かしゃん、と金網に手をかけた彼女がどこか虚ろな目でその向こうの窓の外へ視線を投げていた。相変わらずこっちを気にかける素振りは一つも見せない。
 唯一の外の景色を切り取って伝えているその窓は、教会の足元に広がる街の足元、下界の景色を見せていた。つまり彼女は神託の盾本部のさらに深い場所にいて、その窓だけが唯一外の景色を伝えてくるものだった。
 その窓から伝わるものは誰かの靴とか足首とかまでだ。地面すれすれの花壇と花壇の間に申し訳ない程度に、人目につかない程度にある窓。しかも金網つき。脱走しないようにとか、きっとそんなためのものだろう。
 脱走するにはその窓は小さすぎる。それでも金網。それだけ彼女が危険、というふうに、病院側が認識しているのだろうと思う。
 僕が来たことにも彼女は無関心のようだった。僕もそれでよかったので壁に立てかけてある折りたたみのパイプ椅子を引きずってきて広げて腰かけた。ぎ、と軋んだ音にも彼女は反応を示さず、ただ穴が空くほどに、飽きずにずっと窓の外を見ている。
 ここは僕の逃げ場だ。彼女のいるこの場所には強制的に誰かが入ってくるということがない。それは恐らく彼女を恐れてだろう。
 彼女は病気だ。といっても感染症とかそういうのじゃない。いわゆる、心の病気。
 そういう人は一般の病棟からは隔離される。まぁ色々まずいからだろう。強制入院される患者なんて知れてる。一般人から言えばつまり、そういう人たちは狂っているのだ。

「今日も来てあげたんだけど、君は今日も僕を無視かな」

 そのやせ細りすぎた背中に声をかける。もうずっと何も食べていないんじゃないかと思うくらいに彼女は細く、その姿はやせ細り、病院着なのだろう薄い緑の服の下のからだのラインが分かる。色気とかそういうものとは程遠くただやせ細っている彼女。いややせ細ってるなんて生温い。彼女はやつれているんだ。死へ誘われるように。
 僕は息を吐いてくるくると自分の髪を弄んだ。どうせ今日も僕は独り言を言うだけ言って帰っていく。
 そのうち誰かが戸を叩くのだろうけど、絶対に入ってこないのを知ってる。彼女を恐れてなのだろう。それとも他に何か理由があるのだろうか。見ているそばからやつれていく彼女がかわいそうだとでも? でもそんな感情、自己満足じゃないか。

「外はいいところじゃないよ」

 檻の中から下界を切望する獣のような目をしている彼女にぼそりとそう言ってみたところ、ぐりんと彼女がこっちを向いた。驚く。昨日だってその前だって似たようなことを言ったと思うんだけど、彼女がそういう反応をすることはなかったからだ。
 そして細くなりすぎた腕を伸ばして骨と皮ばっかりの手ががしと僕の首を掴む。容赦ない力で、締め上げられる。
 けほ、と咳き込む。だけど彼女の腕を引き離そうとかそういうことは思わなかった。これで死ねるならそれでもいいと思った。
 ぎらぎらした獣のような目が僕を見ている。頬骨が分かるほどにやつれた彼女の顔。人間というよりは、骸骨に申し訳ない程度の皮膚と最低限の筋肉がくっついていると言った方がしっくりくるか。
 意識が、遠くなり始めた頃、ふっと首を絞める力が緩んだ。げほげほと咳き込みながら胸に手をやって彼女を見やる。涙が滲んでいた。苦しみゆえだけれど、それでも視界が滲むのはどれくらいに久しぶりか。
 彼女は無感動な瞳で僕を見つめ、そしてふいと視線を逸らしてまた窓の外を見た。膝を抱えて外に切望する獣の目をした彼女。げほ、と咳き込んで僕は自分の首を指で撫でた。あとが、あるのだろうか。あれだけの力で締め上げられると。
(…殺してくれてもよかったのに)
 けほ、と咳き込みながら、パイプ椅子に座り直す。これが原因で誰も彼女の部屋に入ろうとしないのだろうか。まぁ都合がいいからどうでもいいんだけど。
 じゃあこれで僕はもう懲りて彼女のもとを訪れないかというと、そうじゃない。
 むしろ時間を見つけてはまたここへ来るのかもしれない。だって彼女は僕を殺してくれるかもしれないのだ。

「ねぇ、さっきどうしてあのまま締め殺してくれなかったの」

 言葉をかけたけれど、彼女が僕の方を振り向くことはなく、その目はまた街並みの足元を切り取っているだけの窓へと向けられていた。手を伸ばした彼女がかしゃんと金網に手をかける。そしてがしゃがしゃと揺すり始めた。がしゃんがしゃんがしゃんと耳障りな音。これもいつもだ。そのうち諦めるか飽きるかのどっちかでこの音は止む。
 耳障りな音。がしゃんがしゃんがしゃんと耳障りな音。
 それなのに目障りだとは思わない彼女の存在。
 僕は病んでいるのだろう。からだがじゃない心がだ。彼女は自分を捨ててまで病んでみせたけど、僕はそうはなれない。悪戯に強くなった心ではもう狂うことはできないのだ。彼女のように自分を忘れることはできないのだ。
 だから僕は、狂った彼女のもとへ赴く。
 人間から逸脱した彼女に、獣の彼女に、どこか羨望の目を向けながら。

君の強い手が



全て



壊してくれたらいいのに