彼女は自分を傷つけるのが上手だった。それこそただ無駄に自分を追い詰める行為が上手だった。自分を窮地に立たせることが自分であるというように、彼女はいつもどこか淵に立っていた。
「ねぇイオン、痛いのは嫌でしょう? だからその痛みを忘れるために新しい痛みを与えるの。そうすれば前の痛みを忘れることができるのよ」
 彼女はそう言って軽やかに笑ったものだ。ころころと笑ったものだ。本当に心の底からそう思っているとでもいうように。それが自らの身体を傷つけるものだろうと自らの身体を汚すものだろうと彼女は厭わなかった。ただ止まらなかった。自分を傷つけることだけが彼女の生きることだった。
 痛いのは嫌というのは分かる。それは僕だって思った。だけどその痛みを忘れる方法が何も痛みの上書きだけではないだろうと、僕は彼女の白い肌に口付けながら思う。
 彼女の痛みが何を指すのか僕にはよく分からないし、彼女は僕より年上だ。痛みを厭わない、けれど何より痛みを恐れ止まることを恐れどこかへと進もうとしている人だ。預言は彼女の未来をどう詠んだろうか。僕が彼女に出会ったのはとても刹那すぎて、だけどそれでも彼女の白くて傷だらけの身体は人の体温がした。生きてるんだから当たり前だけど。
 時間が癒す痛みもある。愛が癒す痛みもある。何も痛みを痛みで上書きして忘れ去る必要はないんじゃないか。僕はそう思っていた。だけど彼女の傷だらけの白い肌の前では言葉が消えてしまう。ただ彼女が全てを忘れるために僕はできることをする。ベッドに上がって彼女の唇に口付ける。そうやって彼女が望むままに彼女を抱く。そうすることで彼女は束の間痛みを忘れる。
 だけどそれは間違っているんじゃないかと、僕は思っていた。
 そんなことではいつか君は死んでしまう。痛みに痛みを上書きしていたらいつかパンクしてしまう。どこかにひびが入って壊れてしまう。君はそんな簡単なことにも気付けないのだろうか。それとも死ぬまで、死という終わりが訪れるまで君は痛みに痛みを上書きし続けるかなしい生き方を続けるのか。
。もうやめよう」
「何が?」
「こういうこと。君のためにならないよ」
 命の期限。迫っているそれを感じながら彼女の鎖骨に口付ける。
 彼女を慰めるために僕は彼女を抱いていたつもりだったけど、どうやら慰められていたのは僕の方だったようだ。彼女がころころと笑う声が耳に響く。それが心地いいと思う。そんなことに今更気付く。人は死の間際にならないと分からないこともあるなんていう言葉があったけれど、それは、こういうことか。
 こんなありふれてるどうでもいいことを大切だと気付くのか。今更に。全くもって馬鹿だ。遅すぎる。
「痛いのは嫌なのよイオン。あなたなら分かるでしょう? ただ忘れていたいのよ。あなたなら分かるでしょう」
 彼女の唇が僕の唇を塞ぐ。そうやってキスすることにもすっかり慣れた。
 そうだね確かに君の言う通りだ。痛いのは嫌だ。忘れていたい。だけどやっぱりこれは、この方法は間違っている。
 だから僕は彼女の肩をぐいと押して身体を引き離した。汚れたベッドと汚れた部屋。導師なんて立場を捨ててただの男になっている僕はただ彼女のこの先を心配した。確かにこの世界はすぐに終わってしまうけど、君はどこまで生きていけるだろうか。僕はすぐに死んでしまうけど君は一体いつ死んでしまうだろう。残していくもののことをあまり考えたことはなかったけど、僕は彼女の刹那的な生き方をかわいそうだと思っていた。
 たとえば君の心が傷ついたら君はさらなる痛みでその痛みを忘れようとするのだろう。喜びや愛しさでそれを埋めるのではなく上書きしていくのだろう。ただただ痛みを恐れて、それでも痛みで痛みを埋めて。
。もうやめよう」
「どうして? イオンは私が嫌い?」
「違うよ。君のことが心配なんだ」
 痛みを忘れるために新たな痛みを受け入れる彼女。繋がった身体。汚れたベッドと月明かりで白黒の部屋。彼女はただいつものように笑う。どこかさみしそうに、かなしそうに。
「ねぇイオン。じゃあ私はどうしたらいいの? 私はこれ以外、どうしていいか分からないのよ」
 彼女が毛布を抱き締めて小さくなった。僕は眉尻を下げて彼女の背中にカーディガンをかける。傷だらけの心と身体。大きな衝撃がこようものなら砕けて散ってしまいそうに華奢な線が月明かりに浮かんでみえる。
 たとえ身体を売ってでも痛みを忌避する彼女。それでも痛みを望む彼女。矛盾している心と現実。彼女はかわいそうな人だ。そこで愛という言葉が出てこないのはきっととてもかわいそうなことだ。
 だけど僕は彼女のためになれない。すぐに死ぬ身だから。
 だから彼女に何も言えない。どうしたらいいのか、それに答えられない。僕に未来があったなら僕を拠り所にすればいいと言えるのに、僕に未来があったなら僕が君を愛してあげると言えたのに。だけど僕がその言葉を口にしてしまえばそれはまた彼女の傷になってしまう。僕が死んだらそれは必ず彼女の心に傷を作る。そしてその傷を拭うために彼女はまた傷を作る。
 繰り返しの痛みの連鎖。彼女はそこからどうやったら抜け出せるだろうか。
 黙ったままの僕に顔を上げた彼女。目尻に涙を浮かべて、それが月夜に光っていた。
「ねぇイオン。痛みは何で忘れられるの?」
「…愛とか。そういうものじゃないかな」
「ねぇイオン。じゃあイオンは私を愛してくれる? 痛くない世界を見せてくれる?」
「……僕は」
 残されている時間。残されている、僕にできる僅かなこと。僕が君のためにできることはとても少ない。とても少ないけれど何もできないわけじゃない。何かはできるはず、そうは思ってる。
 だから彼女の唇にキスをする。感情をこめた口付けを。ただ唇を重ねるだけじゃない、義務的じゃない口付けを。そうして不揃いの彼女の髪を撫でて優しく彼女を抱き締める。
 かわいそうな君を、できれば僕が救ってやりたい。
 だけど残された時間はあと僅か。愛を育むには足りなさ過ぎて、君を救いあげるには何もかもがもう遅い。
 僕は愛を唄いながら愛を口にしながら、何があっても救うことのできない彼女をいつものように抱く。ただいつもより優しくただいつもより愛だと思っているものを口にしながら、彼女の涙を舌で舐め上げながら。
 彼女を救えないと分かっていながら僕は愛してるという言葉を口にする。
 愛なんてどんなものか知らず言葉だけが独り歩き。
 彼女は笑った。いつものように空っぽの笑顔で。
 結局のところ痛みには痛みを与えてきた彼女を救うためには同様の愛か同様の優しさが必要だ。時間をかけて痛みを痛みで上書きしてきた彼女を救うためには、同様の、それよりももっとたくさんの愛と優しさが必要だ。
 だけど僕には時間がない。彼女と愛を育むことも優しさを降り注ぐだけの時間もない。未来もない。
 だから僕は彼女を救えない。そう分かっていながら彼女を慰める僕は、ひどく惨めで、最低な男だ。

君の痛みを
理解してあげられない