バカな私は考えたりする。たとえば明日世界が滅んじゃったらどうしようか、って。 アホな私は考えたりする。たとえば今隕石が降ってきてこの身体を貫通したらどうしようか、って。 愚かな私は、考えたりする。 もしもそんなときが訪れて、痛くて痛くて仕方ないのに、死ねなかったらどうしよう、って。 「はぁ…またおかしな悩み事ですねぇ」 私が夢に見たことや最近悩んでいることを話すと、その人は一回は絶対にそう言う。私自身自覚してはいることだけど、いざ言い切られてしまうとむぐと口を噤んでしまうのだ。その人に敵う言葉を、バカな私は持ち得ないから。 だけどその人は私のことをそれでポイなんてしない。大事な大事な、一時の入れ物なのだそうだ。私は。だからどんなにあアホなことを言ってもその人は私の言葉を投げたり流したりはしない。 その人にとって私っていう存在が大した意味を持たずとも、その人にとって私の悩み事なんてきっと退屈しのぎに考えるくらいの価値しかないんだろうって分かってても。でも私は素直にその人に悩み事を打ち明ける。 その人はきれいなオッドアイをしている、でも名前からはあまりいい印象を持てない人だった。だってその人の名前はどうやったって死体とか人の死んだ様を思わせるのだ。だからあんまり。私はその人のことを名前で呼ばない。 「あなたらしいと言えばあなたらしいですが。考えても仕方のないことを考えてもしょうがないでしょう」 首を傾げたその人。それは確かにそうだ。バカな私にだって分かる。考えても仕方のないことだ。分かってる。だけどどうしても考えてしまうことなのだ。 もしも今泥棒が入ってきたら? もしも今地球に隕石がぶつかるってことが分かったら? もしも今愛犬のチャッピーが死んでしまったら? もしも今お父さんやお母さんが倒れてしまったら? もしもお兄ちゃんが私をぶちにきたら? もしももしももしももしももしももしももしももしももしももしも、もしも。私の頭はそんなことばっかりで埋まっている。 その人はそんな私にときどき感心したように息を吐いてみせる。本当にときどきだけど。 「相変わらず素晴らしい発想力ですね。それを負以外に活かせたらきっと君は上手に生きられたんでしょうが」 負、と私は首を傾げる。その人は説明はしない。ただ思ったことを口にするだけだ。退屈しのぎに私の悩み事を聞いてくれる。そう、聞いてくれるだけ。答えをくれるなんて限らない。むしろその人は答えなんてくれない。悩み事を抱えて苦悩する私を楽しんでさえいるように見える。 それでも誰かに話せば少しはすっきりするかなと、私はいつもその人に話をする。だってその人は病院の先生みたいに薬だけ出してはい終わりじゃない。ちゃんと話は聞いてくれる。だから言葉はくれる。先生みたいに投げやりじゃない。だから少し、私はこの人のことが好きだ。 だけどやっぱりその人は優しいわけではなくて。だから私が悩んで悩んで悩んでいるとときどきこう言う。私の首に手をかけて、違う色の両目で私を見て。 「何なら僕が殺してあげましょうか」 そう言って。私の喉仏に親指を押しつける。 私がこわいのは痛いことだ。痛くて痛くて仕方がないのにそれに終わりさえ訪れないこと。いいことは瞬きの間にすぐ過ぎ去っていくくせに、悲しいことは私の頭上で暗雲を広げて雨を降らしてくる。私はそんな世界が嫌いだ。そこで息をすることは苦しくて苦しくて仕方ない。ときどき息の仕方を忘れることがある。どうせならずっと忘れてしまえばいいのに。何もかも忘れてしまえばいいのに。そう思うことがある。 じゃあいっそ死んでしまえば。痛くて痛くて苦しくて苦しくてしょうがないならいっそ死んでしまえば。 だけどいざそのときになって痛くて痛くて苦しくて苦しくてしょうがないのに死ねなかったらどうしようって、考えたりする。 そう言うと。彼は私に向かって少しだけ笑うのだ。 「死んでも楽になれないこともあるんです」 私はそれがいやだった。嫌いだった。だから私は死ねなかった。もし死んで次があったらどうしよう? もしも死んでも同じような責め苦が続くんだったらどうしよう? だったらまだ病院のベッドで震えて丸くなってた方がいい。まだ入ってきた誰かに向かって枕を投げつけた方がいい。まだその方がましだ。 私はその人がこわいと、思ったことはない。その人は多分私の悩み事なんて赤子の鳴き声くらいにしか思ってない。耳障りなのかもしれない。だけどそれさえも微笑みで流してしまえるような冷たい人なのだ、と思う。 