もう嫌だ、とうわごとのように漏らしたマスターが椅子を蹴飛ばして立ち上がったのは突然のことで、それまで昼食を摂っていた僕はびっくりして手が止まった。もう嫌だ、という言葉は聞き取れたけれどそれが具体的に何を指すのか分からなかったのだ。

「レン行こう」

 今にも泣き出しそうな、それでいて毅然とした表情でマスターはそう言う。
 差し出された手は多分、少し震えていた。
 僕の答えは言うまでもなくただの一択なのだけど、マスターが言葉にしてほしいというのなら。だからにこりと笑顔を浮かべて彼女の望む言葉を紡ぐ。「イエスマスター」と、お決まり文句のような、それでも心からの言葉を、僕のたった一人のマスターへと。そうして昼食のパスタのお皿を放置してその手を取り、手を引かれるままに部屋を出るときにちらりと振り返った。一口も手をつけられていないマスターの食事は、おそらく、ずっとそのままこの部屋にあり続けるのだろう。どうしてか僕はそう予感していた。

「マスター、どちらへ行かれるのですか?」
「特に決めてないの。でもここを出る」
「それはなぜですか?」
「…うん。どうしてかな」
「先ほど、もう嫌だ、と言ったのを聞きました。何か関係があるのでは? 僕が知らない間に何かがあったとか」
「ううん。きっとずっと昔から…だから、もう、なんだね。うん。もう嫌だ…ここは、いやだ」

 すっかり慣れた部屋を出て、見慣れた街を電車とバスを使って離れ、マスターはどんどん離れていった。いるべき場所からどんどん離れて、そしてアテもなくあっちへこっちへふらふらと歩いた。
 僕はその隣を歩いた。マスターが別売りのソーラーパネルの充電器を買ってくれたから充電には心配いらない。だから僕はそれほど深く考えず、ただあなたが望むままにとマスターと手を繋ぎ、アテのない足取りの隣を歩く。
 でも少し気になっていた。マスターは食事をしない。眠らない。人には衣食住の法則があり、眠らなければ身体には疲れが蓄積し、食事をしなければエネルギーが得られない。ふらふらと隣を歩くマスターは頼りない。今にも倒れてしまいそうだ。
 あまりマスターの望まないことを言いたくはないけれど、僕は小さな声で訴えた。「マスター、そろそろ休みませんか」と。視線の定まらない目がこっちを見て「どうして」と言うから、その目を見つめ返して「足取りが危ういと思います。転んでしまいます。それに、眠ってもいないし、食べてもいないです。マスター、僕はあなたが心配です」「……ああ、そうか。そうだね…分かった」僕が指摘してようやく気付いたとでもいうのか、マスターはぺたりとその場にしゃがみ込んでしまう。
 少し困ったけれど、休むにしてもここではいけない。機械であるがゆえに外見以上に力のある僕は、マスターを抱き上げた。手短なお店を探して視線をゆるりと流す。これくらい軽いものだ。それに、マスターは本当に軽い。食事を摂ってもらわないとこのままでは倒れてしまうのも時間の問題だ。
 マスターはうなだれて僕に抱き上げられたままだった。それを許可と受け取って、僕はまずモスバーガーに顔を出す。そこで適当なものを注文して持ち帰りにして店を出た。次に眠れる場所を探す。ホテルが一番だと考えたけれど、少し悩む。身分証明とやらは何かと面倒くさいからだ。

「マスター、眠る場所はどうしましょうか」
「…その辺で、いいよ。レンがそばにいてくれるなら、どこだっていいよ」
「イエスマスター。ですが、風邪を引いてしまいます」
「大丈夫…。レン、いいにおいがする。これ何?」
「モスバーガーに寄ったので、ハンバーガーのセットを買いました。食べますか?」
「うん…」

 風の防げる路地裏の隅っこに行ってマスターをそっと下ろす。コンクリの壁にもたれかかってモスバーガーの袋に手を突っ込んで、ハンバーガーを二つ取り出したマスター。一つを僕の手に置いて「はい、いただきます」「いただきます」僕は特別食べる必要はなかったけれど、マスターに合わせてハンバーガーを頬張る。
 食欲はなさそうだったけれど、マスターはハンバーガーを一つ食べてくれた。そのことにほっとする。
 オレンジジュースをすすっていたマスターがふいに泣きそうな顔をした。縋るように僕を見て「レン」と呼ぶ声にやわらかく笑って「イエスマスター」と返し食べかけのハンバーガーを膝に置いた。縋るために伸ばされた手を取って抱き寄せると人の体温がして、慣れ親しんだ体温がして、僕のただ一人だけのマスターの鼓動が伝わってきた。
 ゆっくり背中を撫でて、泣きそうなのに泣かないマスターの頬に唇を寄せる。「眠りますか」と囁くとこくんと一つ頷き。だから僕は目を閉じる。通常より体温を高めに設定する。布団代わりになれればいいのだけど、と思いながらマスターをそっと抱き締めてコンクリの冷たい地面に横になる。ああ、毛布くらいどこかで調達しておくべきだったと今更な後悔をした。
 僕に縋って眠るマスターは随分と幼く、子供のように僕の腕の中で眠っていた。
 眠る必要のない僕はただ目を閉じて眠ったようにしている。マスターを害するような存在に注意を払いながら、必要なら守り、必要なら移動し、必要なら、僕は命を犯すことも厭わない。
 それがマスターのために存在する僕の。
「…いま、なん、じ? れん」
「イエスマスター。午前九時十七分三十二秒です」
「きのう、いつねたっけ。わたし」
「午後二十二時三分頃だと思われます」
「うん…」
「…マスター、できれば食事を。冷めてしまっていますが、ポテトとオニオンフライです。おいしいですよ」
「うん」

