彼は、カミサマに愛されている。

 初めて出会ったとき、彼は公園の展望台に一人で立っていた。
 まだ9歳の子供が高い場所で一人、どこかぼうっとした顔で、意識はここにあらず。俺の目には彼がそんなふうに映った。
 そのときはちょうどイワさんが「喉渇いたな。ちょっと自販でジュースでも買ってくる」と言い置いて俺から離れたときだった。
 俺と彼を取り巻く空間には俺達を隔てるものなど一つもなかったのに、彼はまるで、俺に気付いていなかった。
 俺に気付くことなく、ぼうっとしていた顔を輝かせ、宝物を見つけたかのように展望台の手すりに駆け寄り、空へと手を伸ばす。
 そこには何もないし、空に届くわけもないのに、彼は一心不乱に手を伸ばしていた。夢の世界への扉がすぐそこにあるかのように、何かを確信しているように、空へと手を伸ばしていた。
 俺は考えた。あの離れた場所まで届くだけの声は出せない。姿も届かないのなら、声も届くことはないだろう。
 彼は手すりに片手をついて、もう片手を可能な限り空へと伸ばしていた。
 彼の手の先に、何か。見える。気がする。
 人の手、のような。何かが。
 考えている間に、彼は手すりを乗り越えていた。
 落下の開始。
 俺は王としての力を解き放って車椅子を蹴飛ばした。力を使えば人ではありえない速度で駆け抜けることも、空を飛ぶこともできた。それでもその落下に間に合うかどうかは賭けだった。俺が俺として覚醒してからまだ日が浅い。力を充分に使いこなせている自信はない。
 それでも俺は手を伸ばして、落下するばかりの彼を地面との激突から救った。思い描いたように理想的に、怪我一つなく救うことはできなかったけれど、擦り傷の一つや二つですませることができた。
 怪我をして、痛みを感じたことで、彼はようやく『自分は展望台から落ちたのだ』ということに気がついた顔をした。恐怖か何かに凍りつきそうになったその顔に「大丈夫ですか」と俺が声をかけると、彼は俺を見上げて、俺が力を解放したことにより現れた、空に掲げられた巨大な剣を見て、瞳を輝かせた。「すごい」と。「すごいっ」と俺にしがみつく相手に目を瞬かせて、「そう、でしょうか?」とぎこちなく首を捻ると、彼は笑った。「かっこいい!」と。手放しで俺のことを称賛した。

 彼は、カミサマに愛されている。
 だからあの日、カミサマは彼を連れて行こうとした。自分の御下へ。手の届くところへ。他の誰も届かない場所へ。
 彼はあの日のことをおぼろげにしか思い出せないという。なぜ一人で公園に来ていたのか、なぜ自分が展望台に上がったのか、なぜ落下したのか。そのすべてをぼんやりとしか憶えていない。はっきりしているのは彼が俺を認識したところから。小さな怪我の痛みで意識が返った、そのときから。

 この世には不思議なことがたくさんある。その一つがドレスデン石版。
 魔法のような力を生み出している石版が存在しているのだ。それを作った神のような存在がいたとしても不思議はない。
 石版が王となる人間を選ぶように、神が、人を選ぶ。そんなこともあるかもしれない。この世界に『ない』と断言できることなど何一つありはしないから。
 ぼんやりとしたあの手のことを思い出すと、今でも背筋がピリピリとする。
 だから俺は彼をクランズマンにした。力を与えた。自らを連れて行こうとする神に抗うための力を。もし俺の力が届かないところで何かが起きても、自分でも抗えるように。俺のように、死なないように。
 俺は、彼のことが好きだった。愛していた。心の底から。魂の髄から。
 パチリ、と目を開ける。数秒天井を見つめてから起き上がると、瞳から何かがこぼれていった。「…?」首を捻ってみる。またポロリと何かがこぼれていった。
 涙。そう気付いて軽く頭を振る。
