という名の女を一人、地下に囲っている。 今日でちょうど二年目。アイツにとっちゃめでたくも何でもない日だろうが、年という節目として、寿司を買った。 俺も甘いなと思いつつ人気のない道を歩き、視界を舞ったマフラーを指でつまむ。 白い色だったのにクリーム色に褪せてきた。暇潰しだとそそのかして新しいものを作るように仕向けるか、と考えながらボロ屋の引き戸を開き、閉める。見た目の通り中身もオンボロの屋内の一番奥の部屋。パッと見ればただの壁である場所のある部分を押すと壁が床に収納され、地下に続く暗い空間が滲み出す。 毎日毎日この階段を下りては上がる。毎日毎日飽きることなく通い続ける。 白詛が空気感染する病なら、俺を通して、アイツはとうの昔に感染・発症しているだろう。そうでなくてもアイツが口にしてる物は結局病の溢れる世界に晒されたものでしかない。感染するならもうしてる。 かかったら半月とせず死ぬ病。 分かっちゃいる。きっと大丈夫だ。口にしなくはなったが二年も閉じ込められてたら外に出たいと思うのは普通の衝動だ。たとえこんな終わった世界でも自分の納得がいくまで歩きたいと思うだろう。かつて経営していた店の心配をするだろう。そこがどんな廃墟となっていても、現実を知ろうとするだろう。 それを許容できない俺は、アイツにとって憎い男だろうか。 鉄の扉の前で立ち止まり、ピピピピとパスワードを早打ちすると、バシュ、と音を立てて開いた。 窓のない閉鎖的な空間で、布団の上でチクチク何か塗っていた女が顔を上げる。「…それ何?」「寿司」「お寿司っ?」ぱっと一段階表情が明るくなったところを見るに、寿司は嫌いではないらしい。 小さなちゃぶ台に寿司を置き、常備のミネラルウォーターで湯を沸かす。寿司には日本茶がないと話にならない。 「何かいいことがあったの? 近藤さんが助けられたとか」 「いいや。あの人ならまだ幕府の牢の中だ」 「じゃあ、なんでお寿司?」 別に、とぼやいて横目で確認すると、よく分からない顔をしていた。…ここにはカレンダーも時計もない。時間経過の分かるものは何も置いてない。俺がアンタを攫ってここに閉じ込めてからもう二年になるなんて、気付いちゃいない、か。 急須に茶っぱを入れて湯を注ぎ、湯のみ二つを持ってちゃぶ台に置く。幕府からの横流しのもんだからそれなりに色と香りのある茶だった。 自分から茶を用意した俺によく分からない顔をしているのを鼻で笑う。俺だって茶くらい淹れるよ。 「総悟」 名前で呼ばれて、湯のみを持つ手が一瞬止まった。 あの日。土方が俺がお前を軟禁する理由をそれとなくバラした日、翡翠色の瞳に吸い寄せられるままキスをした。 なぜ自分を軟禁するのかと理由を問うから、口に出すよりこうした方が早いんじゃないかと思った。 まぁ、言いたくなかったという意地もある。何が減るわけでも壊れるわけでもないが、好きだから、なんて俺らしくないし、ただでさえコイツには色々甘くて自分が嫌になってるところだ。これ以上自分で自分の首を絞めたくなかった。 でも、結局、俺はまた自分の首を絞めているわけだ。 何もなかった顔で茶をすする。こっちを見つめる翡翠色に気付かないフリでマグロをつまんでワサビ醤油につけて口に放り込む。 諦めたのか、呆れたのか、それとも腹が減ってたのか、やっと寿司をつまんだ細い指を眺める。布団の上に放置されているのは縫い物のようだ。暇だからまた何か作るんだろう。 「おいしい」 ぱっとまた一段階表情が明るくなる。「そいつは何より」とぼやいてエビの尻尾をむしってワサビ醤油につけて口に放り込む。いつもより明るい表情を見てるのは、悪い気分じゃない。 満足そうな顔をしてると、いつも通りの俺。とくに会話もないまま寿司をつまんでは食べる、それだけの時間。 が「お腹いっぱい」と満足そうに茶をすすったので、じゃああとは俺が食うか、と全部胃に収めた。寿司なんて日持ちしないもの残しておいても仕方がない。 