「………………」
 ぼんやり空を見上げている少女が一人、白い景色の中に浮かび上がっていた。白い壁に白い床、それから白い白いその建物を背景に、彼女はぼんやりと空を見上げ続けている。
 空の中に浮かぶ白いその場所を風が行き過ぎていった。少女の髪が空に踊った。けれどそれさえも無関心に少女はただぼんやりと、何も映していない瞳で空を見上げ続けている。
 風の行く音しかしないその場所に、ふいにじゃり、と靴音がした。少女がいる立ち尽くす階段より下のエントランスから、緑の髪をした少年が姿を現す。
 けれどそれにさえ無関心に、世界の全てに無関心のまま、少女はただ空を見ていた。
 少年が顔を歪めて何か言おうと口を開いて、けれど結局何も言葉にすることなく唇を噛んで目を伏せた。それから息を吐き出す。それは呆れているというよりも諦めている、そんな溜息だった。
 その事にさえ無関心に、少女はただ空を見上げて続けている。まるでそこに探し物があるかのようにただずっと空を眺めている。
 元詠師だったのだというその少女の名はと言って、初めてあった時からどこかぼんやりしていたなという印象を持ったのを、シンクは今でも憶えていた。時々その瞳に意識が戻って、周りを見て哀しそうな淋しそうな色を映していた事も憶えていた。
 彼女の声も憶えている。差し当たりのないやわらかい声だった。人を諭すには申し分ない声だと言えた。
 正装すれば彼女は詠師の一員となり、仕事をこなす。それが日課であり義務であるからだ。
 けれどシンクは彼女の仕事をしている時の姿が一番嫌いだった。大嫌いだった。無理矢理にでもその場から連れ去ってやりたいと思うほどに嫌いだった。
 それは彼女が心を削りながら仕事をしているのだという事を嫌というほど理解していたからだ。彼女が無理をしながら仕事をしている事を知っていたからだ。
 彼女は無駄に優しかった。預言を詠む事に長けている能力のせいで詠師に任命され、それからはずっと預言を詠む事だけをしてきた。
 そのせいで彼女はおかしくなってしまったのだ、とシンクは思う。確信を持って言える。
 だからこそ彼は預言が大嫌いだった。
 自分を生んだ預言が。彼女をおかしくしてしまった預言が。

「シンクっていうの? 私は。よろしくね」
 差し当たりない微笑みと言葉を並べて手を差し出してきた彼女を、彼は最初拒絶した。ぱしんとその手を払って明後日の方向を向いた。それを彼女は哀しそうに淋しそうに見てはいたけれど、差し出した手を無理に押しつける事はしなかった。最初に会った時から、彼女は強要というのをしない人だった。
 その微笑みはレプリカである彼にもオリジナルの誰かにも平等に向けられる笑顔で、だからこそ彼はそれが余計な気遣いのように思えて彼女を拒絶していた。
 それでも彼女が変わりなく微笑みながら接してくるから。どんなにつっぱねてもどんなに振り払ってもどんなにひどい暴言を吐いても、彼女があまりに変わりなく接してくるから。だから彼はしょうがないなと溜息を吐いて、だんだんと彼女に心を許し、態度をやわらかくするようになっていって。

「あたしね、もうすぐ壊れちゃうみたいなの」
 いつものようにやわらかく微笑みながら彼女はそう言った。だから彼は冗談なのだろうと思ってへぇとだけ返した。そんな彼に彼女は哀しそうに淋しそうに微笑んで踵を返す。いつものように仕事へ行くためだ。だから彼は彼女を引き止める事はせずに、ただその背中を見送った。
 それがあとからどれだけ後悔する事になるのか、その時の彼には想像もつかなかったのだ。予想もしていなかったのだ。
 けれど本当は心の奥底の方、無意識の領域で、彼はその可能性に気付いていた。恐れが彼を無知にさせていた。知らずにいればそのまま通りすぎてくれる、そんな思い込みなのだと信じていたかった。
 けれど絶望は彼女と彼の足をしっかりと絡め取り、奈落へと引きずり落とす。

