『魔法』って言葉は、子供の頃に誰でも憧れ、そして親しんだものであると思う。
 たとえば本のページの中に。漫画の一コマに。あるいはテレビ画面の中に。携帯端末でアプリとして。
 カラクリのわからない科学の力は、子供の目には魔法のように映っていただろう。
 でもそれはあくまで魔法のように見せているだけであって、魔法そのものではなかったのだ。漫画も、本も、テレビも、ゲームも。すべては魔法を描いているだけで、神秘そのものではなかった。
 魔法なんて、実在しない。世界はそんなに甘くはない。…そのはず、だったよな。一昔前までは。
 それが今はどうだろう。
 人差し指を立てて指揮するように空気を震わせる、ただそれだけで緑に輝く炎が指先から無限に生まれた。種も仕掛けもない。これは手品じゃない。「くそ…っ」分が悪い、とようやく気付いたらしい相手が戦闘から離脱しようとするところを逃さずパチンと指を鳴らすと、さっき生み出したばかりの炎が形を持った。緑に輝く和龍が俊足で相手の背中に食らいついて地面に倒してのしかかる。
「もう一回きくけど、所属のクランは?
 ここは緑の属領なんだ。まぁ、オレが勝手にねぐらにしてるだけの場所なんだけど、それでも属領なんだよね。手出ししたからには覚悟はできてるんだろ?」
「てめぇ、離せ! このバケモンが…ッ」
「……うーん」
 話が通じない相手だな、と指で頬を引っかく。「もしかして、一般人?」銃を持って乗り込んでくる時点で『ただの一般人』というカテゴリからは外れてるけど、炎を操れないならこちらから言う『一般人』ってことになる。
 あー、一般人かもしれないなぁ。そうだとしたら、オレ、下手しちゃったなぁ。
 シェンロン(龍の形をした炎をそう呼びたいからつけた名前)に押さえ込まれたままの男を眺めて、口封じに殺すっていうのはどうだろう? なんて我ながら物騒な思いつきをしたとき、羽音が聞こえた。視線だけ上げると緑色のオウムがこっちに飛んでくるのが見えた。コトサカだ。
!」
「やぁコトサカ。もしかして流に見つかっちゃった?」
 オレの肩にとまったコトサカの雰囲気が変わった。アホっぽいオウムの片言声じゃなく『肯定です』と慣れ親しんだ声がした。
 コトサカほど片言じゃないけど、感情の起伏のない声。我らが緑のクランの王、比水流の声だ。
『こちらで調べました。ただの一般人です。解放してあげましょう』
「いーの? オレは別に殺してもいいけど」
 シェンロンの下敷きになって動けない男からひっと悲鳴が上がったのを無視する。「先に発砲して仕掛けてきたのもあっちだしさ。おかげで窓ガラス割れたんだ。それに、顔を見られてる。このまま逃がすのは愚策だろう?」なぁシェンロン、と呼びかけると緑の龍は男を踏みつける足に力を込めた。緑のクラン、改変の力で書き換えられた物理法則により、シェンロンという炎でできた龍の重みは大の男の重さから乗用車一台分の重さへとどんどん重量を増していく。
 と、バチッ、と耳元で力が爆ぜる音がした。流がコトサカを介してオレの力に制限を課したのだ。
 指先一つで作り出せた炎の維持は呼吸するのと同じくらい簡単だったのに、今は維持が難しかった。不安定になった力の供給に、シェンロンが苦しそうな声を上げて消えていく。
 王直々の力の枷。
 クランズマンは王に従う臣下だ。王の命令は絶対。逆らえるはずがない。
 は、と息を吐いて降参だと肩を竦めたオレから飛び立ったコトサカは、まだ転がったままの男に見える位置に端末を置いた。ってあれオレのじゃん。いつの間に。
『君のことは調べました。名前、現住所、所属の事務所、年収、家族構成』
 端末から立体映像が浮かび上がって、今転がっている男の情報が次々重ねられていく。よくもまぁオレとこの男が接触したこの十分前後でこれだけのデータを掻き集めたなぁと感心する。
 しまいには使用している銀行の口座と暗証番号まですべて羅列していく。男の顔色は真っ青どころか紫だ。
