僕はただ、君に泣いてほしくなかった

 常に、耳鳴りがしていた。
 だから彼女がすでに部屋に入ってきていることにも気付かず退屈しのぎに本をめくっていて、それでもどくんどくんとうるさい心臓と耳鳴りに顔を顰めていた。それでこつりというブーツの靴音に顔を上げれば彼女がいて、思わず目を見開いてしまった。どくり、と音を立てた心臓を押さえて「…か。びっくりさせないでよ」と声を出せば彼女がちょっと不満そうな顔で「ごめん」と言う。
 その響きから、もう何度か僕の名を呼んで声をかけたのだろうと思った。耳鳴りのせいで彼女の声が聞こえなかった。今は静かなものなのに、急にきんきんとうるさくなるからいやになる。まるで預言が頭に響くあの感覚だ。全くもって不愉快極まりない。
「お仕事だよ。モースが呼んでる」
「…またあの親父か」
 思わず吐き出して、仕方ないと立ち上がる。まだいける、と思いながらふらふらしないように気をつけて歩いて隣の部屋へ。
 すれ違った彼女との距離が測れなくてこつりと手の甲がぶつかった。
 あたたかい温度だ、と思いながら書机の上に置いてある会議の書類を手にして目を落とす。また保守派のあの親父が好きそうな内容のどうでもいい会議だった。これに貴重な残りの時間の一部を使うのかと思うとやるせなくて仕方ない。
 議題に関する知識が足りなくて、仕方なく本棚に歩み寄る。顔を顰めながらこれでもないあれでもないと本の方を引っぱり出す。それから血の通っていないような青白い自分の手に視線をやり、もう片手でさすった。冷たくて仕方ない自分の手は少しもあたたかくなんてならなかったけど。
に…気付かれないようにしないと)
 血を吐くのはが帰ってから。ふらふらするのもの姿が見えないときに。彼女には同情も情けも受けたくない。僕は僕のまま、彼女との関係を壊したくない。
(だけど…限界が、近い)
 ぐらりと傾いだ視界に、とっさに本棚に手をついて倒れるのを防いだ。ばんとそれなりに大きな音がした。彼女がこっちに歩いてきて「イオン?」と訝しげな声を出す。僕は口元を無理矢理引き上げて笑みを作り、「平気だよ。立ちくらみ」と返してぎゅっと目を閉じた。治れ治れ治れ。会議中どんなに耳鳴りがしてもいいし会議の最中彼女のいない空間なら、血を吐いたって構わない。その場の人間には口止めする。だから今、彼女の前でだけは。
「大丈夫?」
「……平気だよ」
 ぱち、と目を開けて握っていた拳を開いた。探し当てた本と書類の方に視線を落として嘆息し、ぱらぱらと本をめくって必要そうな事項だけざっと目を通して部屋を出るために歩き出す。
 彼女にはバレていない。まだ。
 こういうのをくだらない意地と言うのかもしれないと分かっていた。彼女だっていつか僕の体調の悪化に気付くだろう。何しろ一番近くにいて一番長く一緒に時間を過ごしているのだ。気付かない方がおかしいのかもしれない。
 だけど僕だってできるだけ彼女の前では平常を振る舞い、弱っているところなんて見せていない。見せちゃいけないのだと思っている。見せたら最後、彼女は絶対に泣く。
(泣くのを見たくない。泣かせるだけしか能がないなんて最低だ)
 ぐしゃ、と自分の前髪を握り潰してはぁと息を吐く。肺と胃が渦巻くようなこの感覚。吐血する前兆。
 だけど隣の部屋に彼女がいる。今頃明日の会議のための書類を分けて机に並べているはずだ。僕が見やすいようにと彼女はいつもそうして帰っていく。
(あと少し。頼む…もってくれ)
 祈るような気持ちで胸に爪を食い込ませて痛みでどうにか誤魔化そうとした。込み上げる咳を押し殺し、喉をせり上がる血を何度も飲み下して、何度も何度も息を吐いて。