 今のは、夢、か。に出会った最初のときの。
 あの日のことは忘れるはずがない。
 あのとき確かに空で手招きしている誰かを見た。力の具現か、はたまた神か。あの手は今も彼を欲しているのだろう。渡さないと決めた俺がいる限り、渡しはしないけれど。
 一人で車椅子に乗り、部屋から出る。皆が集まるリビングのような場所となっている八畳一間の空間に行くと、見慣れた顔が並んでいた。「おはよう流ちゃん。今日は少しお寝坊さんね。朝ごはん、先にいただいちゃったわ」俺に向かってウインクしてみせる紫に浅く頷く。「おはようございます。俺は、寝過ごしたんですね」「珍しいな流。疲れてたのか?」スクナの言葉に緩く頭を振る。
 イワさんがやって来て俺が部屋に入るのを手伝ってくれた。
「ありがとうイワさん」
「ほいよ。朝飯食べるだろ?」
「はい。その前に、は」
 彼の姿だけがこの場になかった。俺が寝坊したことを考えれば彼はすでに朝食をすませて自室にいるのかもしれない。…そうだと思いたい。
 彼の名前を口にすると、ぽっかりとした空洞でしかないはずの左胸が痛んだ、気がした。おかしな話だ。ないものが痛むなんて。
 紫が首を竦めてみせたので、だいたい察することができた。「また、行ってしまいましたか」呟く声から落胆の色は隠せなかった。
 また、行ってしまった。俺を置いて。
 俺が、求めたから。彼を求めるカミサマのように、それに負けないように、求めたから。彼は行ってしまった。
 視線を俯ける俺にスクナがぱちっと手を合わせて頭を下げる。「ごめん流、あいつ明け方に出てったんだ。さすがに寝てて、俺、気付けなくて」つまり、そこまでしてでも、彼は出ていくことを選んだ、ということだ。俺と一緒にいたくないと。つまり、そういうことだ。
 ポロリ、と瞳からこぼれた涙は、俺の意思とは関係がないようだった。三人がそれぞれ驚いた顔をするのを眺める。「気にしないでください。失恋しただけです。涙は、勝手に出てくるだけなので。本当に、気にしないでください」飛んできたコトサカが肩にとまった。「ナガレ、ナクナ! ナクナ!」まったくもってそのとおりだ。泣いたところで何にもならない。
 イワさんに朝食を食べさせてもらいながらいくつもの画面を起動させる。パパパパと切り替わる映像の中にの姿を発見して映像を止め、場所を特定する。
 彼はまたあのビルに戻ったようだ。映画とテレビを見ながらコーラのボトルを呷ること。彼はそんなありふれたことが好きだ。
「紫、連れ戻してください」
「力ずくでも?」
「力ずくでも、です」
「OKよ、我が君」
 紫はウインクを残してすぐに部屋を出ていった。スクナが慌てたように紫を追いかける。「ちょ、待てよ紫! 俺も行くっ」やがて二人の足音は遠ざかり、聞こえなくなった。
 がいる寂れたビルをじっと見つめる俺に、ビール缶を開けたイワさんが首を捻った。「フラれたってのに、ご執心じゃないか」フラれた。そう、確かに俺は彼にフラれてしまった。それでも俺は彼を諦めるわけにはいかない。俺が諦めてしまえば、は今度こそカミサマに連れて行かれる。今も空の向こうで手招きしている何かに心を奪われ、連れていかれる。
「イワさんは、カミサマを信じていますか」
「あん? 俺のこの似非神父の格好のことを言ってんのか?」
「否定です。そうではないです。
 宗教の神や、人の心の良心の神や……そういった曖昧なものでも構いません。神、というものを、信じていますか」
「お前さんふうに言や、否定、だな。カミサマなんて都合のいい存在がいたら、世界はこんなことになってねぇよ。俺も、お前もな。信じるなら確かなもんにしといた方が無難ってもんだろ」
 イワさんは自嘲気味に笑ってビール缶を呷った。
 俺はじっと画面の中の彼のいるビルを見つめた。