『…簡単に取り上げても君のことはこれだけ判明しています。君の口座から全財産を引き抜くことも、君の家族に手を出すことも、我々にとっては容易なことです。
 しかし、こちらの要求を呑むというならば、今並んでいるデータのすべてを消去するとお約束しましょう』
 ポケットからタバコを取り出して、禁煙してるんだった、と投げやりにポケットに突っ込んだ。タバコは思いのほか金がかかるんだよ。
 男は紫になった顔で馬鹿みたいに頷くのみだ。「わ、わかった。わかったよ。要求ってのは、なんだ」張り合いのない奴だ。まさに一般人。こんなの相手にしていたオレの十分がもったいなく感じてくる。
 オウムを介して流が言う。『彼と出会ってから起こったすべてのことを口外しないということ。決して。誰にも。それさえ守られるならば、我々は君に手出しはしません。今宵の邂逅はなかった…ということになります』……つまらない取引だった。途中で興味がなくなったオレはさっさとねぐらにしているビルに戻った。
 なんの変哲もない、というよりは、オレのねぐらは寂れたビルだ。買い手がなく改装途中で放置されたままのビルの一階を俺が勝手に改造して自分の部屋にして使っている。
 こだわって買ったどでかいテレビにホームシアターセットが鎮座しているのが特徴的な空間で、ソファのすぐ近くには冷蔵庫がある。映画やテレビを見ながら飲み物も食べ物もすぐ手に取れるように。部屋で好きなだけテレビや映画を見られるように。それだけを考えた空間。
 爆音で流れ続けている映画を止め、憶えのあるシーンまで巻き戻す。
 バサ、と羽音がした。コトサカだろう。勝手に入ってきやがった。
 どかっとソファに腰掛け、冷蔵庫の扉を開けてコーラを取り出す。よく冷えててうまそうだ。

「んー」
 プシュッ、とキャップを捻ってよく冷えたコーラを呷る。
 これこれ、この喉越し。ビールよりよっぽどうまい。オレはビールばっか飲むイワさんとだけは反りが合いそうにない。
 コーラのつまみを探して冷蔵庫をあさるオレの腕にコトサカが乗ってきた。口にはオレの端末をくわえている。ちゃんと持ってきたか。『聞いていますか』「聞いてます」『先ほどの男は丸め込みました』「そーですか」まだ開けてないカマンベールの箱を見つけて手に取る。コトサカは携帯をソファに落とすと、視界を邪魔するように首をひょこひょこさせた。『』「あー、何。聞いてるよほんと」『帰ってきてくれないのですか』チーズの包装を破る手が一瞬止まり、すぐに包装紙を破り出す。
「なんで? オレの任務は地上で活動することだろ。地下で身を潜めてなきゃならないお前の分までさ」
『それは、君が自分で作った行動理由です。俺が命じたわけではありません』
「そーだっけ。もう忘れたな」
 チーズを一欠片口に放り込む。映画を再生しようとしたらバチッと緑の火花が散って画面が落ちた。「…流」いいところなのに。
 コトサカが肩にとまって顔を覗き込んでくる。
『スクナが寂しがっています。対戦相手がいないと』
「ゲームね。相変わらずガキだなぁ」
 実力があるからこそ背伸びして一人でいる子供を思い出す。鎌なんておっかないものをぶん回して、スクナは今日もスコアがどうとか言ってるんだろう。
『紫も寂しがっています。遊び相手がいないと』
「…あいつの遊び相手って疲れるんだよ…」
 紫は、パッと見イケメンなのにオネエ言葉で色々と台無しにしている残念な剣士だ。いや、侍、か? まぁどっちでもいいか。とにかく紫は相手をするのが疲れる。稽古だと称して修行に付き合うのも疲れるし、雑誌とかテレビとかの話題に付き合わされるのも疲れる。オレは女子じゃない。
『俺も寂しいです』
 流の声に何か言おうとして、口を閉じた。
 長くなってきた前髪を片手でかき上げて天井を見上げる。
 今もまだ車椅子に座り拘束具で束縛されているだろう流を思い出す。その無機質な瞳を。「寂しい? お前が?」『肯定です』「お前は、死んでる。その感情はどこからきてる」『部分的に否定です。俺は確かに一度死にました。しかし、石版の力で生きている』「……それを生きてるっていうのか」流の胸の穴を思い出して苦虫を噛み潰すオレの視界にひょっこりとオウムが顔を出す。

