それから三つめ。私はこういったものには疎い。
「あー…どれだったかな？」
　土曜日、レンを連れて買い物に出かけた。特に買いたいものや見たいものがあるわけじゃなくて、レンと一緒にどこかへ行くために出かけた。目的があるならタクシーを使うか使用人の誰かを呼んで車を出してもらえばいい。だけど目的はあくまでレンと出かけて色んなところを一緒に回ったりすること。だから交通手段も久しぶりに公共のものを使ってみることにした。とは言っても最寄の駅まではタクシーを使ったんだけど。
　で、駅。東京の地下鉄は本当にどれがどれだか分からなくて私はぐるぐるしていた。頭ぐるぐる。環状線の馬鹿野郎。JR分かりにくいぞ馬鹿。
「マスターあっち」
　私の手を引いてレンが財布を取り出した。日本の紙幣やお金はもう憶えてる。だから一日乗車券を二枚購入して振り返ったレンが「これでどこでも行ける」と言うからああそうかとぽんと手を打った。そういえばそうだ、地下鉄とバスならそれがあれば行けるんだった。
　普段から使わないとこういったものには慣れることができない。東京に暮らしてるくせに東京のことを知らないなんてなんか田舎者だな私。
　とは言っても学校へは専用のスクールバス通いの毎日。定期券しか使わない日々を送ってると疎くもなるか。
　改札を先に抜けたレンが私を待つ。他人の視線など何のそののいつもの顔で。鮮やかな金髪と蒼い目が目立ってるのだけど本人は全然気にしてない。というかいつも通り真っ直ぐ私を見てるだけ。
　複雑だ、と思いながらレンが私の手を取るから緩く握り返してポケットに乗車券を突っ込んだ。さてどこへ行こう。
「レンどこ行きたい？」
「どこでも。マスターとならどこへでも行く」
「あーうんそうなんだろうけど。希望は何かないの？」
　せっかく買った東京のマップを手にしながらまるでほんとに田舎者だなと思いつつ。それとなくレンへ寄せられる興味の視線が隣の私にまで注がれるのでちょっと鬱陶しい。
「やっぱり六本木に入る？　あ、でも自由が丘のスイーツもいつも取り寄せてるけど美味しいんだよね。気に入ってる雑貨店もいっぱいあるし。でもアキバも行ってみたいよね。どうしようか」
「…マスター楽しい？」
「うん？　まぁね、家に閉じこもりっていうのもやっぱりね。ここは女子高生らしく出かけるべきだよね」
　今日は下ろしたままのレンの髪を撫でた。金の糸みたいにさらさらな髪。レンが目を細めて「マスターが楽しいならオレも楽しい」と言う。それはまぁいいんだけどやっぱり目立ってるなぁ私達。レンには普通の格好させたつもりだし私も普通の格好のつもりなんだけど。
（うーん。まぁしょうがないか）
　それで滑り込んできた電車に乗り込んで。レンが疑問に思うことには答えて、開いたり閉まったりする扉とそこから入ってくる地下のこもったにおいが私にはどこか新鮮で。
　広すぎるあの家やあの庭や敷地内の全てはいつも静まり返っていて。私にはひどく重たい静寂と冷たい空気を運んでくるばかり。だからこういう熱気と排気ガスにも似た空気は妙に新鮮だった。
　とりあえず六本木。東京の中心と言われる場所だ。私の親の会社の本拠もこの辺りにあるとかないとか。
「おー」
　ヒルズはまぁそんな感じだった。レンが「マスターあれは？」と微妙に蜘蛛を思わせるようなアート物を示してみせるからばさと本を見て「あー、ママンだって。母性に対する憧れが象徴とされてる…らしいよ？」だから眉根を寄せてそれを見上げる。女の私からすればあれは最早ただの蜘蛛。
　レンが首を傾げて「マスターは気に入らない？」と訊くから腕を組んで「うーん微妙」と返し。それでタワー内を散策してまぁこんなもんだろうなぁというのが感想で。
　レンはそんなに興味がないのか私から視線を外すことがあまりない。
「面白くない？」
「マスターの関心のあるものが知りたいだけだから」
「えー…うーんそうだなぁ」
　だからヒルズ内にあった本屋をひょいと覗き込む。そんなに広くはないけどここは造りが面白い。めんどくさいと言えばそれまでだけど面白いと言えば面白い。
「設計は面白いよねヒルズ。あ、名古屋に新しくできたタワーも妙な設計してたっけなぁ」
　海外の写真集や本を取り扱ってるその本屋の雑誌を取り上げる。海外のものだ。わー英語、私さっぱり。じゃないけどいざ読んでみろと言われるとやっぱりさっぱり。
　レンが首を傾けて「設計。マスターは設計に興味があるの？」と言うから苦笑いして首を振った。まさか。興味があるって言ってもへー程度のものだ。熱心に勉強しようとかそういうのじゃない。
