それから二つめ。私はこういったものに慣れてない。
 私が学校から帰る。そうするとだいたい家には誰もいない。でもそれもこの間届いた大きな荷物のおかげでなくなった。
「おかえり」
 がちゃんと玄関の扉を開けた先で待っていたのはレンという名前のボーカロイドの子。そろそろ家に来て二週間くらいになるだろうか。おかえりの言葉に「ただいま」と返しながら伸ばされた腕に鞄を預けた。今日も今日とて高校生をしてきた私の鞄の中身はそれなりに重い。それに顔を顰めたレンが「重い」と漏らす。今日は特に宿題のために図書館で借りてきた本が入ってるからそのせいだろう。
 靴を脱いで部屋履きに履き替えて「ちょっと宿題のために本借りてきたの」「本?」「そう本」言葉を返しながら歩き出せば私の後ろをレンがついてくる。
「レンお昼は?」
「お手伝いさんが作ったものを食べた」
「作ったものって?」
「…名前は。知らない」
 そう返されて振り返る。レンは眉根を寄せていた。それに私も眉根を寄せて、そうかコンピュータなんだから色んなものをアップデートとかしないとならないんじゃんと思って。だからあーと部屋のパソコンを振り返りながらとりあえず送られてきた日本語版説明書にも一通り目を通さないとなぁと思いながらまた廊下を歩き始める。そうするとレンは私についてくる。
「日本語は読めるんだっけ?」
「読める」
「えーとじゃあ、ダウンロードとかすればいいのかな。中にCDロム入ってたもんね」
 説明書と同封されてたいくつかのCDロムを思い出した。あれをダウンロードすればいいんだろう多分。えーとパソコンに入れて、レンとは…何で繋ぐんだろう。
 振り返ったらレンが歩みを止めた。その耳にずっとついてるヘッドフォンをかしゃんと外す。ちゃんと耳があった。別にそこからコードが伸びてるわけじゃない。
「マスター何を?」
「あー、えっとさ。ダウンロードするときとかってどうするのかなーと思って」
「それならここ」
 とんとレンが自分の首の後ろを叩いた。だからそっち側に回ってみれば確かにちょっとだけ溝があって蓋っぽくなってる部分がある。
「…開けても大丈夫?」
「大丈夫」
 恐る恐る手を伸ばしてかちと蓋をずらしてみた。中には端子で繋ぐようになってる。そういえばロムと一緒にコードも入ってた気がする。専用のやつなんだろう多分。よく分かんないけど。
 だからまた蓋をもとに戻す。人ならありえない、こんなところにぱかっと開く場所なんて。コードで繋ぐような場所なんて。だからレンは本当に機械だ。温度があって自分で喋って自分で動くのに機械。
 複雑だ、と思いながらとたとたと歩みを再開。レンは私についてくる。
「おやつなんだって言ってた?」
「ヨーロッパのクッキー。と、紅茶の新しい茶葉が入ったのでいつもの場所に置いておきます、って」
「そっか」
 無駄に広い家のキッチンを覗く。誰もいない。いつもの戸棚に手を伸ばしてかちゃんと扉を開ければ新しい紅茶の茶葉の入った瓶が見えた。それからその横に今日のお菓子であるヨーロッパ産クッキー。

「レン食べる?」
「…食べていいの?」
「なんで?」
「マスターはあなただから」
「あーうんそうだそうだったね。じゃあ一緒に食べようか」
「うん」

 知ることなら答えて、分からないことなら訊ねて。知らないものは知らなくて、聞いたこと見たことは詳細まで憶えてて。
 レンが後ろで一つに結んでる髪を解いてみた。やっぱりというか結びっぱなしで癖がついてる。せっかくの金髪なのに。
 レンが首を傾げて「マスター何を?」と言うからその蒼い瞳に映る自分を見ながら「結びっぱなしだと髪に癖がつくなーと思ってね。もうついちゃってるけど。水大丈夫なんだっけ?」「大丈夫」「じゃあ今日はお風呂かなー」ぼさぼさになってるレンの髪を掌で撫でつけた。
 じっとこっちを見つめる瞳にはだいぶ慣れた。要するにこの子は身体が大きい子供なのだと。

「そのヘッドフォン。ずっとつけてると耳圧迫して痛いから、寝るとき以外も外してなよ」
「…でも。歌うときにいる」
「歌? 今はいいよ今は。ボーカロイドだから歌わないと意味ないのかもしれないけど、今はいいよレン。ここにいてくれるだけで全然いい」
「…いる。だけで?」
「そういるだけで」