「……何? どういう事、これ」
 いつもやわらかい笑みを浮かべて出迎えてくれるはずの彼女がいない。だから彼は仕事が長引いているのかもしれないと思いながら彼女を礼拝堂まで迎えに行った。勤務の時間が終われば強制的に連れて帰っても上から何も言われない事は知っていたからだ。
 けれどその礼拝堂まで行く前に彼は彼女を見つけた。この教会の中で唯一ある心ばかりの小さな医務室の中でベッドに横たわっている、打ち捨てられた人形のような彼女の姿を。
 いつもやわらかい微笑みを浮かべていたはずの彼女の顔はただ虚空を見てぼうっとしていて、その瞳には光がなかった。光どころか感情さえ映っていなかった。何も浮かべてはいなかった。
 彼は震える身体をもどかしく思いながらベッドに歩み寄った。それでも彼女は彼に視線を向ける事はしなかった。彼がと名前を呼んでも彼女は無反応にただ虚空を見つめていた。

 あたしね、もうすぐ壊れちゃうみたいなの

 ふいに彼女の言葉が思い出されて、その笑顔が哀しそうに淋しそうに曇っていた事を思い出して、彼は己を呪った。呪って呪って呪って、蔑んだ。
 本当はどこかで知っていたかもしれないその事実を、彼は黙殺していたのだ。
 最初に会った時から彼女の反応や反射がだんだんと鈍く遅くなっている事にくらい気付いていた。けれどそれはただ彼女が本当に鈍いだけなのだろうと軽視していたのだ。
 本当はそれがもう心が壊れ始めている事の表れなのかもしれないと、気付いていたというのに。

 認めたくなかった。気のせいだと思いたかった。だから知らないふりをした。
 ただ彼は彼女に生きていてほしいと願っていたのだ。
 無意識に、無意識に。
「何見てるの? さっきから」
 相変わらず空を見上げ続けている彼女に、彼は無駄だと知りつつも声をかけた。彼女の隣に立って、同じように空を見上げてみる。けれど青と白以外には何も見えはしなかった。
 やはり彼女は彼の言葉に何かを返す事はせず、ただ空を見上げ続けている。
 彼は小さく笑って彼女の髪に手を伸ばした。副官のリグレットが手入れをしているらしいその髪はあの頃と変わらずさらさらのままだったけれど、その表情だけは依然感情が抜け落ちたように無のままだ。
「ボクの声、聞こえて…ないんだろうね」
 苦笑を交えながら彼はそう呟いて、それから彼女の白く細い手首を取った。何も摂っていないせいで今にも折れてしまいそうなほどに小さく痩せてしまった彼女は、やはり何の感情も示しはしない。

