数あるVOCALOIDの中でマスターが私を選んだ理由は『髪が長いから』なんだそうだ。
「マスター。起床の時間です」
 こんこんといつものようにマスターの部屋の扉をノックする。そうすると扉の向こうでごんと大きな音がした。「いった…」という扉越しの呻くようなマスターの声に首を傾ける。
 予想するにまたベッドから落っこちたのだろう。だからシングルで窮屈に眠るよりもセミダブルにした方がいいと、私は何度もそう言っているのに。身長に見合った寝具でなくては快適な睡眠も得られない。それから今のようにベッドからはみ出て弾みで落っこちたりしてしまう。
 今度もう一度そのことについてマスターと話をしてみよう。そう思いながら「マスター」と扉の向こうにいるはずの人に声をかける。
「はいはいはいっと」
 かちと鍵の外れる音がしてマスターが顔を出す。寝起きの顔とぼさぼさに寝癖のついた髪。あふと欠伸しながら「時間通り。悪いねミク、いつもいつも」と言われて私は緩く首を振った。
 結んでいない長い髪が揺れる。

 マスターの起床は早すぎる。仕事に行くまでに至る時間を計算して逆算して起きる時間を割り出すことくらいVOCALOIDにもできることだ。
 だけどマスターはそれに付け足しを入れた。『お前の髪を結いたい』と。だから私はその時間というのも計算に入れなくてはならなかった。だけどそれには情報が足りず、実際マスターが私の髪を結うという作業にどのくらい時間がかかるのかといったことを含め計測しなくてはならず、そうでなくては正確な情報が得られず計算も確実性を得ない。
 髪を結いたい。マスターのその希望にはそれだけの情報が足りないということを伝えたところ、なんとも言えない顔をされた。そのときのことを今でもまだ憶えている。

 マスターの部屋に入ってソファに座る。マスターが私の髪に櫛を通していく。私は無意味なんじゃないかと思うマスターのその行動を見つめている。
 私は人じゃない。髪の質は変わらない。変わってしまったとしたらそれをシステムが察知して正常値に戻すのだ。だからこんなふうに時間をかけて手櫛を入れてもらう必要は全然ない。
(マスターはどうしてこんなことをするんだろう)
 長くて膝丈までありそうな髪に時間をかけて櫛を通して、マスターはいつものように私の髪を二つに分けて結んでくれる。ツインテール。いつもの。
「できた」
 そうしてマスターは満足そうに笑う。
 だから私は「はい。マスター時間がありません」と返す。脳内時計が残り時間を計算していた。そうするとマスターがはっとした顔で「やべ、顔も洗ってねー。つか寝癖っ」それでばたばたと洗面所の方に駆けていく。蛇口の捻られる音とばしゃばしゃと水音。私はマスターが結ってくれた髪になんとなく触れながら「食事を用意します」と言う。ひょっこりこっちに顔を出したマスターが笑う。「うん、お願い」と。
 だから私はマスターと自分の分の朝ご飯を用意する。
 マスターは朝はあまり食べずに夜たくさん食べる方だ。胃の中に食べたものが残っているとかで朝はあまり食事を摂ってくれない。栄養管理面的には私はそれが気になるのだけど、マスターがいいと言うのだからしょうがない。
「ミク」
「はい」
「今日も家事任せちゃうけど、いいかな」
「大丈夫です。こなします」
 私がそう言うとマスターが少し複雑そうに笑う。「うん、そうだね」と。私は首を傾ける。さらりと長い髪が肩を流れた。マスターが手を伸ばして私の髪に触れる。「きれいだね」と。
 それはあなたが私の髪を毎日毎日気にしてくれているから。そう思ったけれど言わなかった。マスターは時々苦しそうな顔をする。私にはその理由が少しも分からない。教えてくれなければ推測のしようもない。
 マスターは言わない。私達の間には少しの溝があるように思う。
 それでも私のマスターはマスターだけだ。あなただけだ。

