たとえば、俺にとって必要のないもの。歌さえ歌えればそれでいいのなら、俺から手足をもいでくれたって構わない。演算部分に記憶部分、必要不可欠な部分が残っていれば歌は歌えるのだから。
 外見が大事で声がいらないのなら、それはもうVOCALOIDとして求められているとは言えない、というのも一説だ。俺もそう思ったことがある。VOCALOIDとして俺達を購入する人とそうでない人がいる。そして俺のマスターは、後者だ。
 だからなんだって話なら、だから何でもないって話になる。
 俺を購入した理由がなんであれ俺はそのマスターのために存在するただ一つのVOCALOIDだ。機械は確かに量産できて同じ顔同じ声同じ姿の奴が何人といるけど、それでも俺は俺。マスターに呼ばれる鏡音レンの音声だけが、俺を呼ぶ声だ。
「レン」
 呼ばれた。マスターの声で。
 薄目を開けて一つ瞬いて顔を上げる。スリープ状態だった頭が稼動を開始した。いつもなら呼ばれない時間に名前を呼ばれて「どうしましたか」と答える声が少し遅れた。ソファで小さくうずくまるようにして横になっているマスターが視線だけで部屋の扉を示してみせる。だから俺は瞬きで応えて少し腕を持ち上げた。かしゃん、と手の中に落ちた小さな銃を握り締めて顔だけ上げる。俺は機械だから人のように構えはいらない。
 だから撃つのは、相手が射程距離内に入ってきたらすぐに。
 マスターが布団を被ってソファにうずもれた。それを視界に入れながら扉を見つめ続けて、声も物音もしなくなった部屋の景色を見つめ続け、視界に赤外線を組み込んだ。万が一外した場合に備えて。
 ただのVOCALOIDで歌うことが仕事で、歌うために存在したはずの俺達なのに、俺は歌うのとは全然関係のないところで生きていた。
 かつ、と微かなブーツの音。人数を確認する。三人。マスターが布団の下でどうしているのか分からないけど、俺が片付けられなかった場合に備えてるのかもしれない。だけど今の今まで一度もそういうことはなかったから、多分何もしてないだろうけど。
 もしかしたら寝てるかも。そう思ったら口元が緩んだ。気を抜けない状況だったけど、そうして笑うこともできた。
(カウント開始。5、4)
 自分は動かない。引き金を引ける状態ならそれでいい。構えはいらない。多少の無理が利くのが機械の身体のいいところだ。
 たとえ手足が千切れ飛んでもひしゃげて潰れても、部品を替えればすぐに動くようになる。この身体は便利だ。演算処理も上手くできている。痛みなんて感じることはない。上手にできている。まるでこういうことにも使われるだろうと、組み込まれているように。
(3、2、1)
 ゼロ、と唇を動かして引き金を続けて引いた。扉越しに三発続けて放つ。スローにした視界の中を弾丸が扉を突き抜けるのが見える。突き抜けた穴の向こうには予測通り相手三人の、こっちに突入しようとしていた三人の心臓が三つ分。
 今回は随分と馬鹿で間抜けだ。三人わざわざ扉の前に来て撃たれるんだから。
 折り重なる人の倒れる音を聞きながら、少し痺れが走った腕をぷらぷらさせた。「終わりましたマスター」と言えば、もそりと布団から顔を覗かせたマスターが眠そうな顔で「ご苦労ー。片付けもお願いしていい?」「はい」服を払いながら立ち上がれば、マスターがもそもそとソファに埋もれて「ねむーい」と言う。俺は苦笑いして「まだ朝も早いですから。眠ってくださいマスター」と返して死体を三つ片手で持ち上げた。マスターがソファでもそもそしながら「さすがにもう寝れないかなぁ」とぼやくから、俺は眉尻を下げて隣の空き部屋にぽいと死体を放り込んだ。
 ばたんと扉を閉めて顔を上げる。マスターのさすがにもう寝れないの意味が今頃分かった。だいぶ慣れてきたつもりでいたのに、俺はまだまだ使えない奴のままだ。
「レン」
「はいマスター」
 部屋に戻れば、いつもの格好をしたマスターが布団から抜け出していた。差し出された手と毅然としたその表情。戦ってやるって顔。マスターのよくする顔で、見慣れた顔。俺はその表情を記憶しながらその手を取る。伸ばされた手を、俺の手を取るための手を。
「斥候は教えたね」
「はい」
「さっきのらしくないのはきっと雇われで、外にはうじゃうじゃこっちを包囲してるのがいるってのが典型的なパターン」
「はい」
「…レン」
 マスターがくしゃっと表情を歪めて俺にぎゅうとしがみつく。あたたかい体温に抱擁されながら「ごめんね、また壊れちゃうね。ごめんね」という泣いた声に口元だけで笑う。