 この間もそうだった。あれは偶然ではない。のいるあのビルに人がやって来ることなどないはずだったのだ。
 あの場所には誰も来ないよう、最大限に警戒していた。どのルートの侵入もしっかりと見張っていた。
 その日そのときその時間、たまたま、一人が急な腹痛でトイレへと駆け込み、俺の目のなくなった場所を男が通過した。
 次の地点の見張りは急な家族の訃報の電話の対応に追われ、物陰に隠れて背後を通過した男の存在に気付かなかった。
 その次の地点の見張りは男に気がつき銃を手にしたが、なぜか故障していて動かず、男がビルに侵入する前に仕留めることができなかった。
 これだけの偶然が都合よく重なれば、それはもう奇跡でしかない。
 奇跡的にのいるビルに辿り着いた男は拳銃を持っていた。おまけに酔っていた。彼が力を使えなければ死んでいる軌道で銃を撃った。
 すべてが無駄なく美しく計算されて、ジャングルの網をくぐり抜けて、男はあの場所にやって来た。それはまさに『奇跡』としか言いようのない素晴らしい計算の果てに成った現実。そんなことをなせるのは。
(神)
 ドレスデン石版という前例がある。この世には『ない』と断言できるものの方が少ないのだ。
 だから、俺は、を守らなくては。
 一時間後、紫に引きずられるようにして戻ってきたはボロボロになっていた。彼だけではなく、紫もスクナも、上着が切れていたり擦り傷を作っている。
 嫌な予感に拘束具を忘れて伸ばした手が軋んだ。満足に動けない身体が今は疎ましい。
「どうしたのですか、その怪我」
「大したことないわ。みんな軽傷よ」
 紫によれば、を連れ帰る途中で車の事故に巻き込まれたらしい。紫にスクナ、そしてクランズマンとしての力があったからこそ軽い怪我だけですんだような大きな衝突事故。
 ネットで調べれば確かにその事故は起こり、記事になっていた。…普段は事故など起こらないような場所だ。
 神の存在を感じて俺の背中はピリピリと痛くなる。
 すっと息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。深呼吸を何度か。そうして昂りかけた気持ちを落ち着ける。
 みんな無事だ。考えすぎだ。…そう思いたい。
 畳に座り込んだが俺を見上げた。その瞳にないはずの心臓が騒ぐのがわかる。「流…」「はい」「ただいま」「おかえりなさい、」帰ってきた彼にかける言葉はいつも同じ。でも、今日は近くに来てはくれなかった。昨日のことをまだ気にしているようだ。
 避けられている。そう思うとまた涙が出そうで、必要以上に瞬きを繰り返す。
 泣いたら余計に彼が嫌がるだろう。そんな俺にはなりたくない。
 堪えていると、紫がパンと掌を打ち合わせた。「さ、邪魔者は消えましょうか」紫の言葉にイワさんが意味ありげなウインクを寄越してエプロンを外した。「そうだなぁ。おっさんはたまには散歩でもしてくるかな」「さ、スクナちゃんも」「はぁ? なんで俺まで、って痛いだろ紫離せ、はーなーせーっ」スクナのことは紫が引きずりながら自室の方に連れていった。イワさんもふらりと部屋を出ていくと、そのままどこかへ行ってしまう。
 あっという間に二人きりになってしまった。
 は遠慮がちに俺を見上げた。近くには来てくれないけれど、露骨に避けるほどには嫌われてはいない。それがわかって少しだけ安堵する。
「あのさ、流。ずっと疑問だったんだけど」
「はい」
 何を言われるのだろうと心だけで構えた俺に、彼は遠慮がちに俺が穿いているものを指差した。「それ、スカート?」「スカート…なのでしょうか。イワさんが俺の世話をしやすいようにと、下は穿いていません」「ああ、そう。じゃあスカートだ…」納得したのかしていないのか、彼は顎に手を当てて何かを考える仕草を見せる。
