おれは機械で
あなたは人で

 ボーカロイドって歳を取らないんだね。おれが来て一年経ったとき、誕生日を迎えたマスターがおれを見てそう言った。誕生日は設定されていてその日が来たらおれだって歳を取る。そう返したところマスターは苦笑いした。どう笑っていいのか分からない、多分そういう笑い方だった。

 そうして二年目が過ぎた。マスターはまた一つ歳を取った。おれも必然的に歳を取る。だけどおれとマスターの歳を取るは表現は同じでも具体的には色々違うんだということにその頃気付いた。
 マスターの患っていた病気が侵攻してマスターは視力が落ちてしまった、その頃になってようやくおれとマスターは違うということを再認識した。

 三年目がきて、その頃はマスターは病院にいた。白い色が嫌いだというマスターのために用意された病室はあたたかい木の色で包まれた病院ではない空間だった。だけど確かにそこは病院で、木目調の扉をスライドさせればその向こうには灰色っぽい病錬の廊下が見える。マスターはそれを嫌った。だけどその頃には視力が落ちに落ちて、マスターが見えるものはもう極僅かなものだけだった。
 ボーカロイドって歳を取らないんだね。最初の一年目のときに言われた言葉と同じ言葉を言われた。同じ意味合いだったのかもしれない。だけどそのときは少しかなしそうに聞こえた。それは多分、おれの気のせいじゃない。
「レン、レン」
「はいマスター。ここにいます」
「レン、歌ってよ。時間はまだいいでしょう?」
「はいマスター。でも」
「雨を連れゆくがいい。ねぇ、歌ってよ」
「…はい。マスター」
 自分の腕からコードを入力する。病院だからなるべく控えめな音でとボリュームを下げながらちらりと窓の外を見やった。偶然なのかそれともその音を耳にしたからなのか、窓の外は雨が降り始めていた。
 だからこの唄ならいい。おれはあまりこの唄が好きじゃない。自分の唄で自分の声で歌っている唄だけど、この唄はなんだかかなしいから。だから好きじゃないのにマスターはそういうものを好む。歌ってほしいと言われれば歌う。マスターだ。おれはボーカロイド。マスターが歌ってと言うのなら歌わなくては。
 マスターは、おれに病名を教えてくれない。マスターはおれにそれを教えたくないらしい。何度訊いても曖昧に笑うだけだった。
 木目調で揃えられた家具や寝具やあたたかい色をした灯り、暖色のカーテンに同じような壁。どこか別荘の一室と言われたら思わず頷いてしまうような、ここはそんなあたたかい場所だ。
 だけどとてもさみしい場所だ。マスターのそばにいるのはおれだけだから。
「レン、レン」
「はいマスター。ここにいます」
「次はココロ・キセキがいいな。分かるよね」
「はいマスター。でも、」
「でも?」
「…いいえ。何でもありません。歌います」
 自分の腕に触れてその曲のコードを入力する。病院だから音は控えめにボリュームは下げて。でも雨が窓を叩き始めたからさっきよりは少しだけ大きくする。
 この唄も、おれはあまり好きじゃない。かなしくなるからだ。さっきの曲よりはテンポもあって歌いがいがある気がするのに、心臓の鼓動音を取り入れたその曲を聴くと心臓のない自分のことを考えてしまう。歌っていれば歌詞が頭にある。何度も歌っていれば歌詞の意味だって考えてしまう。
 マスターの時間は無限ではない。永遠ではない。機械じゃない。生きている。おれはそれを分かってる。
 マスターは笑ったり泣いたり怒ったり喜んだり、心を持ってる。おれも少しは分かるはずだと思ってる。少しは、この唄のボーカロイドよりはずっとマスターのことを分かっているはずだと考えたりする。同じボーカロイドとしてこの曲は歌っていて少し辛い。自分の欠陥や欠落よりもマスターのことで頭がいっぱいになって浮かんでいた歌詞が消えたりする。
 厄介だ。マスターは歌ってほしいとおれに頼んだのに、それを邪魔してくるこれは。これが心の一つと分かっていても、それでも。
「レン、レン」
「はいマスター」
「次はね、すべてが終わってしまう前に。この前ダウンロードしたでしょ?」
「…はいマスター。でもおれは」
「俺は?」
「…あまり、好きじゃありません。マスターの言う唄はどれもかなしいです」
 何度か躊躇って何度か躊躇して、やっと口にした言葉。マスターに逆らうような言葉だ。主人に従うべき機械が何を言うのかと怒られるかもしれない。だけどおれの知ってるマスターならおれを怒らないはずだ。きっと、多分。
 そう思って、勇気を振り絞ってそう言ってみた。マスターは見えない目でおれを探すように視線を彷徨わせて「そう、そう思ってたの。ごめんねレン」とおれを探すように手を伸ばした。だから手を伸ばし返して白いその手を取って「いいえ。おれはここですマスター」と言う。マスターがやわらかく笑って「ねぇレン、外は雨かな」と言った。だから窓の方に視線をやってまだ降り続く雨を視界に入れてから「はい」と返す。マスターは「そっか」と笑って目を閉じた。力をなくす腕をそっとベッドに戻す。それだけなのに、なぜかとてもかなしくなった。
(マスター)
 おれに病気の名前を教えないマスター。その気になればうなじからコードを伸ばして適当な場所に接続してこの病院を調べればすぐに分かるのかもしれない。マスターが患う病気のことや病名、症状、治療法、その他おれにできるだろう色々なことが。