「じゃあねミク。あとよろしく」
「はい。いってらっしゃいませ」

 いつものようにマスターを見送る。そうして与えられたことをこなす。
 それが歌うことでなくとも私は構わない。VOCALOIDなのだから歌を歌わなくてはとも思うのだけれど、マスターはあまりそこにはこだわっていないように思えた。私を選んだ理由は声ではなく、マスター曰く『髪が長いから』なのだから。だから私はマスターが私に与えることをこなしていれば、それがマスターのためになるのだと思う。
 今日はマスターの部屋の定期掃除の日だった。だから私はいつものように指示されている通りのことをした。部屋の窓を開けてカーテンをくくって換気を、そして掃除機をかけて。少しちらかっているテーブルの上の雑誌類を片付けて。本棚に戻っていない本は憶えている位置へきちんと戻して。
「……?」
 それで。いつもと違うものを見つけた。
 パソコンの置いてある部屋の隅、その横の棚の一番上。憶えている部屋の風景と違うものが一点。
(…写真?)
 背伸びして手を伸ばす。かたん、と写真たてに指先が触れた。そっと手にして目線の高さまで持ってくれば、それはやっぱり写真なわけで。
 女の人だった。私と同じように髪が長く、そしてその隣にはマスターがいた。二人は笑っていた。どこか観光地なのだろう、誰かに撮ってもらった写真なのだろう。そう思った。
(この人は誰?)
 頭に浮かんだ疑問。だけど答えは見つからない。写真に写っているのは二人だけだ。二人の笑顔だけだ。その光景だけだ。そこに答えは書いていない。
 しばらく写真を見つめて、それからそっともとに戻した。かたんと微かな音。きちんともとの場所と1ミリも誤差がないように置いた。私が指摘しなければマスターはきっと気付かないだろう。私もこの写真を見なかったことにしてしまえばそれでいい。そうすればこれまでと何も変わらない夜が訪れ、私は仕事から帰ってきたマスターのために食事の用意をしてお風呂の用意をして。
 数あるVOCALOIDの中でマスターが私を選んだ理由は、『髪が長いから』で。そしてこの写真の女の人も髪が長い。
 これは単なる偶然なのだろうか。それともマスターは私がそう疑問を持つことまで計算してこの写真を今日この場所に置いて仕事にいったのだろうか。どうなのだろう。
 全て推測でしかない。推測でしかないけれど。
「マスター」
「んー?」
 かたんと今日の夕食をテーブルに運びながら私は口にした。「今日いつものように部屋の掃除をしたのですが」「うん」さっそくミネストローネに口をつけ始めたマスターを見ながらかたんとサラダを置く。そうして言う。「いつもと違うものが一つ」と。
 マスターが顔を上げて私を見た。「違うもの?」と首を傾げるマスターにこう返す。「写真が」と、そう一言。
 マスターは一つ瞬きしてから「あー」となんとも言えない呻き声を上げてスープ皿の中身をかきこんだ。それからたんとテーブルに器を置いて「ミク、座って待ってて」と言う。だから私は言われるままに食卓についた。マスターがリビングを出て行く。行き先は恐らく自室。そしてそこにあるあの写真たて。
 自分の分である食事に手をつけて、パンをかじり始めた頃にマスターは戻ってきた。あの写真たてを大事そうに抱えていた。
「ミク」
「はい」
「この子ね、俺の彼女。だった人」
 説明は簡素だった。余計な感情も介入も何もなかった。ただマスターはすごくさみしそうに笑った。
 だった人、ということは過去形だ。つまり今はもうその人はマスターのなんでもない。そのはず。
 でもマスターは私ではなく写真たての中の人を見ている。私ではなく、
「彼女だったんだ。恋人ね」
「…はい」
「死んじゃったんだ。交通事故で。よくある話だよね」
「…そうですか?」
「うん。俺達が知らないだけで、この世界にはそんなことたくさん溢れてるよ」
「…好き、だったのでは、ないのですか?」
 あまりにもさらりとそう言うマスターに疑問を持ってそう言ってみる。マスターは目を閉じて笑った。「大好きだったよ」と。「愛してたと思う」ともこぼした。私は瞬きする。さっきまでさらりと、なんでもないことのように言葉を紡いでいたマスターの声が滲んでいた。「愛してたんだとおもう」とこぼす声に涙の色が混じる。マスターは写真たてを大事そうに抱き締めてそこにいる。
「でも最後までいえなかった。俺、だめな奴だね。一番大切なひとに、そうだって伝えることもできなかった。できないまま終わっちゃった」
 ごつ。マスターが写真たてを抱き締めたまま食卓に額をぶつけた。「俺だめだね」とこぼすマスターに、私は何を言えばいいのか分からなくなっていた。写真についてはやっぱり触れないでいた方がよかったのだろうか。あのまま私は何も見なかったふりをしていればこんな予想外の事態に遭遇することもなかったのだろうか。それで何を返せばいいのかと迷うことも、なかったのだろうか。
 だけど私は訊いてしまった。もう知る前には戻れない。

 だけど、だから、VOCALOIDの私に一体何が言えるというの?

「…マスター」
 どう声をかけていいのか迷ってそう呼ぶ。マスターは写真たてを抱き締めたままだった。この人は今何を思っているだろう、その人のことを想っているのだろうか。私はあなた以外のことを思うときはないけれど、あなたはそうじゃない。分かってる。それが、人だ。
「マスター」
 かたんと椅子から立ち上がる。反対側まで回ってマスターの方までいってマスターの背中をそっと撫でる。力なく座り込んでいるその背中は今までで一番頼りなく、脆く、人を示していた。
「マスター」
「…ミク」
 顔を上げたマスターが私を抱き寄せる。写真たては膝の上に、その腕は私の背中に回る。強く縋るように抱き締められて、私はこういうときどうしたらいいのだろうと途方に暮れた。マスターは私に助けを求めているのに、肝心の私はと言えば、そんなマスターに何を言えばいいのかさっぱり分からない。
 泣いているマスターと、そんなあなたに何をしてあげればいいのか分からないVOCALOIDである私。

超えられない境界線
(もしも私が人だったなら、こんなときどうしたらいいのか 分かったのだろうか)