 一つ一つ、ひどくゆっくりとした動作でポテトを口に運ぶマスター。見かねた僕が頼りないその手を取って代わりにマスターの口にポテトを運ぶ。
 そうして少しの食事を終えたマスターと手を繋ぎ、僕らはまた歩き出す。
 このままではいけない。そう分かっていたけれど、もう嫌だと言ったマスターの意思を否定することは、僕にはできない。
 だから歩く。僕の手を引いて歩くマスターの隣を歩いて行く。ただひたすら歩みを進め、どこかも知らない町をくぐり抜け、トンネルを通り抜け、いくつもの景色をすり抜け、ただ歩いて行く。
 朝陽が昼の陽射しに変わり、午後の陽気が訪れ、やがて陽は沈んでいく。
 今日はスーパーでお弁当を買った。マスターは食事のことになると途端に無関心になり、僕に任せるままだった。今度は栄養面に配慮した十三穀米の和風のお弁当だ。同じもの二つと飲み物のスポーツドリンクを購入してスーパーを出て、陽が暮れる前に食べてしまうことにする。
 備え付けのベンチでお弁当を広げて手を合わせていただきますをし、マスターがゆっくり割り箸で食事を摂る様子を窺いながら、僕もお弁当を食べる。

「マスター、この先は砂の海です。もう行き止まりになります」
「…そう。そんな端まで来たんだ」
「イエスマスター」
「……ね、レン。きっと怒ること、言ってもいい?」
「イエスマスター」
「あのね、私…」

 マスターが僕を見つめて泣きそうな顔をしている。
 お弁当を膝に置いた。マスターは泣きそうな顔で唇を噛み締めている。眠っているときはひどく幼いその顔は、今は眉間に皺が寄って、泣くものかときつく歯を食い縛っていて、見ている僕も辛い気持ちにさせる。
 僕が、怒ることなんて。たとえそれがどんな言葉でも、あなたは僕のマスター。たった一人の、ただ一人の。だから僕はあなたを肯定し、その言葉を受け止め、あなたの存在をただ欲する。
 僕のマスターは言う。泣きそうな顔を歪めて無理矢理笑ってみせて、そして言うのだ。

「私、そこで死にたいの」

 ああそれは。おそらくきっと、どこかで分かっていた、予想していた言葉。
 だから僕は驚かない。怒ることなんて当然ありえない。だから笑う。僕はどんなあなたでも肯定する。あなたはただ一人の僕のマスター。あなたを否定することは自分自身を否定すること。あなたの心を受け止めるのは僕の存在意義。あなたが頼っているのが僕だけだなんて、その告白を聞いたのが僕一人だなんて、僕はなんて幸福なんだろうか。
 だから僕はいつものようににっこりと微笑みを浮かべ、笑う。
 どんなあなたでも肯定し、受け止め、受け入れ、抱き止め、抱き締め、僕はいこう。どこまでだってその手を握って隣を歩こう。
 ただあなたのためだけに。その心のために。そして僕のためにも。

「マスターがそう言うのなら。僕も、お供していいですか」

 ゆっくり手を伸ばしてマスターの手を取ると、震えている手が僕の手を握った。縋りつく震えた手をもう片方の手で撫でて、その手の甲に口付ける。手の甲から腕へ、腕から肩へ、そして首筋へ。誓いと、思考の渦が生み出した欲という口付けを重ねながら、泣きそうに揺れている瞳を見つめてやわらかく笑う。その目に映った自分はとてもしあわせそうに笑っていた。
 僕のただ一人のマスター。たった一人のマスター。替えのきかないただ一人の人。
 守り、従い、控え、応え、笑いかけ、受け止め、抱擁し、抱き締め、ただあなただけを望む機械は、最後まであなたのために笑ってゆく。
 少し血色の悪い唇に唇を重ねて、震える身体を抱き締めて、目を閉じる。
 これから死にに行くのだと言われても僕にそれを止めることはできない。死なせたいのかと責められればそうじゃないと言い返すのだろうけれど、僕は、マスターを傷つけたくはない。だから否定したくない。だから受け止めたい。どんな言葉も、どんな現実も、どんな真実も。

「マスター」
「うん」
「こんなことは変かもしれないのですが。僕は今、すごくしあわせです」
「…うん。私も、レンがいてよかった。本当によかった」
「イエスマスター」
「愛してるわレン」
「僕も、愛しています。心から、、あなたを」
「うん」

 笑ったマスターの唇にもう一度口付け、食べかけのお弁当を放置して、僕らは手を繋いで歩き出す。
 もうすぐそこには水が涸れ果てた砂ばかりの海が広がっている。
拒絶を許容
(死さえ感受)