 首を傾げるレン。紅茶を淹れるためにお湯を沸かしながら「鞄重いでしょ。床に置いていいよ」と言えばレンは抱えていた鞄を床に置く。私がゴーと言えば走る、この子は犬のようなものだ。主人の命令を待つ犬のような。
 だから苦手なのにと一人息を吐く。だけど親が高い金出して買ってきた英米最新型のボーカロイド。もう返品もきかないし。っていうか最新式らしいし。
「レンは歌いたい?」
「…それがオレのやること。だけど」
「だけど?」
「マスターが別にいいって言うんなら。オレもそれでいい」
 蒼い瞳は曇ることなくこっちを見つめる。だからくしゃとその頭を撫でて「オーケー了解。時間があったら何かダウンロードしてみよう。歌ってるレンも見てみたいし」と言ったらちょっと嬉しそうな顔をした。やっぱりボーカロイドなんだから歌わないと本領発揮にならないんだろうし。私もレンが歌うところ一度は見てみたいし。
 まぁ今日は宿題があるから優先順位がそっちになっちゃうんだけど。
 かちゃんと戸棚からカップを二つ用意する。無駄に広いキッチンのテーブルにそれを置く。私をじっと見つめる蒼い瞳が二つ。
「レーン。たまには視線を外して私でないもの見てください」
「どうして?」
「いやどうしてって。あんまり見つめられると照れるでしょうが」
「照れる…」
「そう照れる」
 沸騰したやかんに自動的にピーと音を鳴らしてコンロの火が消える。ポットにお湯を注ぎながら「私マスターなんだろうけど。私以外にここには色々あるわけだし」と言いながらかちゃんとコンロにやかんを戻した。ポットに蓋をして砂時計を逆さまにする。
 と、返事がこなかったので顔を上げた。レンは床を見つめるようにしてそこに立っている。
「…オレのマスターはあなただ」
「? そうだね」
「オレはあなた以外は見ない」
(…ん?)
 何となく意見の食い違いを感じた。「オレのマスターはあなただ」と言われて「そうだね」と返し、「オレはあなた以外は見ない」と再び同じことを言われ。私はクッキーの封を開けてお皿にざらざらと中身をあけながらうーんと唸る。
(なんだろう何かが食い違ってる…確かにレンのマスターは私だろうけど。だからって他を見ないっていうのもな)
 置いた砂時計からさらさらと砂が流れ落ちる微かな音。それからふと思い立ってレンの胸に耳を押し当てた。鼓動は。しない。
「マスター何を?」
「いや、鼓動はしてるのかなーと思って…?」
 響きが少し違うことに気付いて視線だけ上げてレンの顔を見た。こっちを見ているレンの顔はいつも通りだったけど声だけどこか違った。ように思ったんだけど。まぁいいか。
「機械なんだね。本当に」
 そうこぼして顔を離す。鼓動音がしないのは何となく残念だ。いや何がどう残念なのか自分でも分からないんだけど。
 レンが首を傾げて「鼓動」と呟くから「そう鼓動」と返し、それからああと気付いて「私の胸に耳当ててみて」と言う。レンは素直に従った。目を閉じて耳をすますようにして、それでぱちと蒼い瞳を覗かせると「鼓動。する」と漏らす。
「生きてると絶対にする音なんだけど。レンは機械だからないんだね」
「………」
 顔を離したレンが眉根を寄せていた。それに首を捻りつつ紅茶のポットをゆらゆらさせて砂が落ち切ったことを確かめてカップに紅茶を注ぐ。
「マスター」
「うん?」
「機械は。生きてないの?」
「えー…どうなんだろう。難しいな」
 訊かれて困った。コンピュータに命がないかと言われればないと答える。電源を入れれば動き電源を切れば役目を終えて沈黙する、それが機械。そして目の前のこの子もまた機械。
 複雑だ。そう思いながらカップにとぽんと角砂糖を一つずつ落とす。
「どうかな。でもレンは」
「オレは?」
「生きてると思うよ。うん。鼓動はないけど」
 カップをテーブルに移してがたんと椅子を引く。「レンもおいで」と言えば突っ立ってるだけだったレンが椅子を引いて同じように座り込む。バーにある椅子みたいに足の長い椅子からは当然踵が浮いて、私はその足をぷらぷらさせながら「はいおやつ。いただきまーす」「いただきます」レンが私と同じように手を合わせてクッキーを手にした。しゃくとそれを口にする姿を見て思う。

 機械は生きてない。確かにそう。電源を入れれば動き出し電源を切れば沈黙する、それが機械。
 だけど多分。ボーカロイドっていうのは、多分。生きてるんじゃないだろうか。

「紅茶。熱いから気をつけてね」
「気をつけるのはマスターの方。この前は火傷した」
「…よく憶えてる」
 ぼやいてちょっと笑った。くるくるとスプーンで紅茶をかき回しながら「レンは賢いなぁ。って機械だと当然なのか」とこぼして。
 レンが微妙に眉根を寄せてずずと紅茶をすすったのを視界の端に入れながら頭半分では今日の宿題のことを考えていたりして、そのとき私はレンの変化にはあまり気付けないまま。
 ずっと親のいない、特定の誰かなんていない場所で一人で生活してきた私には、ずっと隣にいる誰かというものに未だ慣れられない。