「う…っ」
 だけどついに限界が来て、ごほりと咳き込んだ。我慢していた分咳が止まらず、押し殺すのが無理ならせめてと口を押さえてこもった咳をした。血がせり上がってくる。咳のせいで飲み込むことができない。
 ごほっ、と大きく咳をしたら指の間を伝った血がぽたぽたと床に落ちた。からだが力を失いがくんと膝が折れ、がんと強く床で打ち付ける。だけどその痛みに勝る苦しみが胸を圧迫していて、床に這いつくばるようにしながらごほごほと咳をした。ぼたぼたと血の勢いが増す。まるで逆流してきているように、床に赤い色が広がっていく。
「イオンっ」
 彼女の声とブーツの音。驚いたように腕を伸ばすその救いの手を、僕はありったけの力でばしんと払いのけた。だめだ来ちゃだめだ。来るな。お前は血で汚れちゃいけないんだ。そんなことが言えるはずもなく、驚きと悲しみと色々な感情がぐちゃぐちゃになって呆然としている彼女が見えた。
 ごほりと咳き込んでばちゃと血の固まりを吐き出す。くそ、と歯噛みするも止まらない。今回はひどい方だ。それだけ僕の病気も進行しているということか。
「イオン、イオン血が、血…っ」
 彼女の動転した声に、僕は薄く笑った。どんなに回避しようとしても未来は結局、行き着く先は同じなのだ。
 だけどそれでもまだ遅くはないのなら。僕は彼女に目を向ける。お願いだからお前はこっち側に来るんじゃない、と声にならない声で言う。
(僕のお付きという仕事で僕の側にしかいられないお前だから、きっとお前は僕なしではもう生きていけないだろうから。だけどこっちへ、来てはだめだ。だめなんだ)
「そのうち死ぬから、仕方ないんだよ」
「し…?」
「僕は死ぬ。人はいつか死ぬとかそういうのとは違う。僕は、遠からず死ぬ。それが…」
 ぐらりと頭が揺れた。頭の中が揺さぶられる感覚。僕はたまらず目を閉じる。もう駄目だ、と思う。
「預言、だから」
 呟いたのを最後にぶつりと意識が途切れ、その先を、僕は知らない。
 ただ、夢を見た。
 元気になってよかったねイオン。
 そう言ってにっこりと笑う彼女と色々な場所を旅する夢。行ってみたいと言っていたグランコクマの水上都市とか、自然の城壁で街を守っているバチカルとか。叶わないはずなのにこの足は普通に一歩を踏み出していて、叶わないはずなのにこの手は彼女の手をぎゅっと握っていた。二人で歩いていた。色々な世界を。
 これからも一緒だよねイオン。
 彼女の、偽りない曇りないその笑顔と、その声と、その言葉に。僕は束の間目を伏せて、夢だからこそ言える言葉を口にした。
 もちろん、この先もずっと一緒だ、と。
「…
 気がついたとき、瞼を押し上げ確保した視界には彼女の顔があって、泣いていた。ほらねやっぱり泣かせた。そう思いながらも手を伸ばし、定まらない視界の中彼女の頬を掌で撫でた。何度も何度も確かめるように。
 彼女がひっくとしゃくりあげながら「イオン」と僕を呼ぶ。僕は笑う。
 おかしいな、お前は僕と一緒にいたら絶対に僕にしかついてこなくなるだろうから突き放しておかないとと思って、伸ばされたあの手を払いのけたのに。それなのに今度は僕が、救いを求めて手を伸ばしている。僕の手の上に彼女が掌を重ねている。応えるように。
「ごめん
「え?」
「好きなんだ」
 彼女の涙がぴたりと止まり、その目が丸く大きく見開かれた。僕はベッドに手をついて身体を起こし、彼女が慌てたように「まだ寝てないと、」と言いかけるその唇を自分の唇で塞いだ。かさついた自分の唇と、彼女のあたたかい唇と、したのは血の味。彼女が息を詰めたのが分かる。
(愛してるんだよ。自分で自分が抑えられなくなるくらいに)