「レンは何かに興味ないの？」
「オレは…マスターの興味のあるものに興味がある」
　予想していた言葉に苦笑する。そうするとレンが少し表情を変える。たとえるならそれは困ったような、それか戸惑ったような。最初の方にはなかった顔を、この子はするようになってきてる。
　そんな感じで六本木は終了。次はそうだな、じゃあ新宿。
「人多いなぁ。さすが新宿」
　まずは行き交う人の多さに溜息を吐いた。レンが隣で首を傾げて「人口密度計る？」なんて言うからぶんぶん首を振る。ここに今どれだけの人がいるのかなんて考えたくもない。
　その手を取って「さぁじゃあー、妥当に�眦膕阿任眛�ろうか」とデパートに足を向けて。まぁ適当にぐるぐる回って。特別今必要なものがあるわけでもなかったから適当なレストランでお昼にした。
「…あのさぁレン。せっかく外なんだし、満喫していいんだよ？」
「マスターが楽しいならオレも楽しい」
「うーん…なーんかそうは見えないというか」
　かちゃんと紅茶のカップを持ち上げた。同じものでいいとレンが言うからしょうがなく今日のランチを二つ頼んで。おかわり自由な紅茶のカップにふうと息を吹きかけて「マスター」「はい？」「火傷に気をつけて」そう言われて苦笑いした。改めてふーと息を吹きかける。まだ無理そうだ。
　カップをソーサラーに戻して頬杖をついた。どこもかしこもランチをやってたから比較的混んでないとこにしたら値段があれなことになったけどこの際お金は気にしない。どうせ支払いはカードだし。
　前菜のスープは秋らしくパンプキン、パンの方は焼きたてで外はかりっと中はふんわり。そのスティックパンの方を千切りながらどうして楽しいと言われても楽しそうに見えないのかぴんときた。
「あれだ。レンは笑わないんだ」
「…？」
「笑顔。って、レンはできるの？」
　首を傾げたレンに訊ねる。レンが少し眉根を寄せて「笑顔」と呟いて。それであーできないんだなぁと思って、口の中にぽいとパンを放り込む。向かい側ではレンが同じようにしてパンを千切って口に運んでいる。
（機械、っていうかボーカロイドだもんね。別に笑顔の練習なんてするわけもないか。設定とか、ないんだろうなぁ多分）
　レンの指示と説明書の通りにとりあえず必要そうなものはインストールしたりアップデートしたり色々やってみたけど。おかげでレンは私が教えなくても色んなことが分かって常識ってものを備えた子になったけど。そうするとさらにレンは機械じゃなくて人間のように見えてくる。
　だけどこの子は。笑わない。
（うーん。そこんとこ設計者さんどうなのよ。ボーカロイドって歌うんでしょ？　歌手に笑顔って必須だと思うんだけどなぁ）
　それとなくレンの表情を観察していればぱちと目が合って見つめ返される。それで「マスター笑って。見本」と言われてぎくっとした。いや見本とか言われるとあれだなぁ無理矢理笑うことしかできないなぁ。だから「あー、観察してればいいよ。いつもみたいに。そのうちきっと笑うから。笑えって言われると確かに笑えないもんだし」と返して、カートで料理が運ばれてきたのに気付いて顔を上げた。一応ここ格式あるレストランなんだった、すんごく砕けてたな私。
「お待たせいたしました。本日のメインディッシュになります」
　そういえばむかーし昔はこんなふうに親と一緒に外で食事とか。したなぁ。最高層のレストランで普通にしてたなぁ。あー今思えばあのときが一番の贅沢。
　で、メインディッシュは昼から重いと思いつつも牛の塊がでんと鎮座してるビーフシチュー。というかむしろこれはもう牛の塊。まさしく。シチューはソースだもう。
「…また随分見事なのがきたなぁ」
　フォークとナイフを手にしながら試しに牛に手をつけてみる。でんとした見た目に関わらずかなり煮込んで仕込まれているようですぐにナイフが入った。やわらかい。どれと口に運んでぱくと一口。んまい。なかなかいける。
「レンおいしいよ。食べな」
「…おいしいとマスターは笑うんだ」
「え？　あれ笑った？」
「少し」
　それでレンがフォークとナイフを手にして「笑うのはどうして？」と言うから。えーどうしてってなぁと頭上を見やって「あれだよ、嬉しいから」「嬉しい？」「そう嬉しい。と、自然と笑顔ってこぼれるものだと思う。よ？」だから首を傾げる。レンがぱくと切り分けた牛肉を口にして、
「ならオレはずっと笑ってないといけない」
「ん？　なんで」
「マスターと一緒なのは嬉しいから」
