ざり、と靴の底が土と砂を踏む感触。
 私は立ち入り禁止のロープを跨いで越えてその中に入った。四角く区切られたその場所に。
 そこで膝をつく。そこにある、木があったと証明する切りかぶに、私は指先で触れた。陽に照らされてそれはあたたかかった。朝陽。まるで生きているかのように、それはそこにあった。
 そこに確かにあったはずの木が一本、なくなっていた。だから代わりに切りかぶがあるのだ。木があったことを証明するものが。
 どうってことはない。前々からこの公園は増築される予定だった。だから敷地を広げるために邪魔だったその木は倒されてしまったのだ。恐らく土日を挟んだその間に。
 先週の金曜日の帰り道には、確かにあの木はここにあった。
 切りかぶを指でなぞる。掌でなぞった。樹液がついた。それは人間で言う血だ、と思った。
「どうしました。そんなところで膝をついて」
「、」
 その声に顔を上げる。振り返れば、骸さんがいた。
 私は視線を落とす。「骸さんは木の声って分かるんですか」と呟くように言う。彼が首を傾げてざりと一歩踏み出した。
 けれどその足元の砂が一つも動いていないことに、私は気付いていた。
「木の声ですか。また些細なことを気にしますね」
 彼が私の隣に立って切りかぶを見下ろす。
 この前ここを通ったときには確かにここに木があった。別に立派じゃなかったし特別珍しかったわけでもないし、伸び放題に枝を伸ばして葉を広げて好き勝手育っていた木だった。だけど私が中学に入って通学路としていた場所で、通り過ぎるだけのこの公園でそれは確かに生きていた。だから私はこっそり胸のうちでいつも挨拶していたのだ。お早う、って。帰り道はまた明日ね、って。
 それが、今日の朝来てみればどうだろう。なんてことだろうこれは。
「…ひどいですね。人間て」
「今更でしょう」
 彼が笑う。嘲笑の笑みを口元にたたえていた。私はそれに視線を伏せる。
 もしもこの木が人と同じように言葉を喋れて痛いと死にたくないと嫌だと叫んでいれば、ここにあり続けていてくれたろうか。あの木は。
 ふいに、ぽた、と私の目から雫が落ちた。それに自分で驚く。そんな私に隣で息を吐く気配。
「あなたは木に対してまで涙が流せるのですか。もういっそ感心しますね」
 そっけない声なのに、彼が膝をついて私の目元を指で拭った。温もりは感じない。だって彼は今ここにいない。
「骸さん、木の声は、分かりますか」
「輪廻に植物は含まれません。魂がありませんから」
 無表情に返されて、私は口を噤んだ。魂。木には魂がないのか。じゃあやっぱりあの木に意識っていうものはなくてただ芽から育つままに育って木にまで成長し、そして、人に切り倒された。それだけ、なんだ。きっと。
 じゃあどうして私は今泣いているんだろう。木が一本なくなった。そんなことこの世界ではきっとどこにでもある風景だしどこにでも溢れていることだ。それなのに私はひどく、胸が痛かった。
「骸さん」
「はい」
「動物しか、輪廻には含まれないんですか」
「どうでしょうね。僕はそんな些細なことまで気にしませんから。気にしていたら気が狂ってしまう。あなたと違って」
 私は目を閉じた。「私はただ泣いてるだけですよ」と言う。彼が笑った気配。「僕はもう泣けません」という声。
 私は目を開けた。彼の姿は半分透けている。
「学校、行かなくていいんですか。遅刻してしまいますよ」
「…行きたくないです」
「それに、立ち入り禁止のロープが張ってあるものの中にいるとなれば、誰かに咎められます」
「それでもいいです」
 そっと切りかぶをなぞる。「もう少しここに、この子のそばにいます」と言ったら彼が笑った。何だか少し悲しそうだった。
「あなたは本当に、馬鹿ですね。ただの木でしょう」
 その通りだった。ここにあったのはただの木。それなのに私の涙は依然止まらない。私の涙を拭うことを、彼は諦めたようだ。透けたその姿に私は笑いかける。
「私、馬鹿ですから。悲しいものは悲しいんですよ」
 だからしゃがみ込んで、樹液で手が汚れるのも構わず私は切りかぶを撫で続けた。朝の光に樹液は輝いているようだった。それは人で言う血だった。この木は血を流して、死んだのだ。

「骸さん」
「何ですか」
「どうして私を殺さないんですか」
「今の僕は実体を伴っていませんから。あなたが見ているのは僕の幻想だ」
「それでも、その幻想で、私をどうにかすることだってできるんでしょう」
「たとえばそうだとしても、あなたを殺して僕に何か得がありますか?」
「私は雲雀さんに庇護されています」