 それでもいい。いや、そのための俺だ。壊れても大丈夫、替えの利く、都合のいい存在。VOCALOIDで量産型の俺という奴はたくさんいる。その中の一人があなたのもとにいるだけだ。現実はただそれだけだ。
 だけど、あなたは壊れてはいけない。あなたが壊れても誰も代わりがいない。誰も代わりにはなれない。それが人だ。
 俺のことなら大丈夫。心配しなくて大丈夫。俺はマスターの身を守ることを第一にして動く。それだけ。

「…マスター。大丈夫です」
「うん」
「時間がありません」
「うん」
「…マスター」
 ようやく俺から離れたマスターが手荷物のリュックを一つ背負う。俺は全身武装に装備を変更しながら頭の中だけで思う。できればどこも壊れずにマスターとここを無事脱したいけれど、それは無理な願いだ。俺はまたどこかしら壊れるだろう。それでいい。ただ、できるならまだこの人と一緒にいたいから、大事な部分は壊れないでいてほしい。マスターとの時間や感覚を刻み込んでいる頭だけはせめて。
 マスターが顔を上げる。泣きそうな顔。俺はなるべくやわらかく笑って頷く。マスターがぎゅっと目を閉じて、次にはいつもの毅然とした顔で「行こう」と言う。だから俺は「はい」と返す。それから両手を機関銃に変える。
 VOCALOIDとして必要不可欠なものを全て捨て去って、空いたスペースに詰め込まれたのはこういうもの。マスターを守るために俺に必要なもの。
 VOCALOIDのただの鏡音レンにならいらなかったもの。だけどあなたをマスターとした俺には必要なもの。
 VOCALOIDとしての鏡音レンは、ここにはいないけど。あなたのための鏡音レンはここにいる。
 マスターの手が扉のノブを握り締めて、開け放つ。俺が外に飛び出し両手をがしゃんと左右の通路に向け建物を壊す勢いで弾丸をぶっ放す。マスターのいる場所だけを守るようにマスターを守れるように、足を貫通した何かにも知らないふりで、頭の中に引っかかった天井の向こうの気配に肩から服を破って突き出した銃口が視界の端でぎらりと光って火を噴く。
 VOCALOIDとしての鏡音レンは、ここにはいないけど。あなたのための鏡音レンは、俺は、ここにいる。
「…、」
 頭が。動いた。ということは、俺の頭は最後まで無事だったってことか。よかった。
 弱い音で稼動し始める頭から意識してマスターを探す。死体ばかりが転がってる場所に生きている体温は見つけられなかった。だけどマスターが死んでるなんて思っていない。マスターが死んでいるなら、俺だって死んでいるから。理由はそれだけ。俺が生き残ったとしても存在理由を失った俺に生き続ける理由はない。だからマスターが死んでいたら間違いなく俺も死んでいる。
 声が出ない。上手に出ない。演算速度が極端に遅い。破損部分を調べてみようと思っても頭の中で窓が開かない。まるで一昔前のコンピュータみたいに重い。
 手も足も、動かない。壊れたのかもしれない。でも視界が両方あるから、頭は無事なんだろう。死体ばかりの場所に視線を彷徨わせて、こういうときはどうするんだったかと考える。答えは浮かんでこないけど。
 マスターは、無事だ。きっと。俺が無事なのは、そういうことだ。
(…守れた。かな)
 政治的理由で色々なところから狙われているマスター。そのマスターを守るのが俺の仕事。VOCALOIDという機械であった俺に与えられたこと。歌うことではなく、自分にできるあらゆることをもってマスターを守ること。それが俺という鏡音レンに与えられたこと。
 歌うことが当たり前だった。俺の中の定義はそうだった。だけど他ならないマスターのためなら定義も何もかも変更できる。マスターでなければできない。俺達に搭載されている情報を変更するのも組み込むのもマスターの手だけ。
 何度となく、どこかから始まった記憶がある。保存してある記憶の欠片、その断片は。多分俺がマスターを守ってきて壊れたときの、頭が壊れてマスターのことも自分のことも何もかもを忘れて、それでまた1から全て教え直しのときの記憶で。回数を重ねるごとにマスターの毅然とした表情がどんどん崩れていく。それでも強くこの頭に焼き付いているのは、忘れないようにと、文字通り自分の中にそれを無理矢理焼き付けたんだろう。俺はそれだけもう壊れて、そうしてマスターのために生きている。
