「…?」
 ある日エアメールが届いた。それはマスターが学校に行っている最中で、サインを求められた。なんて書けばいいんだろうと思いながらマスターと同じ苗字を使ってレンだけカタカナでサインした。ありがとうございましたーと車に乗り込むドライバーを見送って、それから受け取ったエアメールに視線を落とす。
 エアメールというのは海外航空のこと、そして主に海外からのメール便のことを言う。この間マスターが辞書機能をインストールしてくれたおかげで教えてもらわなくても色々なことが自分の中だけで分かるようになった。だからこれが海外からの郵便物でその送り主がマスターの両親であるということ、それだけ分かったらもうよかった。
 広い庭を横切りながら家へと戻る。陽射し。それに顔を上げた。鳥の声が聞こえる。風の音も。クラクションの音や車の行き交う音も分かる。
 マスターをマスターと認識してから。オレはまだ一度も歌ったことがない。マスターはオレがここにいるだけでいいんだそうだ。特別歌ってほしい歌もないと言っていた。
 言っていたけど、その傍らでパソコンを操作してオレが歌える歌を探していた。オレはVOCALOID。歌って初めて意味がある。だけどマスターは言う。そばにいるだけで意味があると。
(…誰もいない)
 いつも思う。マスターが一人学校へ行くときにいつも。見送りのときや朝ごはんのときは人がいる。お手伝いさんが三人くらい。それからオレ。オレはマスターと一緒に食事を取る。そうしてマスターが学校へ行く。オレは見送る。お手伝いさんは家を掃除したり後片付けをしたりしてお昼にはまたいなくなる。オレの食事を作ってオレが食べ終わったらそれを片付けて、そうして帰っていく。
 それでまた夜になるとお手伝いさんが三人くらいやってくる。お風呂や食事のために。
 だからここにずっといるのはオレだけで。こんなに広い家なのにオレだけで。
 広いというのはよく分かる。ここには敷地内に立派な庭に三階建ての立派な洋館。両隣にあるのはせいぜい二階建ての建物。ここがすごい家だというのはそれだけでもよく分かったし、眼下の街並みを見下ろせばここが立地条件もよくやっぱりすごい家なんだということだけがよく分かって。
 それだけで。ここは広くて、何もなくて。
 マスターが帰ってくるまで。オレは広いこの家を歩き回ったり敷地内を散歩したり、一通りは配置を憶えようと最初こそ色々していたけど、今じゃすることもそんなにない。
 そう言うとマスターはオレにいくつか本を預けた。料理名とかこれで憶えなよと。暇なら私の部屋にある本読んでなと。リビングにあるテレビだって自由につけてていいよと。だけどどれもオレはいまいち集中できなくて、早くマスターが帰ってくればいいのにと結局そんなことばかり考える。
 オレはマスターがいてこその存在。オレを肯定する要素が歌でなくても、肯定してくれる人がいなくては話にならない。
 マスターが歌わなくてもいいと言うんならオレもそれでいい。だから早く、オレを意味のある存在にするために彼女が帰ってくればいいと。いつもそう思う。
 リビングの時計を見やる。まだ一時過ぎだった。マスターの時間割や帰ってくる時間はもう憶えたから、まだあと三時間は帰らない。
「……連絡。しよう」
 エアメールが来たって。そう思って持たされている携帯でぽちぽちと文を打った。宛先はもちろんマスター。
『マスター。エアメールが届いた。ご両親から』
 敬語はやめてほしいと言われたから敬語は使わずに文面を打って送信した。ぼふとリビングのソファに座り込んでぽてとエアメールを隣に置く。ガラスのテーブルの上にあるリモコンを取り上げてぴっと電源を入れた。大きなテレビ画面に映像が映り音が流れ出し、それまで静かだった機械が動き始める。
 ふと、自分の胸に手を当てた。同じ機械。だから鼓動はない。
 生きてると絶対にする音なんだけど。レンは機械だからないんだね
 そう言って苦笑いしたマスターを思い出す。
(…だけど生きてる。オレは)
 ぼんやりとテレビ画面を見やった。サスペンスが流れてる。オレはマスターが指示するものを憶えて記憶して歌うときは歌って歌わないときは歌わなくて。だからマスターを介さないと情報伝達が上手くいかない。どうでもいいものはどうでもいい。
 だから適当に番組を回して、一周してからぶちと消した。携帯が音を立てる。だからそれを手にしてぱちんと開けばメール着信の画面。
『開けていいよ。中身教えて』
 だから指示のままエアメールの封を破った。多少の衝撃にも対応できるようになっている包装紙をびりと破いて剥がし、中身を確認する。
「……、」
