あと14ヶ月と13日

 彼女曰く、『愛』というものは尽きないんだそうだ。それは人の気持ちの移り変わりというものを無視した話であると思う。人は皆多くに惑わされ多くに苦しみ多くに悲しみ多くに憎しみを抱く。その流れの間の愛など取るに足らない。少なくとも僕はそう思っていた。
 愛なんてもの。負の感情の集合体と比べればいくらにもならない。愛には底がある。悲しみには底がない。苦しみにも憎しみにも底がない。だけど愛することには底がある。
 だけど彼女は言う。本物の愛はそういうものじゃないと。尽きることなんてないんだと。
 愛は尽きないと。彼女は僕に言う。
 僕は彼女に返す。そんな愛なんてないよと。
 だけど彼女は僕に言う。愛は尽きないよといつもの笑顔で。
 ねぇじゃあ僕のことも愛してくれてるの?
 もちろんだよ。イオンのことだって愛してる
 どういう意味で? ただの偽善的な愛?
 ううん。本当の愛
 彼女の言う愛が僕には分からない。ただ握られた手が熱く感じて、真冬の雪の降る街並みの中で街頭に照らされる彼女の笑顔が遠くに感じられた。握られた手が熱いのに寒い気温のせいで身体中冷たい。だけど握られた手だけが熱い。
 彼女の言う愛が僕には分からない。
 それって好きって意味?
 うん。わたしはイオンのこと大好きだよ
 …ふぅん
 特別感情を込められずにそう返したら、彼女は少し悲しそうな顔をした。だけど僕の答えなんて彼女は想像してたのだろう。だから僕の手を引いて教会に帰ろうと言うのだ。風邪引いちゃうよといつもの笑顔で。
 僕は黙したまま彼女に手を引かれて歩き出す。
 彼女の言う愛が。僕には分からない。

あと1年

 彼女の言う愛が分からないまま冬が終わって春が訪れた。彼女は花がきれいなこの季節が好きなんだそうだ。空気がふわふわしてどこか気分が浮き足立つこの春が。
 僕は、春が嫌いだった。昔から嫌いだった。彼女がきれいだと言う花に意識を向けたこともないし、彼女が中庭で風と一緒にくるくる回る姿を見ていても春を好きにはなれなかった。彼女は楽しそうだった。とても楽しそうだった。まるで風と戯れてそれに運ばれる花弁と一緒に踊っているかのようだった。
 おいでよイオン
 彼女が僕を呼ぶ。僕に手を差し出す。僕は黙したまま備え付けのベンチに座っていた。とてもじゃないけどあんなふうにくるくる回って踊る、そんな気分じゃなかった。
 だけど彼女が僕のところに来て僕の手を握る。そうするといつかの冬の日のように手が熱を持った。まるで彼女に反応して火を灯す譜石のように。
 いいよと遠慮しても彼女が僕の手を引く。それから嗜み程度にしか踊ったことのないダンスの形を取ってお相手お願いしますと頭を下げてみせる。だから僕は口を噤んだ。ダンスなんて社交パーティでも踊らない。導師はただそこに存在するだけでよかったのだから。
 だから僕は口を開く。下手だよと。彼女がぱっと顔を上げて嬉しそうに笑った。わたしも下手だよと。
 そうしてステップを踏む。頭の中は昔にならったはずのダンスの講義と知識を引っくり返して探していた。だけど彼女は形だけであとはもう気の向くまま、自由に踊るだけ。だから僕は途中でそれをやめた。彼女についていけばよかった。彼女が楽しそうにくるくる回るからときどき引っくり返した知識の中から必要な部分を探した。まるで預言の中から必要な部分を抜粋しているような気分。彼女は楽しそうに風と花弁と戯れている。だけど僕は、そうはなれない。
 ねぇ。やっぱり似合わないよ
 そうかな。イオンだってダンスくらいするでしょ?
 しないよ
 嘘。おえらいさんのパーティーとかでするんでしょ?
 …しない
 彼女は首を傾げてふぅんと言った。それから僕の手を離してじゃあやめようか。イオン楽しくなさそうだもんねと困ったように笑った。
 僕は離された手を袖の下に隠して拳を握る。
 ねぇと呼びかければまた一人でくるりと一回転して踊り始めた彼女がなぁにーと間延びした声を返してくる。僕は顔を上げてそんな彼女を見た。僕のこと好き? と訊けば彼女は躊躇いも間もなくうんと言っていつもの笑顔で笑った。
 こんな何もしてない僕のことを昔から好きだと彼女は言う。愛は尽きないんだよと彼女は言う。
 だけど僕には彼女の言う愛が分からない。ただ彼女に握られた手が熱くなる、それくらいしか分からない。