 会話が途切れた。私は切りかぶから視線を上げられなかった。隣にいる彼が嘆息した。そんなことはもう分かってます、と言いたげな溜息だった。
「雲雀恭弥は確かに気に入りませんが、僕はそのための手段をあなたにするつもりはありません」
「…どうしてですか? マフィア、嫌いなんでしょう。内側から壊すって、骸さん言ったじゃないですか」
「そうですね。そう言いました」
 でも、と彼が手を伸ばす。まだ滲んでいる私の視界に蓋をするように掌が被せられる。でもその手は半分透けているから向こう側が、切りかぶが見える。それじゃあんまり意味ないですよ骸さん、と私は胸のうちだけでこぼす。
「ですが僕は愚か者が嫌いではないのですよ」
 雲雀さんの声とはまた違う艶のある声。私は目を閉じた。そうすると本当にもう何も見えない。
「一本の木のために涙を流せるようなあなたが、嫌いではないんです」
「……そうですか」
 私は声を上げて泣かないように、唇を噛んだ。そうしてそこで蹲っていた。
 気付いたらもう隣に骸さんの気配はなくて、代わりに違う足音がして、私は顔を上げた。振り仰げば陽射しは最初にここにいたときよりも強くなっていて、あれからだいぶ時間がたったのだということを告げている。
「何してるの」
 だから、その声に振り返った。よく知る人がいた。雲雀さんだ。いつもの風紀委員の姿でそこに立っていた。僅かに顔を顰めて。
「雲雀さん」
「…何してるの」
 二度目になる言葉。私は視線を足元の切りかぶに落とした。一つ、また撫でる。私の掌で樹液が固まっているのが分かる。
「先週までここに木があったんです。行きと帰り、いつも見てた木なんです。それが今朝見たらなくなってて、それを見たら私、なんだか」
 言葉がそこで途切れる。
 きっともう授業なんてとっくに始まってる時間なんだろう。出席してない私を気にして、彼はここに来たのだろうか。わざわざ捜して? そういえばバイクの音が、したような気がする。
 彼が息を吐いてざくざく歩いてくると、私の手を引っぱって無理矢理立たせた。乱暴だ。骸さんは無関心な声に今はない温度のない手で、それでも私に優しくしてくれるのに。
 ああでも、私の手を握るこの人の手は、とてもあたたかい。
「君、馬鹿じゃないの」
「…馬鹿だと思います」
 俯いて言葉を返す。彼が私を引っぱって立ち入り禁止のロープを鬱陶しそうに踏みつけて、「君には僕がいるじゃないか」と言う。その声に何度か瞬きしてから顔を上げた。そっぽを向いてバイクの置いてある公園の入り口の方に向かいながら彼が言う。
「木なんかに時間が割けるならもう少し僕のことも気にしてくれる。君を捜し回るのに僕がどれだけ時間かけたと思ってるの。携帯も持ってないなんて、君とは連絡の一つも取れないし不便でしょうがないよ」
「…すいません」
 頭を下げる。彼がバイクに跨って、それから私にヘルメットを放った。ぱしとそれをキャッチする。ついでに、彼がもう一つ何か放った。それもぱしとキャッチする。そうしたらそれは携帯電話だった。一つ瞬きして顔を向けると、彼はヘルメットを被っていた。
「雲雀さん、これ、」
「あげるよ。言っとくけど僕としか連絡取れないからね」
 携帯に視線を落として、私はそれをポケットにしまった。それからヘルメットをつける。初めての携帯電話がポケットの中で重みを持って私にその存在を訴えている。
 彼が黙って私を待っているから、いそいそとバイクに跨った。ぶおんとエンジンのかかる音。
 私は公園を見た。立ち入り禁止のロープ。雲雀さんに踏みつけられて少したるんだそれ。その向こうにある切りかぶ。切りかぶなんて立ち入り禁止にする意味が分からない。工事するから、立ち入り禁止なんだろうか。

「、はい」
 意識をバイクの方に戻して彼の身体に腕を回した。しっかりくっついてないと吹き飛ばされてしまう。
 樹液で汚れた掌。けれどぱりぱりに乾いているそれが分かる。だからぎゅっと自分の腕を握った。ぱり、と乾いたそれが掌から剥がれるのが分かる。まるでかさぶたのようだ。血を流したあとにできるかさぶたのよう。
 ふと、あなたは本当に馬鹿ですね、ただの木でしょう。そう言って笑った骸さんを思い出す。
(ただの木でした。あなたもただの敵でした。でも私)
 ごつ、と雲雀さんの背中にヘルメットを被った頭をぶつける。

(でも私は、あの木も、あなたのことも、ただ悲しくて仕方がないんです)

誰の吐息も届かない場所で



(あなたは、そこにいる)