 首を捻る俺に、彼はガシガシと髪をかいた。「あー」とか「うー」とか何かを言いかけては口を閉じて、俺を見上げては何かを言いかけ、やっぱりやめる。そんなことが何分も続いたのち、彼は立ち上がった。俺のそばに足音荒くやってくると車椅子を一つ叩く。
「部屋。行こうぜ」
「………、」
 その言葉の意味を理解するのにたっぷり十秒ほどはかかった。「部屋」「部屋」「誰のですか」「お前のだよ」こん、と拳で額を小突かれる。そんな感覚にすら愛おしさを感じる。
 目の前に光が差し込んだかのように明るくなる。あたたかくなる。その感覚が、とても、心地いい。
 しかし。この展開は俺にとって都合がいいというか、望むところというか。あまりに望みどおりなのも何か気味が悪いと思うのは、俺がひねくれているせいだろうか。

「ん?」
「なぜ、気が変わったのでしょうか。俺のことを考えてくれたのですか?」
「んー…まぁちょっと冷静にはなったよ。混乱すると自分を忘れるのはオレの悪いクセだ。
 昨日は、傷つけて、ごめん」
 もそもそとした声に緩く頭を振りたかったけれど、できなかった。傷ついた。涙が出るほど。それは事実だった。
 やがて、イワさんの絶対守護の霧を詰め込んだ特製の鉄の壁の部屋が見えてきた。
 あの中にいれば俺は拘束具を解いて動くことができる。裸になることも、自由な姿勢で寝ることもできる。あの部屋でならそれができる。
 暗くて必要なものしかない部屋に車椅子で乗り込んで、カチリカチリと拘束具を外して両腕を自由にする。その間に扉が閉まって小さな電気が灯った。もともとそのつもりで改造した部屋に明るい灯りはいらない。
 自分の足で立ち上がった俺を、がなんともいえない表情で見つめている。
「光…見えるな」
「見ますか」
 あまりに攻めすぎてもいけないと紫からさらなるアドバイスをもらった俺は、胸元の拘束具をゆっくりと外した。見たくない、とは言わなかったに見えるように衣服をはだけさせ、左胸の穴を見せる。緑の光が輝くこの穴は、俺が一度は死んだ証。この光は俺が生きている証。
 俺がベッドに倒れ込むと、しばらくしてが近くにやってきた。俺に開いた穴とそこで光り続ける力をじっと見ている。
 ゆっくり、そっと、壊れ物を扱うように慎重に手を伸ばして、彼の頬に触れた。
 彼は何かを言いかけて…ようやく、言葉を口にする。
「あのさ。最近、ちょっと変なんだ」
「何がですか」
「オレが。ちょくちょく変だなと思うことはあったんだけど。なんか、誰かに呼ばれてるような感じがするんだよ」
「…、」
「ここにおいで、って」
 誰かに。呼ばれている。
 俺は唇を噛み締めた。
 ああ、ろくでもないカミサマは諦めていない。彼のことを。どうしても連れて行きたくて強引な手段にも出てきた。そのうち抗いようのない手段すら用いて彼を殺しに来るかもしれない。
 たとえば、ダモクレスダウンのような大きな事故。俺が死ぬことにもなった事故。逃れることの難しい力を行使し、その魂をさらっていくかもしれない。
 そんなことは、俺が、許さない。
 の手が伸びて俺の右胸に触れた。その掌に心臓が跳ねるように胸の光が瞬く。
 彼はじっと俺を見ていた。目を逸らすことなく。
「それで、意識がふわっとして、気がついたら紫に助けられてた。そんで……なんか急にお前に会いたくなったんだよ。流」
「そうですか。嬉しいです。とても」
 彼の手は、それで離れてしまったけど。おそらく、これでいいのだ、と思う。
 欲張ってはいけない。焦ってはいけない。
 もどかしさを呑み込んで、空っぽの胸の光に気持ちを押し込めて、彼が安心できる俺であれるようにと思う。笑うことを心がける。
 たとえ神が相手だとしても。俺はあなたのことを諦めないし、きっと、守り通してみせる。
君のにかかる透明