『君は、魔法が好きです。だから、これは夢だったはずです。
 死人が生き返るような世界。変えようのないルールを己の意思で覆すことができる世界。
 俺は君に魔法の力を与えました。俺は君の夢を叶えました。
 これは魔法の一部です。君の力も、俺の生存も。全部魔法です』

(ああ、確かにな。ファンタジーだよ。死人が生き返って、物理法則を無視する力が使える。子供の頃憧れたゲームのような力が今のオレにはある)
 特別なことなど何もない右手をかざして、コトサカの小さな鳥の頭を撫でる。コトサカが撫でられていることを介してその向こうにいる流が何を受け取ったのかは知らないけど、オウムは満足そうに目を閉じて静かになった。
『帰ってきてください。
 流は時折そう口にしては静かになる。
 オレは長い間黙ってコトサカの頭を撫でていた。そして、折れた。
 はあぁ、と腹の底から息を吐いて「わかったよ。一度帰るよ」と言葉を絞り出す。
 コトサカは勢いよく飛び立ち、「、カエル! カエル!」と片言で叫ぶように喋った。流はもうそこにいなかった。オレが帰ると言ったことに満足したのか、接続を解除したのだ。
 正直なところ、帰りたくはない。帰りたくはないけど。
(顔を出すくらいなら、仕方ない)
 久しぶりに都心の地下に広がるカビ臭い空間に足を踏み入れ、ブーツの底で金網を蹴飛ばした。
 建設途中で放棄されて久しいというこのだだっ広い空間は、何に使われる予定だったか。聞いた話はもう忘れた。あまり興味もなかったし。
 だだっ広いばかりで何もない、もったいない空間をだらりと歩いて行くと、カンカンカンと音が響いてきた。オレじゃない誰かの足音だ。この歩幅の感じだとスクナだろうと予想していると、暗闇を割くようにして緑の光が見えた。あ、嫌な予感。
 反射で指を鳴らしてシェンロンを作ってスクナの鎌の刃を受ける。緑の力同士がせめぎあい、ギギ、と音がする。
「お、反応鈍ってないな」
 いきなり襲っておきながらスクナは楽しそうに言って鎌を振るって距離を取った。「お前ね…危ないって」溜息を吐いてシェンロンを引っ込める。
 続いて落ち着いた靴音がして、やって来たのは紫だった。こっちはまだ常識人なのでいきなりオレを襲うようなことはしない。
「止めたのよ? でも聞かなくって」
「だろうね」
「おかえりなさい。流ちゃんが待ちわびてるわ」
「そ」
 だらりと歩き出したオレにスクナがついてくる。「なーお土産は?」「地上に行ってただけで旅行に行ってたわけじゃないぞ」「ちぇ、つまんないの」わかりやすく唇を尖らせたスクナにはーと息を吐いて、ポケットから手を引き抜く。
 面白半分でさっきみたいに襲われちゃたまらないと思って対策にゲームを数本買ってきた。最近の流行りだから面白いかどうかはオレは知らないけど、当分スクナの暇潰しにはなるだろう。
「ほら。やるよ」
「あるじゃんお土産! やったぜ!」
 子供らしく喜んでからはっとした顔で「ま、買ってきちゃったもんはしょうがないしな。もらってやるよ」と俺の手からソフトを引ったくっていくスクナに肩を竦める。これで当分の安全は確保された。
 案内されるでもなく場所は憶えていたけど、地下の空間を歩いてしばらく。見覚えのあるこじんまりとしたアジトが見えてきた。
 こんなにだだっ広い空間なのになぜか八畳一間の狭い空間を仕切って作り、そこに洗濯機やら冷蔵庫やら台所やらが詰め込まれた狭いことこの上ない一室。流はそこにいた。出ていったときと同じ、車椅子に座ったその身体は拘束具で固定されたままだ。
 無機質。オレにはそう感じられる瞳がこっちをじっと見ている。
「おー、帰ったか無鉄砲者」
 昼間からまた飲んだくれてる似非神父のイワさんにひらりと片手を振り、くたびれた畳の間に上がる。
 …オレは、流が苦手だ。
 流はオレの夢を叶えた。夢のような力を与えた。夢を現実にした。魔法は現実に成った。
