あったかいねぇと言ったら寒いよと返ってきた。そうかなと首を傾げたらそうだよと呆れたような言葉で一蹴された。 ねぇ帰ろう、と彼が私の手を引く。私は首を振ってまだ帰らないと言った。 目の前には風の吹き荒ぶ丘。ダアトの奥の奥、共同墓地のそのまた奥の、森を抜けた丘の前。 ぽつんと一つだけある石碑。名前も何もない、ただそこにあるだけの石碑。 帰るんだ、と言葉を変えて彼が言う。緑の法衣に萌えるような緑の髪、きれいな翡翠の瞳。あの頃と何一つ変わっていないあなたがそこにいる。 私は深く微笑んだ。いやだよと返して石碑に寄りかかる。彼は呆れたように息を吐いて私の頭を撫でた。 感触はない。温度もない。石碑は確かに冷たい。風も冷たい。髪だってばさばさ。だけどどうしてもここを動く気が起きない。 ここにくれば、あなたと話ができる。それが夢でも幻でもなんでも、私にはもうどうでもいい。 もう一度あなたに、イオンに会えた。その事実一つがあれば、私はその他のことはどうだってよかった。 陽が暮れる、と彼が空を見上げて言う。次に私の顔を覗き込んでと私を呼ぶ。困ったような顔をして私の唇を指先でなぞり、帰るんだ、と子供に言い聞かせるように言う。 私は首を振った。いやよと返した。彼ははぁと溜息を吐いて石碑に背中を預けてもたれかかった。 陽が暮れていく。赤い血の色が空を埋める。 僕のレプリカは。そう口にした彼が、だけど首を振ってやっぱりいいと言って押し黙った。 あの頃のような難しい顔。幼さを残すその外見には見合わない、眉間に皺を寄せて翡翠の瞳を細めるしぐさ。よく見ていた。皺になっちゃうからやめなよって、私はよくその皺を指で伸ばしていたっけ。 石碑に体温を奪われ、私のからだは次第に冷たくなっていく。 彼が私の前にしゃがみ込んで、手を伸ばして、私の頬に添えた。唇が重なる。だけど感触はない。ないのだ。キスしているのに。こんなに悲しいことってあるだろうか。 。あなたが私を呼ぶ。どうしていいか分からないというように微笑んで帰ってと言う。私はこぼれる涙を誤魔化すためにもいやいやと首を振った。それこそ子供のように。石碑に腕を回して離れるもんかとぎゅっとしがみつく。そんな私を囲うように彼が私を抱き締める。だけどやっぱり、感触はない。 それがただひどく悲しい。 僕は死んだんだよ。そう呟いて、彼が私の首筋に顔を埋めた。文字通り。ただ少しだけの寒気。私は顔を上げる。彼が私の鎖骨を舐める。感触はない。ただ、寒気が、するだけ。 僕は死んだ。だけど君は生きてる。 彼が私のそばを離れる。思わずイオンと叫んでもつれるように立ち上がって、寒気だけがひどいからだで彼のからだをかき抱いた。抱けない。抱き締められない。だけどその存在を感じることはできる。 彼は、目を閉じた。聖堂でよくそうしてステンドグラスの光を浴びていたように、絵画から抜け落ちた天使のように、目を閉じて。 イオン。イオン。イオン。イオン。何度も何度も彼を呼んだ。ようやく目を開けた彼が私を見て深く微笑む。今までにないくらいに自然に、子供じゃなく大人の笑みで。 生きるんだ。僕の分まで。それができないなら… はっとして意識の焦点を合わせる。 変わらなかった。景色は変わらなかった。燃えるような赤い血の空が広がっていた。ただ東側からだんだんと黒い闇が空を蝕んでいってるだけで。 「…イオン?」 私は彼を呼んだ。だけどもうどこにも彼の存在を感じることはできなかった。 呆然と、私は立ち尽くしていた。どうやってここまで来たのか、どうしてここにいたのか、何をしていのか。全て記憶がない。ただ悲しいくらいにイオンの存在だけが私の全てを埋め尽くしていた。からだが心が意識が思考が私の全てが彼を記憶し意識し呼んでいた。呼んでいた。泣いてもいた。 だけど彼がいない。いないのだ。もうどこにも。 ついさっきまで彼がいた気がしたのに。ううんきっといた。だからこそ私の全てがこんなにもイオンを求めている。 「イオン」 石碑を叩く。この下に彼のからだは眠っている。もう腐っているだろうか。それともこの寒さなら、まだ、あるのだろうか。穏やかなあの寝顔がこの下に。 どんと石碑を叩く。イオンの眠りを邪魔しているかもしれないのに。だけどそれよりもずっとずっと彼を求める私のからだが疼いて仕方ない。 それができないなら、追っておいで。僕を 「……うん」 響いた言葉に、私はふらりとよろけて石碑に肩をぶつけた。痛い。だけどイオンのいないこの世界のさみしいことと言ったらない。そう。だから私はもうイオン以外はどうでもいいのだ。だから。 しゃ、と鞘から短剣を引き抜く。空の血の色を映してぬらりと光る刃。両手に持って、かざす。 「イオン」 空っぽの私。今はただイオンを求めるだけの、血の詰まった肉塊の私。その私にナイフを突き立てる。 血飛沫。熱。痛み。悪寒。激痛。鈍い音。斜めになった視界。大地が半分と空が半分。血の色をした空を徐々に呑み込む闇。 それを背景に、彼が見えた。悲しい顔をしていた。だけど口元は笑っていた。笑って仕方ないね全くと言う。私は手を伸ばす。伸ばしたかった。だけどからだはもう一つも私の言うことを聞いてくれなかった。 彼が私のそばにしゃがみ込んで、私の髪を撫でる。感触があった。驚いて顔を跳ね上げると、動いた。からだが動いた。だから私は彼に腕を伸ばして泣きついた。悲しかったし嬉しかった。やっと触れられた。 「君まで、こっち側に来ちゃったね」 そう呟いて、イオンは私の背中を撫でた。そしてその向こうに転がる私の死体を、悲しそうに見ていた。 |