 ふいにドンと譜業銃の音がした。遥か下方、この白い白い大地の入り口付近から。
 彼は顔を上げてその方向を確認し、それからふと表情を緩めて彼女を見た。相変わらず何の色も浮かべずに空を見続けている彼女の頬に手を伸ばして目を合わさせる。視線が交じり合う事はないと分かってはいたけれど、それでも目を合わせて話がしたかった。
「今日、全部終わる」
 聞こえやしないと分かっていても彼は彼女に話しかけた。彼女が反応を示さずとも、彼には彼女がここにいるのだという事実が支えになっていたのだ。だから彼は彼女の額に自分の額をこつりとぶつけて言葉を続けた。
「面倒だった事も哀しかった事も、全部終わる。だから、」
 相変わらず何も映しはしないその瞳。感情の抜け落ちたその顔。死んでしまった彼女の心。
 彼は彼女の細い首に手をかけて、ゆっくりと締め上げた。息ができなくて苦しいはずだろう彼女は、やはり何の感情も浮かべる事はない。
 彼は悲しそうに哀しそうに彼女に口付けて、その首を締め上げて、彼女の生を終わらせようとその手に力を込めて。
「もう、一緒にいこう」
 ボクもすぐに追いつくから。そう小さく呟いて彼は目を閉じた。彼女を視界から追い出す。
 その腕を捻って骨を折る確かな鈍い感触を感じながら、糸が切れて崩れ落ちた人形のようにくたりとする彼女を抱き止めた彼。その目はまだ閉じられていた。開ける事を躊躇っているようだった。
 ドンと銃声。金属音。譜術の気配。
 彼は薄く目を開けて、開かれたままの彼女の瞼を閉じさせた。その顔が最後まで無だった事が余計に彼を悩ませたのだが、それはもうどうしようもない。
「…すぐに行くから」
 彼女を抱き上げながら彼は言う。先ほどまでの彼女と同じくらいに感情を欠落させた顔で彼は言う。すぐに行くからと何度も何度も言う。彼女の髪を撫でながら、その唇に口付けを落としながら何度も何度も。
 最後にごめんと一言だけ口にして、彼は彼女をいつもの部屋のベッドに寝かせた。それだけですぐに踵を返して部屋を出て行く。振り返る事はしない。
 彼の顔にはもう何も浮かんではいなかった。後悔も恐れも何も浮かんではいなかった。ただ彼女と同じ無があるだけだった。
 けれどふとその瞳に哀しみが宿って涙が滲んだ。それを振り切るように彼は首を振る。そうして彼女が空を見上げ続けていた場所に立って同じように天を見上げて誤魔化してみた。相変わらず視界は滲んでいたけれど、涙がこぼれない事が今の彼には重要だったのだ。

 約束ね。絶対に泣かないって

 いつかの彼女は笑いながらそう言って指きりのために小指を差し出してきた。それに彼は馬鹿みたいだと思いながらも同じように小指を差し出して絡ませた。彼女がくすくす笑いながら絶対ねと繰り返す。今思えばその笑いはどこか淋しそうだったなと、思う。
 約束は果たす。いや果たしたい。だから彼は首を振って涙を堪えた。そうしてただ自分のすべき事だけを考える。
「…
 けれど無意識に口を突いて出た言葉はやっぱり彼女の名前で、彼は自嘲気味に笑って俯いた。白い床にぽたりと雫が落ちる。
「ごめん。約束、守れない」
 滲んだ声でそう言って彼は崩れ落ちている壁に背中を預けた。そのままずるずると白い大理石の床に座り込んで、声を殺して泣く。
 最後の戦いまでの残り時間が、一時間を切る。そんな頃のことだった。

優しすぎた 愚かな君を



した





あとがき

4567のキリ番ゲッター者である泉さんからのリクエストで、シンクです
切ない系とありましたので書いてみたらこんなんになってしまったのですが、どうでしょう。どうなんでしょうねこれ
とりあえず切なくなっていればな、と思います。はい
空に落ちるほどではないような……。ま、まぁ良いか(…
とりあえず完成です!キリ番ゲッター者である泉さんはお持ち帰り可ですー。持ち帰ってもしょうがないようなものですが

私的解釈なんですが、詠師っていうのはちゃんとした真面目な人はなれない職業だと思ってます
だって人の未来を詠んで伝えるんですよ。他人の未来にちょっとでも干渉するわけです。それって並大抵の心では難しい事だと私は思うのです
自分の事で手一杯なのが人間じゃないですか。それなのに他人の未来が分かってしまう仕事なんて、絶対に心が許容しきれません。いつか絶対ごっちゃごちゃになって壊れてしまうよ
とか思いながらこういうヒロインになりましたみたいなね(…
無理しすぎちゃったんだよ。だからこうなっちゃったの
っていうか切ないのはクリアしたような気がするけど、普通にラヴではない、よね……