さすがに俺も腹がいっぱいだな、と茶をすすって、翡翠色の瞳がこっちを見ているのに気付く。 …なんだよ。言いたいことがあるなら言えよ。言葉で仕掛けられても誤魔化してばかりだったせいか、本当に言いたいことがあるときはこうやって目で訴えてきやがる。心臓に悪い。まだ喧しい女の方がやりやすい。黙って静かに佇んでるなんて、卑怯だ。 着物の袖を揺らして手を伸ばし、口の端についてた米粒を指でつまんで食べた。お前も女なんだからもうちょっと気を遣え。 「え、あ」 俺が食べたことでようやく気付いたらしく恥ずかしそうに臙脂の袖で口元を隠す。さらに上目遣いでこっちを見上げてくるのがそれなりにぐっとくる。流行病に掠め取られちゃたまらないと閉じ込めたくらいなんだ。他の女だったらまだしも、お前にそういうふうにされると、それなりにグラつくよ、俺も。 口を隠す着物の手を掴む。別にもう何もついちゃいないっていうのにもう片手でそれでも顔を隠そうとする手を掴んで、魚と酢飯とワサビ醤油と日本茶の味がする唇を舐めた。 それでも目は閉じないんだなと翡翠色を見つめながら思う。 (ちっともキスらしくないな) それくらいの方がいい。あんまり甘いと俺がもたない。これでこのキスが砂糖みたいな味がしようものなら胸も頭も甘ったるくなってしまう。そのせいで言葉や雰囲気まで甘くなったらどうする? そんなの、男としてマズいだろ。 ここには俺との二人きり。いつだって入り口から伸びるのは細い理性の道。一歩踏み外したら、間違える。 「…総悟はずるい」 少し離れた唇がそう言葉を紡いだ。へぇ、とぼやいて黒い色の髪に指を絡める。ちっとも甘くないキスだったのには俺に甘えて着物の襟に顔を押しつけてきた。黒い髪に指を絡めたまま目を細める。 初めてキスした日から、少しずつ、距離が縮まっていく。 そのうち人斬りのこの手はを抱くのだろうか。 「おい総悟」 気に入らない声に呼び止められて仕方なく一瞥くれてやると、土方十四朗はタバコの煙を吐き出すのと一緒に言葉を吐き出した。「まだ囲ったままなのか」「…アンタにゃ関係ない」「そうもいかんだろ。元真選組一番隊隊長の名が泣くぞ」別に、ほしくてもらった名でも地位でもない。だいたいあの場所をどうやって特定してパスワードの解析もしたんだか知らないが、勝手に入るな。囲ってる意味がなくなる。 睨みつける俺に土方はタバコを吸い続ける。晴天の空と瓦礫の景色の中に紫煙が溶けて消えていく。 「外に出したところで、離れていかんと思うがな」 ぼそっとしたその一言に、抜き放った刃でタバコを斬り落とした。 ちっ、避けやがった。斬ってやるつもりだったのに。「お前、今本気だろ! 切れたらどうしてくれんだっ」「そのまま死ねばいい」吐き捨てて刀を収め歩き出す。 トップの近藤さんがヘマをして捕まって真選組は事実上解散、土方は誠組とかいう過激攘夷党を結成したらしいが、俺はただの人斬り沖田総悟だ。もともと土方は気に入らない人間だった。これ以上足を止めてやる義理はない。俺は俺のやり方で近藤さん救出を計画するだけだ。 晴れた空と瓦礫と廃墟の目立つ景色の中、まばらな人の姿の中に、この景色の中に立った臙脂色の着物姿を想像する。 この光景に呆然とするだろう。壊れた江戸を前に立ち竦むだろう。自分の店だった廃墟を目にして涙すら浮かべるだろう。…でも、知らなければよかった、とは言わないだろう。そこまで弱い女ではないから、自分から知りたいと言ったものを拒絶することはない。現実を理由に逃げることはしない。精一杯受け止めようとする。この俺のこともそうだったように。 ち、と舌打ちして振り返ると、土方の野郎が立っていた。くわえていた団子の串を投げつけてやると足元の石を蹴ってきやがったから避けてやる。 「てめェ、人の女の部屋にホイホイ出入りしてんじゃねェ。斬るぞ」 「心配してやってんだ。そっちこそ面倒かけさすな」 「ハァ? 俺がいつアンタに迷惑かけたんだよ」 「お前少しは自覚しとけ。人斬り沖田総悟だろうが。