そして僕はあなたが溶ける場所へと

 ND2019。ノームリデーカン・レム・28の日。
 仲間達が死闘の末ヴァンを地核にて追い詰め、外殻大地の全てを魔界へと降下させたあの日から、一ヶ月が過ぎた。
 あれから六神将は姿を消し、ヴァンも消息不明のままだ。
 きっと皆死んでしまった。そう思うと悲しくもあったが、それが世界の平和のためなら致し方ない、という思いもあった。
 世界が大きな変化を遂げても、民衆に大きな変化は見られない。外殻大地が落ちたことも預言に詠まれたことだろうと今日も教会には人が殺到している。ローレライ教団は預言を廃止しようとしているけれど、民がそれを許さないのだ。
 自室から教会へと続く階段を埋める人の群れを眺め、人は変われるのだろうか、と束の間暗い気持ちを抱く。
 …ルークは変わった。ルーク・フォン・ファブレ。その名を持つ彼は変わってみせた。それは僕も分かっている。けれど。
 ぐっと拳を握ったとき、人の群れの遥か遠い方に、目深までフードを被った人物を見つけた。がたんと席を立った僕に「はわっ、イオン様? どうかしたんですか?」と驚いたアニスの声を聞きながら窓に手をつく。
 あのシルエット。ここからではフードの奥までは見えないけれど。あの姿は。
「イオン様?」
「あ…」
 僕の隣にやって来たアニスが訝しげに窓の向こうを覗き込む。「なんです? びっくりするものでもありました?」「あ、いえ。何でもないんですよ」「えー? そういう感じじゃなかったですよぉ。もうマジでびっくりした! って顔でしたよぅ」ぶーと頬を膨らませるアニスに愛想笑いをしながらちらりと視線だけ向ければ、フードの人物は人混みに紛れ、ダアトの街へと消えていくところだった。
 …間違いない。あれは、彼だ。赤毛の髪を持ち、顔の半分を仮面で覆っている彼だ。
 彼が生きている。そのことにほっとすると同時に疑問も抱く。シンクがタルタロスに一人で乗り込んできたときも感じた疑問だ。どうして一緒でないのか。なぜ離れてもいられるのか。その答えを探すように、僕は六神将とヴァンの足取りをもう一度調べ直した。
 査問会にかけられるはずだったモースをディストが救出し、行方をくらませた。加えてアッシュが単独で動いている。それは、六神将、引いてはヴァンの生存を疑うには十分な情報だった。
 …それなら。もしかしたら、シンクだって生きている可能性はある。
 ダアトを訊ねてきた仲間にそのことを知らせると、彼らは何か知っているであろうアッシュを追い、ダアトを出た。
 ルークは僕を気遣ってくれたけれど、今僕が求めているのは彼ではなかった。そのことを申し訳ないと思いながらも、その思いを変えることはできなかった。
 今ダアトを留守にすることができない僕は、訪ねてきたルーク達にアニスを同行させ、彼女から話を聞くことにして、ダアトでできる限りのことを調べた。
 妙な、胸騒ぎがする。
「……月が…」
 アニスからの現状報告の手紙に目を通したその夜は、月が妙に明るい、悲しい夜だった。
 予感と共に自室を出て、階下へと下り、警備の兵がかける言葉に声を返さずに歩き、聖堂の扉を押し開ける。
 ぎいい、という古びた音と共に視界が開け、ステンドグラスの光が射し込むその光の中で、床に膝をついて頭を垂れているフードを被った人物を見つけた。
 かつ、と一歩踏み出す。
「ルーク?」
 呼びかければ、彼はゆるりとした動作で顔を上げた。ぱさりとフードを落とした彼の顔の半分は仮面で覆われている。よく知っている顔だ。当然か。僕は全く同じ顔同じ声同じ姿の人物と、長く旅を続けていたのだから。
「導師様ですね」
 かつん、と一歩進んで、足が止まった。ゆるりと立ち上がった彼を凝視して、僕は、絶望を覚えた。
 よく知っている声だからこそ。よく知っている姿だからこそ。その違いが嫌というほどよく分かる。
「…ルーク?」
「はい」
「僕のことを憶えていますか…?」
「導師イオン様。存じております」
「そうではなくて。以前、ここで会ったことを、憶えておいでですか?」
 彼は首を傾けた。何を言われているのか分からない、という反応だった。
 絶望が確信に変わり、目の前が真っ暗になった。
 また。僕の知るルークは溶けてしまったのか。この大気の中へと。
 表情のない彼は、僕こう言った。「導師様。惑星預言を詠んでいただきたいのです」と。僕はそんな彼を見つめて、四方から鎧で固めた兵士がやって来るのを視界に収め、ひたすら暗いと感じる心で笑った。
「それは、あなたの望みですか?」
「いいえ。大詠師モースの望みです」
「ではお訊きします。あなたは、それを望みますか?」
 僕が訊ねると、彼は少し難しい顔をした。「俺は…」とこぼした彼が迷うように頭に手を添える。その間に兵士が僕の脇を固め、腕を拘束する。その間も彼の答えを待った。
 もしもそれがあなたの答えだというのなら、それに殉じてもいいか、なんて思った僕は、愚かなのだろう。分かっている。一番そばにいたルークを見なかった僕は馬鹿なのだ。ティアがいるのだから、なんて遠慮して、自分の心を誤魔化してきた僕は、愚かなのだ。救いようがないくらいにただ愚かなのだ。
 そこへ、暗がりからシンクが姿を現した。レプリカというものが公になった今、彼は仮面をつけていない。
 僕と同じ顔、同じ声、同じ姿の、導師のレプリカの一人。
「ルーク」
 シンクに呼ばれたルークがぱっと振り返る。僕に向けていた顔とは違う、嬉しそうな顔で。
「シンク」
「考える必要はないよ。導師を誘き出す役目はちゃんと果たしたんだから」
 シンクに頭を撫でられて、ルークは嬉しそうだった。それが答えだった。
 なら僕は。僕は、どうすればいいのだろうか。
 兵士に連行されながら考えた。考えに考えて、惑星預言を詠む条件として、ルークをそばに立たせることを選んだ。渋い顔をしていたシンクに心の中で謝って、僕は惑星預言を詠みながら、ときどき、彼に話しかけた。