あと12ヶ月と46日

 今日はマルクトの新しい皇帝の戴冠式だった。預言通りの。
 彼女はわざわざ港まで出てきた。船に乗り込む僕を見送りに。導師守護役が周りにいるし僕はこのまま船に乗り込んでグランコクマへと行かなくてはならない。彼女がそんな僕に遠くから手を振った。いってらっしゃいの意味だった。
 目を細めて、僕は少しだけ立ち止まった。幾百幾千の人々の中で少しだけ彼女が分かった。霞む視界で僕は彼女を見つめる。
 何を言ったとしても通じるはずもない雑踏と人の多さとこの距離。だけど僕は彼女に向かって言った。君の愛は尽きないのかいと。
 彼女は。僕が何を言ったのかは分かっていないと思うしきっと何も分かっていないと思う。だけど彼女はいつもの笑顔でただ笑った。僕の言葉に答えるように。
 おかえりイオン。大変だった?
 別に。ただ見てるだけだったから
 そう? でもこれ
 帰ってきた僕を迎えた彼女。導師守護役には下がらせて僕は彼女と一緒に夜も更けた中庭を歩いた。少しだけ飛んで跳ねた血色が法衣を汚していた。彼女がそれを見て眉尻を下げる。
 もしも僕がレプリカなんてものと関わっていると知ったら彼女はどんな顔をするだろう。どんなことを言うだろう。
 束の間駆られた衝動。だけどそれも彼女が僕の手を握ったことで消えてなくなった。代わりに灯ったのは熱いと感じるあの感覚。
 彼女が怪我はないよねと言う。僕はないよと返した。ダアト式譜術で人を消し去ったことは伝えなかった。そのための返り血だということも言わなかった。彼女もそれについては訊かなかった。
 なんて言ったか分かった?
 え?
 船に乗るとき。君に向けて言った言葉
 遠かったもん、わかんない
 そうだね。遠かった
 彼女の手を握り返しながら誰もいない中庭を歩く。沈黙が訪れたけれどそれは居心地の悪い沈黙じゃなかった。ただ彼女の手を熱いと感じる、それが全身に広がっていくように錯覚する、そんな生温い夜だった。
 もう一年を切った僕の寿命。彼女がそれを知ったらなんて言うか。
 ねぇ
 うん?
 もしも僕が
 だけど言いかけた言葉は途切れた。彼女が不思議そうに首を傾げる。僕は黙して自分の残り時間を思った。残り時間とするべきことを。
 もう導師のレプリカはいくつも作成されてる。使えるレベルのものができてないだけで僕の代わりはいくらでもいる。だけど僕は僕しかいない。そんなことは分かってる。
 『僕』を愛してるんだという彼女に。僕は伝えるべきなのか。一人の人としてそれでも僕が思ったことを。だけどどうにもならない未来を。
 僕は死ぬんだと。彼女に伝えるべきだろうか。
 だけど僕は死なない。導師イオンは生きる。僕は死ぬけれど導師は死なない。だからイオンは、僕は死なない。
 だけど僕という意識は死ぬ。だから僕は死ぬ。彼女にとって僕は。
 ねぇ
 うん
 僕のこと、愛してくれてるの?
 うん
 彼女が笑う。躊躇いの間のない笑顔で。
 だけど僕は、彼女の言う愛が。僕にはまだ分からない。