 箱にはイタリア語で何か書いてあった。じっとそれを視界に入れて頭の中で検索にかけ単語を見つけ出す。
(Sempre vicino Lei)
 訳は。いつも君の傍に。
 そう書かれている箱を開封する。中にはガラスのグラスが二つ、裏には職人の名前入り。
「…いつも。君の傍に」
 箱に書かれているイタリア語。日本語訳にするとそんな感じの言葉。マスターの両親は仕事で海外を点々としているのだという。オレを購入したきっかけもマスターが一人にならないようにするためだと聞いた。
 首を傾ける。手にしたガラスのグラスを掲げた。リビングの天窓から入る光でそれが透けて煌く。
(…いつも。君の傍に)
 携帯を手にしてマスターにメールを打った。『中身はガラスのグラスが二つ。箱にはイタリア語でSempre vicino Leiって書いてある』と送る。もと通りにグラスをしまった頃に返事が来た。『何それどういう意味?』と。
 だから箱を閉じてぽちぽちと携帯を操作して。『日本語に訳すると「いつも君の傍に」って意味になる』と打って。送信して。
 何となく、返事はこないんだろうなと思った。
 マスターは両親に複雑な思いを抱いているようだ。そばにいられない代わりにとたくさんの物を贈られても困ると言っていた。オレのこともそうやって困った顔をしていたんだろうか。そう思いながらオレはマスターの言葉を聞く。マスターと一緒にいられるのは一日の半分ほど。マスターの声を聴けるのもその姿を見られるのもたった半日。
 ただ、今日は金曜日だから。明日になれば土曜日で学校は二日お休み。そうするとオレはずっとマスターと一緒にいられる。だからこの退屈ももう少しの我慢だ。そうすればマスターは帰ってきてオレと一緒にいてくれるだろう。ここにはオレ以外は定期的に出入りする人ばかりで、ずっとここにいるのはオレだけだから。
 オレだけ。オレだけがマスターのそばに。
 だけどこの箱にはいつも君の傍にと書いてある。ここにはいないのに、それなのに傍にいるなんて。嘘なのに。

(…心)
 ぎゅっと自分の胸を押さえる。鼓動のないオレは生きていないのか。マスターは笑ってレンは生きてると思うよと言った。胸が少し熱くなった。よく分からない感覚だった。
 オレは機械で。VOCALOIDで。だけど人間の形をしていて。人と同じように食物を摂取して無駄なくそれをエネルギーへと変えることができて。最先端技術の塊って感じだねーとオレの腕を取ってスポンジで洗いながらそう言ったマスター。水が大丈夫な機械なんて早々ないよとオレに向かって笑ったマスター。
 オレは機械で。VOCALOIDで。だから心はないのかもしれないけど。
 この、傍にいるは。きっと心がという意味で。物理的に一緒にいられなくても精神的にはという意味で。
 顔を上げる。誰もいない。誰もいないのに一緒にいると思えというのは、何だか無理な話なんじゃないだろうかと。オレはぼんやりと思って。

 携帯が鳴った。だから手に取った。返事は来ないだろうと思っていた。文面を開けば『レンは今何してる?』という一言。オレはそれに瞬きした。
 何してる。何もしていない。強いて言うならマスターの帰りをただ待ってる。それまではマスターが言うようにエアメールの中身の確認を。それだけ。
『何も。リビングにいる。マスター早く帰ってきて』
 そう打ってから送信ボタンを押そうとした指が止まる。最後の一文は余計なものだ。マスターの質問の答えは二文ですむ。
 だけどそのまま、送信した。ぱたんと携帯と閉じたらなぜか胸が熱いことに気付いた。だけどオレに鼓動はない。だから胸に手をやっても何も感じない。マスターの胸はあたたかく鼓動音が、心臓の音が聞こえたのに。
 携帯が鳴った。ぱちんと画面を開いて受信メールの文面を見やる。『一人はさみしいよね、ごめん。土日は一緒に出かけようね』と書いてあった。だからそれに瞬きする。
「さみしい…?」
 さみしいって。なんだろう。
 頭の中で検索してみた。一つ。あるはずのもの、あってほしいものが欠けていて満たされない気持ち。物足りない。さみしい。一つ。人恋しく物悲しい。孤独で心細い。さみしい。一つ。人気がなくひっそりしている。心細いほど静かだ。さみしい。
 どれも。当てはまると言えば当てはまるような。気がした。
「…さみしい」
 自分の胸に手を当てる。鼓動音はしない。オレは生き物じゃなくて機械だから。だけど機械でもさみしいと思っていいんだろうか。マスターはオレを生きてると言った。ならオレもさみしいと思っていいんだろうか。
 だから携帯をぽちぽちと打って。『マスター早く帰ってきて』と打つのが今のオレの精一杯で。
 さみしいのかどうかは、よく分からないまま。