「ルーク」
「はい」
「シンクのこと、好きですか?」

 僕の問いかけにルークはきょとんとした顔でシンクを振り返った。苛々と組んだ腕を指で叩いてるシンクがこっちを睨んでいる。そのシンクを見てから僕に視線を戻したルークが一つ頷いた。
 ああ、そうだろうと思った。それでいい。
 シンクが、何人ものルークの世話をして、見送ってきたのなら。彼らに好かれるのはシンクでなければ。
 彼は僕よりも何倍も苦しんできたはずだ。苦しみながら、ルークを作り出すことを止められず、ここまで来てしまったのだ。
 彼も愚かだ。僕も、愚かだけれど。

「導師様は」
「イオン、と、呼んでください」
「…イオン様、は。これで、さようならですか?」

 熱くなってきた身体で胸に手を当てた。火山の熱さでも汗一つかいていない彼は、じっと僕を見つめている。
 きっとあなたはまだ生まれたばかりなんだろう。暑いとか寒いとかも、まだ満足に分からないのだろう。
 シンクの手で教育を受け、あなたは育っていくんだ。
 これからもっと色々なことを知る。色々なことを思う。あなたの未来は、まだ続いている。
 それが近く途絶えるとしても。あなたが、生きることを。僕は願う。

「はい。ここで、さようならです」

 笑った僕に、彼は難しい顔をした。
 遠く遠くに、仲間の声が聞こえる。
(熱い)
 焼けるように熱い身体で惑星預言を詠む。仲間達にも聞こえるような大きな声で。
 これが、僕が贈れる、最大のもの。活かすか、殺すか。全てはあなた達次第だ。
 体力が尽き、崩れ落ちた僕を、支えたのは、彼で。ぼんやりした視界でルークのことを見上げて、僕は笑った。
(…いま。あなたたちがとけた、ところに。ぼくも。いきます)