あと半年

 その日は導師の代わりが決まった日だった。そして僕が導師でなくてもよくなる日だった。とうとう僕の代わりとなるレプリカが完成したのだ。
 そんなことを知らない彼女はいつものように教会に顔を出した。公式の行事で顔を出すことになっている僕に会いに来たのだ。いつものように。
 だから僕もいつものようにしていた。これで僕はもう用済みの導師だという事実がどこか重く心にのしかかっていた。だけど彼女がいた。いつもの笑顔で群集の遠くから僕に大きく手を振ってみせた。
 固定された導師の微笑みを浮かべながら僕は彼女を見つめた。預言をと馬鹿の一つ覚えみたいにそればかり口にする群集のその向こう、遠い場所にいる彼女を見つめた。
 もうすぐ本当に届かなくなる。
 僕が死ぬまであと半年。僕が消えるまであと半年。
 その間に。彼女に何か、伝えないといけないんじゃないかと。思い始めていた。
 だけど具体的に何を口にすればいいのかが分からない。彼女は相変わらずよく笑う。僕のことが好きなんだそうだ。どこがどうとかそういうことは言わない。ただ僕の存在を愛しているんだと。愛に底はないと。愛しいものはただ愛しいと心が感じるんだと。
 僕には彼女の言う愛が分からない。そんな無制限な愛が、無限で無謀な愛があるなんて思えなかった。だけど現実の彼女は僕を好いてくれている。そんなことずっと分かってる。
 だけど彼女の言う愛が僕には。
「アリエッタは本日任務を解かれました。明日からは別師団に属することとなります。これでよろしかったのですか」
「ああ。彼女は僕の守護役。レプリカにまで仕える必要はないさ」

 最後の日。僕はベッドの上で最後の会話をしていた。
 結局彼女には何も言えなかった。伝えることが分からなかった。何を言ったら的確なのかが分からなかった。
 ただ、彼女を最後に見られないのは残念だと思った。
 今日あの教壇に立っているのは僕じゃない僕。彼女は気付いただろうか、僕が僕でないことに。そうしたら一体どんな顔をするだろうか。彼女は。彼女は。
(何を言えばよかったんだろう…何を言えば)
 もう叶わないことを思いながら目を閉じる。じわじわと四方から暗闇が迫ってくるような感覚。
 どうして僕は死なないとならないんだろう。今更な疑問を頭から追い出して彼女を探した。すぐに見つかった。僕の中で彼女はいつものように笑っていた。
 イオンと。僕を呼んで。
「……、
 掠れた声を出す。もう誰もいなくなった部屋で、暗い暗いその部屋で、最後の力で手を伸ばした。
 彼女の愛は尽きないのだという。じゃあ僕が死んでも、君は僕を愛してくれるだろうか。いつもみたいに笑ってくれるんだろうか。たとえばそれが僕の墓でも、僕の偽物でも。君は僕という人を愛するんだろうか。
 君の愛は一体どこまで。どこまで。未来の僕がいたとしたらどこまで、愛して、

 伸ばした腕がくたりと力を失って崩れ落ちる。目尻から滑り落ちるこれは涙か。僕は泣いているのか。どうして。どうして?
 どうして。僕は。
 僕のこと。ずっと好きでいて疲れない?
 イオン、好きってそういうものじゃないよ。愛っていうのは消えないし尽きないんだよ
 …僕には、君の言う愛が分からないよ
 困ったような顔をした彼女。わたしはイオンが好きだよと僕の手に掌を重ねる彼女。こんな僕のどこが好きだと言うのか。だけど彼女は僕のことを好きだといつもいつもいつも。いつも。
 ずっと好きだと。消えたりしないし尽きたりしないと。君は。

 伸ばした手がベッドに落ちる。意識が暗闇へと落ちる。抵抗しようのない水中に放り込まれる。そうして息ができなくなる。僕は死ぬ。
 僕は、
(しにたく、ない)
 僕に未来があるなら。僕は見つけたい。君の言う愛のかたちを。僕は。ぼくは、
ゼロ