「…さいですか」
　スプーンを手にしてシチューの方も口にする。うわー濃い。昼から濃い。濃いけど久々に外で食事した。それも一人じゃなくて誰かと一緒に。
　私はちらりと親を思った。名のある職人さんに作らせたんだろう名前入りのガラスのグラス。それにレンの言ったイタリア語の言葉。いつも君の傍に。
（………全く馬鹿親め）
　だからちらりとレンを見やる。等身大のボーカロイドなんて贈ってくる親の愛は重い。別に私に何かしろとかどこに就職とかは何も言ってこない。ただ伝わらないのが恐ろしいとばかりに愛を全面に押し出してくる。
　頬杖をついてレンを見つめた。レンが気付いたように私を見て「マスター？」と呼ぶ。
　別に昔のことを忘れたわけじゃないし。親が思うほど私は親不孝してやろうなんて子供でもない。そばにいないからといってそれが愛してないだなんてイコールで結ぶほど子供でもない。私ももう１７になった。確かに先を考えないといけない時期に入ってきたのかもしれない。そういう話もそろそろしないとならないかもしれない。そんなときでも海外を飛び回ってる親に確かにちょっと不満もある。だけど。
（まぁ。ありがたく受け取っとくわ。この愛は）
「うはー満腹…レン大丈夫？」
「大丈夫」
「レンはいつもポーカーフェイスだな…私も見習おうかな」
　がたんがたんと電車に揺られる。隣に座っているレンが首を傾けて「マスターはいつも通りの方がいい」と言うからその肩によりかかりながら「そう？　っていうかあれね、レンってほんとに私のことマスターとしてしか見ないのね」「…？」「機械なんだね。もっとわがまましたりしたいこと言ったりしてくれていいのに」ぼやくように言いながら目を閉じる。ああおなかが震動で揺れる揺れる。

「…マスターは。少しおかしい」
「悪うございましたね。私は頭おかしいですよーだ」
「そうじゃない。マスターはマスターなのにマスターらしくない」
「マスター連呼しないでよ…っていうか何それ。要するに私が変って？」
「違う。マスターは変じゃない。だから変なのは……オレだ」

　その声にぱちと目を開けた。視線を上げればぱちと目が合う。
　曇りない蒼い瞳に金色の髪。レンが外出する服がなかったから急ぎで取り寄せたせいで少し大きい感じのする服と、１４歳相応の身長体重を持った子。
　でも機械で。でもボーカロイドで。人間でなくて。

「オレは自分がVOCALOIDでなかったらよかったのにって、そう思った。VOCALOIDだからここにいるのに」
「そうね。まぁそうだけど」
「マスターに鼓動があって、オレには鼓動がなくて。でもマスターはオレが生きてるって言う」
「うん。生きてると思うしね？」
「マスターは。オレが歌わなくても。そばにいるだけでいいって。それだけでって」
「うん…？　え、何いけないの？」

　レンは首を振った。それから困ったような顔をして、笑った。
「オレは。どうして人間じゃなかったんだろうって。思った。変だこんなの」
「……レン」
　何を言うべきか、私は迷って。でも私に言えることっていうのは多分そんなにたくさんはなくて。それで言いたいことも、まぁそんなになくて。
　だからレンの頭を撫でて「レンは家族だよ。ボーカロイドとか関係ない。レンはレンだよ」初めて笑ったのにそれが苦しそうなことに私は気付いていた。
　できることは少なかった。苦しみが少しでも減るようにその身体を抱き寄せて頭を撫でてやること。宥めてやること。あやしてやること。
　もしも機械に心ってものがあるのなら。この子にそれがあるのなら。本当にこの子は機械ではなくてもう人間だ。
「マスター」
　耳に入る私を呼ぶいつもの声。「大丈夫大丈夫。レンはレン。どんなレンでも私はオッケーだから。ね」そう言いながらその頭を撫でる。
　私にゴーと言われれば走り出す犬のような、何も分からない大きな子供だった子。だけど今は自分の意思で私の背中に腕を回して抱きついてきた。それに一つ瞬きしてから破顔する。
　本当に、この子には多分心ってものが。私と同じものがあるんだろう。きっと。
「すぐ帰りたい？　まだ歩く？」
「…マスターの好きな方でいい」
「じゃあ歩くよ？　せっかく外出たからもう少し見物したいし」
「うん」
　電車が止まって止まったところが池袋で。だからレンの手を引いて電車を下りた。「レン行くよ？」「うん」私の隣に並んで頷く子はやっぱりどことなく無機質だけれど、それでも体温があって。
　私は多分この子を機械とは、もう思えない。