 現実になってしまえば、魔法はちっぽけな『手段』に成り下がる。
 俺の夢は流のせいで叶い、流のおかげで手にできて、流が色褪せさせた。
 緑のクランの王、比水流。過去に一度死に、夢のような力で生き返った流は言う。「おかえりなさい、」と。拘束された手を伸ばしたいというように拘束具が音を立てる。オレは溜息と一緒に「ただいま」の声をこぼし、流に顔を寄せて触れたいという奴の願いを叶えてその額に額をくっつける。
 ちゃんと温度がある。そのことがまたオレに曖昧な苦味を与えてくる。

 夢は現実になった。魔法は現実になった。
 その結果、どうだ。
 その結果が、これだ。これなんだよ。

 あの頃のキラキラした思考や感覚はもうない。
 大人になったオレは、夢の力を、魔法の力を、現実を生きるための『手段』として用いた。
 日常を生きるために日常的に力を使っている。それは夢でも魔法でもなんでもなくて、生活するのに必要なものを買うときに出す紙幣のように味気なく、色もない。
 昔は、夢も魔法も虹のようにまばゆく輝いていたのにな。手に入れた途端に褪せていく。手折った花がやがては枯れていくように。
 叶えばなんてことはない。こんなにもあっけない。そして、ありふれてしまう。
 オレの夢の花を手折った流は、きっとそのことに気付いていない。
「もうどこへも行かないでください」
「…難しいなぁそれは」
「次に出て行くときは拘束します。スクナに頼みます」
「オッケーだぜ流! 任せろ! を捕まえるとか朝飯前だって!」
 さっそく買ってきてやったゲームをプレイしながらぐっと親指を立ててみせるスクナがいっそ鬱陶しい。子供はいいよ、気楽で。
 紫は肩を竦めて「王様の命とあっちゃあね。協力するしかないわね」「えー…」紫まで。イワさんなんか聞くまでもなく流に甘いしな。オレの味方はなしか。
 溜息を吐いたオレをどう思ってるのか、至近距離の瞳から感情は読めないままだ。
 こいつは何考えてんだろう。
 オレをクランズマンに勧誘したのだってそうだよな。オレはスクナや紫のように戦闘がうまいってわけでもない。情報収集能力に長けてるってわけでもない。緑のクランズマンらしく上手く力を使ってるわけでもない。なのに幹部のJランカーとしてここに出入りしているっていうのは、世話役のイワさんを抜かすと変な話なわけで。
 本当に何考えてるんだこいつは、と半ば呆れたときだった。流が目を閉じた。ん? と思ってる間に唇に何かが触れる感触がしてばっと顔を離す。
「あら、やぁね流ちゃんたら。みんなの前よ?」
 紫が知ったようなの顔でそんなことを言う。その声が頭の中をぐるぐると無意味に回る。「おま、何し」ぱち、と目を開けた流がオレを見上げた。「接吻です」「はぁ? なんで?」混乱の極みに達してぐるぐると回る思考。流は小首を傾げて「何故、ですか? したいと思ったからです」「はぁ?」もうわけがわからん。わからん。ぜんっぜん流がわからんぞオレは!
 脱兎のごとく逃げ出そうとしたオレの足を紫が上手いこと払ってすくい上げた。おかげで畳の上ですっ転んだ。それまでゲームに熱中していたスクナがスイッチを切り替えたように鎌を手にして「お、逃げるのか? じゃあ捕まえちゃうぜ」と笑う。
 引きつった顔のオレに、やって来たイワさんがぽんと肩を叩いた。ビールの缶を呷って「ぷはー」と息を吐くと訳知り顔で一つ頷く。
「諦めろ。緑のクランから逃げることなんてできんさ。ましてやその王、流から逃げるなんてな、できるはずがない」
「肯定ですイワさん。
 引いてダメなら押します。石版が手に入った暁には、俺が押し倒してあげます」
「いやっ、いやいや! ちょっと待って話し合おう、まずは冷静になろう!」
「俺は冷静です。冷静に、君が好きです」
「は、…はぁ?」
 開いた口が塞がらない、とは、このことだ。
 流はオレに薄く笑いかけて、繰り返すのだ。「君が、好きです」と、呪縛のように、そういう呪文のように、オレを求めて言葉を紡ぐのだ。
「俺は、。君が、好きです」
崩落のきらめき