幕府があの辺りを嗅ぎ回ってる。あの場所がバレるのも時間の問題だぞ」 「幕府の連中なんざ斬って捨ててやる」 「で? 血を浴びた姿であの子の前に行くのか? 浴びなくていい血を浴びてあの子は喜ぶのか?」 知ったような口を利く土方にぎりっと唇を噛んだ。 アンタに言われるまでもない。 もう二年だ。あの場所に閉じ込めて二年。毎日通い続けて二年の場所だ。幕府の犬が俺を追ってるとしたらとっくに俺の出入りするあの場所を特定してるだろう。強行手段に出ようと思えば出られる。扉の横辺りの壁をドリルとかバズーカとか使えば突破できるんだ。あそこだって安全じゃない。もう二年なんだ。もう、限界だろう。 たん、と地面を蹴って土方の横を駆け抜けた。 他の誰かに言葉にされて、大丈夫だろう、まだいいだろうと誤魔化していた現実が急に差し迫ったものに思えた。 昼間でも人気のない道を走り、ボロ屋の引き戸を開き、閉める。見た目の通り中身もオンボロの屋内の一番奥の部屋。パッと見ればただの壁である場所のある部分を押すと壁が床に収納され、地下に続く暗い空間が滲み出す。駆け下りて扉に縋りついてパスワードを早打ちしてしくじった。ビー、とエラー音を撒き散らすシステムに舌打ちしてもう一度パスワードを打ち込み、バシュ、と開いた扉の向こうの部屋に転がるように駆け込む。 部屋の中には、誰もいなかった。「…?」空っぽの布団を剥ぎ取る。いない。 なんで、と焦った思考は冷静じゃなかった。ここにいないなら洗面所の方面しかない、と扉を開け放って、後悔した。「ひゃっ!?」素っ頓狂な声を上げてバスタオルで身体を隠す姿にコンマ一秒で背を向ける。それでも見えたもんは見えた。 なんだ。いた。よかった。…じゃなくて。 「そ、そそそそ、そ、総悟おお」 「悪い」 これには素直に謝った。「出てって、閉めて!」と叫ばれて素直に従って扉を閉める。そのままへたり込んで熱のある顔に掌を当てた。 女の裸なんざ見るのは初めてでもないし、大したもんでもないと思ってたが。侮ってたな。いや、アイツが特別スタイルがいいとかそういうんじゃなくて。好きな奴の裸体はまた別ってやつだ。現金だなぁ男ってのは。女は女だろうに。 「なァ」 ごつ、と扉に頭をぶつけて声をかける。返事はない。聞こえてはいるだろうからそのまま続ける。「外に出たいか」と。しばらくして「出たいけど、なんで?」ともそもそした声。着物を着付けてるのか衣擦れの音がする。 「出してやってもいいと思って」 「……なんで? 今まで絶対駄目だって言ってたのに」 「別に、いいなら」 「で、出たい。嫌だなんて言ってない。外に行きたいよ」 慌てた声に片膝をついて立ち上がる。二年が暮らした部屋を眺めて、最低限だけの荷物を勝手にまとめた。着替えと作りかけの何かの手芸品。個人的なものはそれくらいしかない。あとは生活必需品と持っていけないような物だ。 ようやく出てきたはほんのり赤い顔をしていたが、俺が部屋を片付けているのを見て目を丸くした。「何してるの?」「見ての通り。ここは捨てる」「え? え、なんで?」「幕府の連中が嗅ぎ回ってるから」風呂敷包みにまとめた荷物を肩に担ぐ。「他にいるものあるか」「え、っと」また洗面所に戻っていく背中を見送って刀の柄に手をやり鉄扉を横目で睨む。 面倒だな。の前で人斬りにはなりたくない。 鉄の扉の横に立ち、パスワードを解除しようと頑張ってるらしいエラー音を聞きながら「総悟、これだけ持っていきたい」と化粧品やらを手に寄ってきたの唇に指を当てる。黙っとけ、と。おずおず頷いた翡翠色の瞳が窺うようにエラー音を撒き散らす扉を見つめるので、壁際に押しやった。 土方の野郎に解除されるくらいだ。探せばその辺りに売ってる型の扉と鍵だ。本気になれば解除される。専門の機械でも持ってたらまず一発だ。 すぅっと息を吸い込む。 バシュ、と音を立てて開いた扉からなだれ込んできた人の中に飛び込む。最初の二人の首を鞘でぶっ叩いて気絶させる。