結婚式とか。そういう感じ
皮肉なことに、彼女がそう口にするまで。僕はそんな可能性を欠片も考えていなかった。
当たり前と言えば当たり前だ。だって僕はすぐ近くに死ぬ運命。死ぬ定め。それでも立場や立ち居地は最高指導者として何も変わらないまま病人として一つの扱いも受けず、また情けも受けず、預言を神の言葉のように崇める馬鹿みたいな狂信者によって死さえ感受され。
だから考えたこともなかった。結婚式なんて単語は頭を掠めもしなかった。
どうして今日は彼女のところへ行こうと仕事を投げ出したんだったか。確かにいつも彼女のところへ行くときは僕は最高指導者導師イオンではなく、ただのイオンとして彼女のもとへ行った。最高指導者の立場が利用できるものなら利用して、ただ彼女に接するときだけは肩書きだけのそれは剥がれ落ちる。
彼女は僕より年上で。だけど思考は恐らく僕の方が冷めていて僕の方が冷静で。それはきっと全然子供らしくないことだろう。最も子供のままじゃこの仕事は務まらない。最高指導者なんて立ち位置で耐えられるわけがない。
だから僕は子供を捨てて。
そんな僕でも歳はやっぱりまだ十一のまま。彼女より三つ幼いまま。
だから一度は捨てた子供を、本来ならそう在るべき姿を。僕は彼女といる間だけは束の間、取り戻すことができた。
彼女が僕をイオンとしか見ないから。ただのイオンとしか見ないから。僕もそんな彼女だからこそ素直に接することができた。
ぎりぎりのラインだったろう。きっと彼女も僕も。
彼女は大人と子供の境界線に立っている。大人の方へと一歩踏み出せば、仕事で埋没されるつまらない社会の中に取り込まれてしまえば、きっと利己的な思考になって子供の思考はどこかへ埋もれ、どこにでもいる腐った大人の一人になっていた。
ぎりぎりのラインだったと思う。僕は死にかけで、彼女は大人になりかけで。
そんな刹那とも言える中で出逢って。
そしてその刹那も。もう過ぎ去ろうとしている。
笑う?
もう笑った
そうだね。笑ったね
彼女が笑う。僕も薄く笑む。今更なことだ。彼女がそういう類の言葉を口にしない人だったせいもある。恋とか愛とかには興味がないふうだった。だから僕も気付けなかった。彼女が気付いてくれなかったから自分で無意識にしまいこんでいたそれに僕自身気付けなかった。
恋をしているんだと。気付けなかった。
死人に近付く体温で、握り締めた彼女の手が熱い理由は。ただ自分の体温が低下しているだけではないんだと。僕は今更に気付いた。
僕が彼女を構うようになったのは、恐らく歳が近かったせいもある。それから年上であったことも条件に入るか。
僕にとって同年齢あるいはそれよりも下である者は相手にするに値しない思考しか持たず、だから僕の相手はおのずと大人や僕よりは年上の相手に限定された。
彼女もそんなうちの一人で。数いる腐るほどいる教会の中の人間の一人で。そんなところはどこにでもありふれていた。
違ったのは、彼女が僕に媚びへつらうことはせず、僕に対しても誰にでもそうするようにしか接さなかったことだろうか。
僕のことをイオン様と呼ぶのは常だ。何せ僕はローレライ教団最高指導者導師イオンだから。あのくそ親父モースでさえ僕のことは人前では一応イオン様と様をつけるのだから。
彼女だけだった。僕のことを敬意も皮肉も何も込めずにただそう在るように、イオンと、そう呼んだのは。
それが少し心地よかったから。それが少しだけ許せる響きだったから。だから僕は彼女にそう呼ぶことを許した。
それはいつだったろう。いつ頃の話だったろう。もう随分と遠い昔のように感じる。
たった十一しか生きていないのに。そのうち自我を確立し自分の意志で行動し始めるようになるまで、きっと人生の半分くらいを取られてる。僕が僕として生きてきた年数はあまりにも少ない。あまりにも。
そうしてすぐそこで、終焉は暗いその口を開けて僕が倒れ込むのを待ってる。容赦ない冷たい風で僕の体温を奪いこの意識さえ持っていこうとしている。
でもね、多分そうだよ。僕はそれがしたかったんだ
だから逆らうようにそう口にする。僕を引き込もうとする暗くぽっかり開いた穴。風を吸い込む音と冷たいそれが身を切るようで寒い。痛い。
きっとね。遠い未来を君と、そうやって生きてみたかったんだよ
だから。逆らうようにそう口にする。
僕に未来はもうない。それは絶望以外の何者でもなかったけれど。死に向かう身体をそれでも酷使してまだ立っていないといけないなんて辛すぎて、今すぐにでも膝を折ってしまいたい気持ちにさせたけれど。
僕に、初めての気持ちをくれた人がそばにいるから。だから僕は逆らうように深く呼吸する。僕はまだ息をしてる。息をしている。だから。
だからまだ。遠い未来はなくても。近い未来なら。明日なら。明後日なら。それくらいなら僕にも残されている時間だと思うから。
なんで過去形
その声に顔を向ければ、彼女の表情が抜け落ちていたから。その表情のなさに僕は思わず笑ってしまう。
(どうして過去形か。だって僕に未来はないから。でもこれは誰にも言えないんだよ。ごめん。君にも言えないんだよ。ごめんね)
きっと僕が子供だったなら、もうすぐ死ぬんだよどうしようとか助けてとかいくらでも言葉が出てきて君に縋ることができたのかもしれないけど。僕はもう子供じゃない。
どうしてだろうね
イオン、
…にそう呼ばれるのは好きだったな
少し、疲れて。椅子の背もたれに背中を預けて目を閉じる。
寒くて暗くてたまらなく冷たい、この世の全て。
僕から様々なものを取り上げただけでは飽き足らず、僕の命さえ蝕み死へと導く預言という凶器。それを善とする人の狂気。この場所は狂ってる。
ねぇ、愛でも誓おうか
誰もいないのに?
僕に愛してるって言われるの不満?
不満じゃなくて。なんか、心配
痛みで意識半分の中、聞こえる声に瞼を押し上げる。暗闇を蹴散らす。首を傾けて僕を見つめる彼女。大人でも子供でもない、だからこそ僕に対等に接してくれた彼女。
僕の残り時間はあとどれくらいだろうか。
だから意識を現実に引き戻し。僕は彼女の片手を握り締めて、もう片手を彼女の肩にかけて。身を乗り出して。
キスをした。初めてだった。よく分からなかった。自分の体温が冷たすぎるせいかもしれないし、痛みで身体が崩れ落ちそうなせいかもしれない。よく分からなかったけれど、僕は今日一つ確信したことがあった。今更だったけれどそれは多分、気付かないで終わってしまうよりは、いいことだったんだと思う。
「僕は君が好きなんだよ」
それは。最後の最後で彼女の顔を思い浮かべて涙を流して彼女の名前を口にするよりは、ましなことだと。そう思った。
だから。未練なんて感じてなかったはずのこの身体が、空っぽの身体が。誰もいなかったはずの寒い場所に灯った灯りが今更すぎて。僕はすごく、泣きたくなった。
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そばにいたのは
死神だけですか
(そうじゃなかったと今更口にできる僕は、不幸なのかそうでないのか)
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