 だけどこの人はそれを望まない。それがどうしてなのか、考えられる可能性を考えれば考えるほどに胸が苦しくなってくる。
 だけどおれにできるのは。ただ歌うことだけ。マスターが好きだと言う唄を歌ってボーカロイドらしくマスターの命令に従うだけ。
 そうして四年目がきた。マスターは痩せた。記憶している限りのマスターの健康そうなあの頃の姿。それとは比べ物にならないくらいに別な人になってしまった今のマスター。視力は完全になくなりマスターの世界は暗闇と音だけが響くものになった。おれにできることはやっぱり、ただマスターの言うまま唄を歌い続けること、それだけだった。
 マスターが歳を取って、マスターが変わっていく。おれも歳を取る。だけどおれは変わらない。おれはボーカロイドだから変わりたくても変われない。歳を取らない。衰えない。機械だから。
 機械だから。
「レン」
「はいマスター。ここにいます」
「悪ノ、召使。歌える?」
「はいマスター」
「コーラスバージョンがいいの。レン、」
「歌えますマスター。大丈夫です」
 頼りなく彷徨った白い手をそっと握ってベッドのそばに膝をついた。なるべく近くにいることが伝わるようにマスターの手を握ったままマスターの望みを叶える。
 その日は晴れていて窓も開けてあってあたたかい風が入ってくる、春の日だった。
 だけど医薬品のにおいが溢れていた。嗅覚が優れているわけじゃないけど機械だから数値で分かる。ここにきた頃より確実に投与される薬は増え続けているしマスターの症状はよくならない。マスターは痩せ細っていく。おれはマスターのそばで変わらない姿で寄り添い続けている。
 機械は。歳を重ねても衰えないのだろうか。コンピュータや冷蔵庫や洗濯機は壊れるのにおれは壊れないのだろうか。ふとそんな不安に駆られる日がこの頃多い。もしもおれが壊れないんだとしたらそれは、とても、かなしいことだと。
「マスター」
「うん?」
「おれはきちんと壊れますか」
「? どうしてそんなこと」
「…見ていて分かります。マスターは」
 口にするのを躊躇った。だけどマスターが小さく笑って「ずっとそばにいるもんね。私は自分が見えないけど、レンは見えるもんね。普通に分かっちゃうか」とこぼした。だから顔を上げる。頬のこけた顔でマスターはそれでも笑った。それがとても胸に苦しかった。
「大丈夫よレン」
「…何がですか」
「全部よ」
「全部ってなんですかマスター。おれは自分の寿命が知りたいです」
「ねぇレン。死のうと思ったらきちんと死ねるわ。壊れたいと思ったらきちんと壊れることができるのよ」
「………そう、でしょうか」
「本当にそう思ったら。世界にはいられないものなの」
 口を閉ざしたマスターの手がおれの腕を伝った。肩を伝った手がぺたと首に触れて次に頬に、それから頭に。ヘッドフォンの感触が分かったのかマスターが笑って「そうね、でも謝っておかなくちゃね。ごめんねレン」と言う。だからおれは口を閉ざした。
 訊いてはいけないことを訊いてしまった。おれは馬鹿だ。
 マスターが掠れた声で「私はあなたを置いていくわ」と言う。渇いているんだろう喉のために水差しに腕を伸ばしてそれを手にしたのに、その手が震えていた。かしゃんと音を立ててプラスチックの水差しが床に落ちて水が散らばる。マスターの手は変わらずにおれの頭を撫でていたけれど、おれの腕は震えたままだった。
 見えないのなら、せめて、どうか。今おれが震えていることがマスターに伝わらないことをただ。
「レン?」
「手が、滑りました。水差しが落ちてしまって。すみません、取り替えてきます」
「濡れたの? 大丈夫?」
「大丈夫です。マスター、少し離れます。いいですか」
「分かった。気をつけてねレン」
「はい」
 そっとマスターの手を離してベッドに戻す。それからぞうきんでこぼした水を拭いて床をきれいにした。空になった水差しを持って木目調のスライド扉をからからと開ければ、あたたかい空間とは別の寒い病錬の廊下が待っている。
 視界が、歪んでいる。これはなんだろう。
(これは…なんだ?)
 手を離せばからからと静かにしまっていく扉。やがてぴしゃという静かな音と一緒に扉が閉じた。振り返れば普通の病錬のスライド式の扉があるだけ。マスターの表札が入った扉があるだけ。
(見にくい)
 ぐいと袖で目を擦って給水室まで行って新しい水差しに取り替えてもらった。そのとき看護婦さんに声をかけられて「あら大丈夫?」と言われる。だから顔を上げて「何がでしょう」と言えばその人が困ったように微笑む。「涙が滲んでるわ」と。
(涙?)
 手を伸ばしてまた歪みだした視界に、目元に手をやる。何か生温いものが触れた。手を離せば濡れているのが分かる。
(涙…?)
 病室まで戻る途中でまた腕が震えているのに気付いた。同じ失敗は二度もしないように、それだけ気をつけながらマスターの口に水差しを運んで水を飲ませた。一息吐いたマスターが「ありがとう。少し、寝るね」と言うから「はい」と返してことんと水差しをベッドサイドに置く。手はまだ震えていた。
(だけど見えないから。マスターには見えないから。伝わらないから。それでいい、それでいいから、どうか)
 ぎゅうと拳を握ってぎしと椅子に腰かけた。それから小さく膝を抱えて蹲る。
 マスターが眠るのならおれも眠りたい。永遠に眠るというのならおれも一緒に永遠に。
 おれはマスターのいない世界がただこわい。