルークより、色が白い。
(やめろ。もう考えるな。考えたら、駄目だ)
 ぐっと拳を握って布団の中に手を引っ込め、身体を休めるために睡眠を取る、という義務的な考えで目を閉じる。
 …眠気なんてさっぱりやってこなくて。眠ろうと努力する意識を阻害するような陸艦の揺れ。それなりに疲れているはずの身体は眠りたいと訴えるのに、意識がそれを邪魔する。
 頭を、心を埋めていくのは、今まで過ごしてきたルークとの日々。
 何分、何十分、何時間。数えるのが嫌になってきて、ぎゅっと目を閉じて耳を塞いだ。
「嫌だ…っ」
 抵抗して口走った言葉に、眠っていたルークが起きてしまったらしい。寝ぼけた声で「しんく?」と呼ばれてはっとしたボクに、ぼんやりした顔のルークが「ねないの?」と目をこする。
 寝たいよ。寝たいけど。眠れないんだ。今のルークにそんなこと言っても理解されないだろう。
 だからボクは笑う。「何でもないよ。ルークは寝な」と言い聞かせて赤い髪を撫でれば、ぼんやりこっちを見ていたルークが目を閉じた。
 …もう朝が近い。
 結局眠れず、ボクはベッドを抜け出した。子供の顔でぐっすり眠るルークをぼんやり眺めて、そこから動けない自分に気付いて失笑した。
 ああ全く。なんてザマだ。前のルークが知ったら笑うなきっと。
 連日預言士関係の仕事をしていたルークの肌がおかしな色合いになり、ディストに看てもらったけど、もう使い物にならないと判断された日。音素解離が始まるのも時間の問題だと告げられ、人目につく場所で解離が始まる前に処分するようヴァンに言い渡されたボクは、ルークに最後に行きたい場所に行かせた。
 ルークは焦がれていた外へは行かず、教会の聖堂へ向かい、約束の三十分でボクのところへ帰ってきた。
 色の変わった肌を隠すためにボクが巻いた包帯は相変わらず白くて、顔以外のルークの肌を覆い隠している。
 …ルークはもうふらふらだった。連日無理を重ねたのだ。ボクが任務に出ている隙をついて、ヴァンが無理なスケジュールを強いたのだろう。ボクに従順なルークがボクの上司に逆らうわけがない。どれだけ苦しくても、熱が出ても、倒れそうになっても、ルークは命令に従ったのだろう。その無理が祟ってこうなった。
 ボクがいれば。そばにいれば。こんなに早く、寿命が来ることはなかったのに。
 何も言えずに立ち尽くすボクに、ルークは笑った。外した仮面をかたんと机に置いて、シンク、とボクを呼ぶ。
 これからすることがどんなことかルークは知らない。処分されるということがどういうことかルークは知らない。
 今までのルークをそうして送ってきたように。ボクはルークを抱き締めた。ルークも真似してボクを抱き締めた。
 目を閉じてよ。すぐ終わるから。そう呟く声は、いつからか震えるようになっていた。
 ルークは言われた通りにする。
 目を閉じたルークを抹消するために、譜陣を展開する。第七音素でできたルークを第七音素に還すために展開した譜術に、目を閉じろ、の命令を守ったままのルークが微かに笑った。

 ありがとう、シンク

 ルークは最後にそう言って、ボクの腕に包帯と衣服だけを残して消滅した。
 ルークを。彼を殺した掌を睨みつけ、きらきらと宙に舞う音素を睨んで、声もなく、ボクは泣いた。
 ……これで何度目だろう。この手は何度彼を殺すのだろう。
 もうやめればいいのに。もうよせばいいのに。ボクはまたヴァンのところへ行ってルークを作るように言う。もっともらしい理由を並べて、自分が世話をやると買って出れば、データが欲しいヴァンとディストはまたルークを作成するのだ。微調整を重ねて出来上がったルークは以前と同じ顔同じ声同じ姿でボクのことを見て、そして、言うんだ。誰? って。
「朝ご飯だよルーク。ほら起きる」
「う…」
 船室の丸窓から朝陽が射した頃、彼を起こした。眠そうに目をこすったルークがもぞもぞとベッドから起き上がる。「もうあさぁ?」「そう」「おはようシンク…」「おはよう。顔でも洗ってきなよ。目が寝てる」「うーい」ベッドを抜け出したルークの姿を見送り、テーブルに二人分の朝食を置いて、狂ってるな、と自分を笑う。
 ああそうさ。ボクは狂ってる。ヴァンも狂ってる。ディストも狂ってる。この世界は狂ってる。みんなみんな狂ってる。
「ザオ遺跡だっけ。俺は留守番?」
「…来ても面白くないと思うけど」
「留守番よりは退屈じゃないと思うけどな。なー、いい子にしてるから連れてってよ」
 口いっぱい朝食を頬張るルークにぱちんと手を合わせて頼み込まれると、ボクは弱かった。「約束憶えてる?」「仮面外さないこと、しっかりフード被ること、必要以外喋らないこと!」「…はぁ」きらきら期待した目でこっちを見てるルークをそれ以上突き放すこともできず、「好きにすれば」と呟くと彼はわーいと子供のように喜んだ。
 仕方ないなって許す辺り、ボクもルークに甘いようだ。
 …でもさ。厳しくして、突き放して、あとで後悔するよりは絶対いいと思うんだ。
 最初の頃。たったの一週間で音素解離を起こしたルークを思って目を閉じる。
 彼はもういない。
 あれが始まりだった。レプリカという存在がどれだけ不遇か身をもって知っていながら、彼を求めて新たなレプリカを生み出すことを望む。ボクは、狂っている。