「ひ、人斬り、」言いかけた一人に回し蹴りをかまして壁に叩きつける。刀を抜いた一人に目を細めて鞘をぶん投げて弾かせ、肉薄し、こめかみに抜身の刀身の柄をぶち込んで黙らせる。俺ではなく壁際で小さくなっているの方に意識を向けた野郎には踵落としのち肘鉄という一番キツいのを見舞っておく。 人の倒れる音に目を瞑っていたがそろりと翡翠色を覗かせて、泣きそうな顔で駆け寄ってきた。久しくなかった緊張のせいで転びそうになった相手を抱き止めて、ぶん投げた鞘を拾い、刀を収め腰帯に差す。 「そ、総悟、怪我は」 「俺を誰だと思ってんだ」 荷物の風呂敷を担ぎ直し、化粧品やらは小さな鞄に入れさせて、二年間通い続けた部屋を出る。 さて。この場合階段を上がった上にももちろん幕府の犬がいるって考えるのがスジだろう。俺はそれを殺さないで片付けないとならない。 そろそろと後ろをついてくるの手を離す。「いいか、俺が戻ってくるまでここにいろ」「え」「返事」「ど、どうして?」「…さっきのは様子見にやって来た連中だ。他にもいるって考えた方がいい。そいつらを片付けてくる」「殺す、の?」恐る恐るというふうにかけられた声に振り返ると、翡翠色の瞳がこわごわこっちを見上げていた。 (ああ、そうだな。正直面倒くさいから殺してやりてェよ。人斬りの異名らしく。でも、それじゃお前は喜ばねェんだろ?) 「さっきのだって殺してない。…同じようにやる」 ぼす、と風呂敷包みを預けて腰帯に差した刀を鞘ごと抜いて、階段を駆け上がる。 外にいた二人をのして建物の外へと飛び出したが、包囲されているということもなく、平和な青空が広がっていた。人の気配もない。 まだ本格的に捜索される前だったんだ。運がいい。ああ、あるいはこの情報を掴んでた土方がわざとらしく俺に振ったのかもしれないな。余計な世話ばっかしてくるが、今回のことは感謝してやってもいい。 屋内に戻って階段を下り、風呂敷包みを抱えて俯いているに「終わった」と声をかける。ぱっと顔を上げたアイツは俺に怪我がないかと返り血がないかを確認して勝手に安心していた。…馬鹿な奴。 階段なんて久しく上っていないから、すぐに息が切れて足が鈍くなるの細い手を掴んで引っぱりながら地上を目指す。 「私、足、萎えてるね」 「そうだな」 「階段なんて、久しぶり」 「ああ」 「総悟」 「なんだ」 「外に、出るようになっても。総悟は、私のところに、毎日、来てくれるの?」 最後の一段に足をかけたまま振り返る。息を切らして膝に手をやりながら、眩しそうに目を細くしてこっちを見上げる瞳は不安そうに揺れていた。 「その必要はなさそうだ」 「え、」 不安を表情全体で表す顔に笑って顔を寄せてキスをする。 譲歩してたんだよ。単独行動してるんだから好きなときに好きなだけ一緒にいられたんだ。それを自分で制限してた。そうじゃないと際限がなくなりそうで、歯止めがきかなくなりそうで、怖かった。こんな先の見えない不透明な世界で決定的に大事なものを作ってしまうのを恐れていた。失くしたら立ち直れないような、そんなものを避けてこようと、無駄な足掻きをしてきた。 もうとっくに、失くしたら立ち直れない、大事なものになってたっていうのに。 「傍から離さねェ」 宣言して、細い手を引っぱって地上へと引き上げる。 息を切らしたせいだけでなく紅潮した頬を眺めてから視線を外し、ボロ屋の引き戸を前に一つ息を吸う。 大丈夫だ。世界は俺からコイツを奪いはしないし、白詛はコイツを侵さない。二年大丈夫だったんだ。だから大丈夫だ。廃墟の現実しかなくたっては泣き喚きはしない。俺の手に負えないくらい絶望したりはしない。大丈夫だ。女ってのは強かな生き物なんだから。そうでなくてもコイツには俺がいるんだから、絶対、大丈夫だ。 「行くぞ」 「うん」 緊張した面持ちのが俺の手を握り返してきた。 初めて指と指を絡めて手を繋ぎ、 古くて軋んだ音を立てる扉を引き開け、 俺達は二人で外の世界への一歩を踏み出す。 |