 これで何度目だろう。マスターはいつになったらちゃんと笑える日がくるだろうか。いつまで逃亡生活を続けるのだろうか。早くあの人が笑う顔が見たい。俺はあの人のどんな姿も受け入れるけど、だけどできるなら、笑っていてほしい。
 これはわがままだろうか。それとも、過ぎた願いだろうか。
「レンっ!」
「、」
 聞き慣れた声が俺を呼んだ。視線をずらせば、ばらばらとうるさい音を立てているヘリが見えた。そこから降りたんだろうマスターが見えた。俺のところまで走ってきて、せっかくの正装姿で地面に膝をついて崩れ落ちる。手を伸ばしたいのに手が動かない。どこからどこまで俺は壊れてるのか。そう思いながら俺は笑う。どうにか笑う。せめてあなたが泣く分くらいは補えるようにと。
「だいじょうぶ、です」
「どこがよ。全然、全然壊れてる。こわれてる…っ」
「痛くない、です。から」
「そういう問題じゃないのっ」
 ヘリから次々と人が降りる。マスターが俺を抱えて、「こっちにも人を頂戴!」と声を上げた。踏み出せない足に視線を落とせば、やっぱり壊れていた。穴が開いてずたずただ。弾丸がいくつも貫通して、あとは何を受けたんだろう。もう原型がないくらいにずたずた。
 マスターのところまで何人か人が来て俺を担架に乗せる。マスターが俺の手、だったんだろう穴だらけの腕を抱えて「なおさなくちゃ」と漏らす。俺は口元だけ緩めて笑う。「だいじょうぶです」と。
 頭さえ無事ならあなたのことは忘れない。俺にとっては、自分の身体がどれだけ破壊されようと構わない。ただ頭を、あなたをあなただと記憶している場所を、俺を俺だと認識してる場所を壊されるのだけはたまらない。機械的な本能。そうして俺は壊れる直前に何かを刻む。多分一番最初を刻む。一番最後を刻んだら、そこにあなたはいないから。
 だからあなたとまた会う自分の記憶を、どれが一番最初だったのか分からないくらい溢れてきたあなたを焼き付けて、俺はまた俺として立ち上がる。
 今は壊れてしまっている身体は一日かければすぐに直る。あなたのために俺はまた立ち上がる。
 それでいい。それがあなたのためにある俺だから。
「…マスター」
「うん」
「けが、は」
「ないよ。ちゃんと守ってくれた。だから私、まだ生きてる」
「…はい」
「レン、私のこと分かるね? だいじょぶだね?」
「大丈夫。です」
 俺の頭を撫でる掌。演算速度が落ちている頭ではその感触までは分からなかった。ヘリの羽音もどこか遠い。本当ならばらばらうるさいはずなのに。
 意識を落として、最低限の動力を保つことに専念した方がいい。そう判断して「ますたー」と呼ぶ。俺の頭を撫で続けているマスターが「うん」と返事をくれる。きつく唇を噛み締めて泣かないようにしている顔。困ったなと思って、言わないでおいた方がいいのかなと思ったけれど、言う。「スリープ状態に移行します。必要なときは電源を切ってください」と。マスターがぎゅうと目を閉じて俺の額にごちと額をぶつけた。俺の腕だったものを抱き締めながら「分かった」と声を絞り出した。俺はゆるゆると目を閉じる。次に目が覚めるときは多分もう動ける身体で、まず一番にマスターに抱き締めてもらえるんだろうと思いながら。

「次に、目が覚めたら」
「、はい」
「ちゃんとマスターって呼ぶのよ。ね」
「はい。マスター。あなたを見て、あなたのことを、マスターとおよびします」
「…うん。おやすみレン」
「おやすみ、なさい」

 そうやって。俺の意識は、眠りについた。

にせもの王子
「レン」

呼ばれて目が覚めた。視界にはマスターがいて、どこか泣きそうな顔をしていた。
頭がちゃんと動いた。手も足もあることが分かった。俺はきちんと直ってもう元通りなんだろう。
だから俺はマスターのその顔を頭に焼き付ける。
俺の始まりは、いつもあなたに。あなたのそばだけに。

「はい、マスター」
「お早う」
「お早うございます」

涙を振り切るようにマスターが笑った。だから俺も笑った。
起き上がればベッドの上で、手を掲げればいつもの掌が見えた。その手を取ったマスターが見えた。
ここからまた、俺の日常が始まる。