存在さえ流して。聞きたいものだけ聞いて。見たくないものは見ない。そうやっても生きていける人なのだと。 だから私はあなたがうらやましいと漏らしたことがある。そうしたらその人はおかしそうに笑った。 「やめた方がいいですよ。ここは暗くて寒くて冷たい。君にとっては地獄のような場所だ」 地獄、と私は呟く。その人がくふふと笑う。おかしな笑い方をする人だと思うけれど、私は別にそれはいやじゃない。 私がいやなことは最初から最後まで一つだけだ。 そうして私は目を覚ます。月明かり。白いベッド。掲げた自分の腕は痩せ細り骨と皮と筋肉しかない。最低限のものしか持たない自分。ベッドの脇にある点滴の機材。腕に打たれている針、そこに繋がる管。ぽつ、ぽつと点滴の雫が落ちていく透明なビニール袋の景色。 月明かり。私は起き上がって点滴の針を引き抜いて捨てた。 「、」 声が掠れて。出ない。 窓辺には人が佇んでいる。こつと窓を叩いてみせて「ここは無用心ですね。君のような人は地下室にでも閉じ込めておくべきなのに」と言って外に視線をやった。 「…っ、」 声が。出ない。 そんな私を見てその人がくふふと笑う。 「知っていましたか。僕と話をする度に、君の頭はおかしくなっていったことを」 そう言われて、私は瞬きする。目がなんだか重たい。視界もどこかおぼつかない。遠くはないはずなのに、その人がやけに遠くに立っているような気がする。どこかすごく、遠い場所に。 「どうしますか。飛べますよ」 「と、ぶ」 「ええ。何せ鉄格子でも水牢でもありませんからね。ただの窓だ。君には手枷さえない。足枷はもちろん。君は自由なんですよ」 「じ、ゆ、う」 「はい」 「…む、」 掠れて上手く出ない声。その人が初めて、多分私と話し始めた今までの中で初めて深く微笑んだ。それは多分初めての羨望の目だった。 「疲れたのならお眠りなさい。僕にはすでにその資格もありませんが、君はそうじゃない。君はきちんと死ねます」 「、し」 「死ねますよ。ちゃんと眠れます。永遠に」 それは。多分、羨望と。そして、限りなく愚かなものを見る、見下す目だったけど。 それでもその人が月光を背に深く微笑んだ様は、私には美しく見えた。 だからぎこちない身体をそれでも動かす。だからぎこちなくでもぺたとベッドから足を下ろす。その人はそんな私を飽きることなく見ていた。いつものように。いつものように。 だけど今日は何かが違う。 だって私はいつもみたいに椅子に座ってない。その人は退屈そうに社長椅子に座ってるのに、私は教室にある固い木の椅子に座ってるのに。そうしてテーブルを挟んでの会話だったのに、今日は違う。 今のこれは。私の現実だ。 「む、くろ、さ」 掠れた声。あんまり好きじゃないその人の名前。だって骸だなんて、死体を連想させるような名前だ。だから私はその名前が好きではなかった。 だけど思えばその名前は。死体となった人は、死ねた人なのだ。ちゃんと死ねた人なのだ。瀕死の重傷を負いながらも病院のベッドで目を覚まして絶望した人じゃない。屋上からダイブしたのに下敷きになった人だけ死んで自分は下半身麻痺で動けない死に損ねた人ではない。骸は死体。死体は、死んだ人。死ねた人を指す。 だから、私は。初めてその名前が好きだと思った。 「むくろ、さん」 「はい」 「わたし」 からからと窓を開ける。たった四階分の高さしかない。だからその人を見る。骸という名前を持つ人を。 これでもし生き残ってしまったら? 痛くて痛くて苦しくて苦しくて仕方ないのに死ねなかったら? そう、あなたのように。廻って廻って戻ってきてしまったら? だけどその人は微笑む。限りなく愚かなものを見る目で、だけど羨望するものを見るような目で私を見る。 「死ねますよ。僕が約束しましょう」 「、」 だから窓枠に手をかける。身を乗り出す。高い。でもこわくはない。痛いのはこわい。でも痛みの向こうに安らぎが待っているのなら、ずっとずっと続く責め苦から逃げられるのなら。私はそれでよかった。 だから。私は落ちた。 だから。私は醜い音と一緒にしたたか全身を地面にぶつけた。感覚は飛んだ。痛くなかった。呼吸を忘れた。それが嬉しかった。 最後に。視界と意識を失う前に見たのは。骸という名前を持つ人の、彼の微笑んだ姿とその向こうの夜空。月。最後にしては上出来なきれいな景色。 ほら、死ねたでしょう そう唇を動かす彼の動きが最後。私は、私でなくなった。 |