あたしのマスターはお仕事で忙しい。それはあたしの購入理由が『家事炊事全般ができること』からもわかるように、マスターはあたしに歌を歌ってほしくてあたしを買ったのではなかった。マスターはあくまであたしに仕事以外の家事や雑事を任せたくてあたしを買ったのだ。あたしはそのことを理解していた。
 マスターは一人暮らしだ。正しくは一軒家に一人で住んでいる。だから一人暮らし。お仕事があるマスターは家のことまでやっている時間がない。だからあたしがその代わりをする。
 マスターが住んでいるのはアパートではなく一軒家。だからしなくてはならない家事や掃除なんかもぐんと多くなる。
 あたしが一日を過ごす中ですること。お庭の手入れ、掃き掃除、家の家事と掃除はもちろん、ご近所から回覧板や郵便物その他の応対もあたしがする。最初こそあたしがVOCALOIDであることを知らない人や機械だとわかっている人がなんともいえない顔をしていたのを憶えているけれど、今ではもうそんなこともなくなった。
 あたしがマスターのもとにきてもう半年がたとうとしている。
 この家にいるのは、あたしとマスターの二人きり。
 チーン、と今日も一つさみしい鐘の音が鳴った。だからあたしは洗い物の手を止めて顔を上げる。泡だらけのゴム手袋のままぱたぱたと音の鳴った方へ駆けていけば、電気のついた八畳の間の奥にある仏壇に向かって正座して手を合わせているマスターの後姿が見えた。
 夜、マスターが仕事から帰宅する。夏の日は先にお風呂かシャワーに行ってもらって、今頃の寒くなってきた季節は先に夕食をとってもらう。それであたしはその間にお風呂の準備をする。それからマスターがお風呂に入ってる間に食器の片付けをする。手順はもうだいたい決まっていた。半年も同じことを繰り返せば、VOCALOIDであるあたしでもこのくらいのことはお手の物。
 今はその食器の片付けの段階で、マスターはもうお風呂に入ったものだと思っていたあたしは少し驚いてその八畳を覗き込んだのだ。
 両手を合わせ、仏壇に向かって少し頭を下げている姿。もう何度も見てきた光景なのに、あたしはその姿を見る度になんともいえない気持ちになる。
「リン」
「、はい」
「泡。床に落ちてる」
 呼ばれて返事をしたらそう言われた。ゴム手をつけたままだったから、洗剤の泡が確かに床に落ちていた。慌ててゴム手をエプロンの方で拭いて「すみませんすぐ拭きますっ」ばたばたキッチンに駆けていって台拭きを持ってきて泡が落ちてしまった廊下をきれいにした。木目調の床。フローリングじゃなくて木の軋む音がする、昔からある家の床板。
 立ち上がる音がして、あたしは視線だけ上げた。マスターが仏壇に背を向けてくあと欠伸しながら「さて風呂かなー」とこぼしてワイシャツの襟をくつろげる。さっきまでの雰囲気とは打って変わってへらっとした顔で「リン、もういいよ。あとは台所お願いね」「あ、はい」だからあたしは立ち上がって場所を開けた。マスターががしがしと頭をかきながら「今日も疲れたー」とか独り言を漏らしながら着替えを取りに行く。その後姿を見つめてから、あたしは台拭きを握ってキッチンに戻った。
 マスターの両親は他界している。あたしの頭の中にはそれが情報としてすでに記憶済みだ。
 あたしはVOCALOIDという機械。初めてのことは教えてもらわなくてはわからないし、それが個人の情報となればなおのこと記憶しなくてはならない。基本的なことや知識といったものはプログラムから入手できても、マスターとなる人のことやその家族、そういったものは誰かから教えてもらわなくてはわからない。
 初めて瞼を押し上げてマスターを認識し、その人から情報を得る。それが普通の手順。だけどマスターは事前にあたしにすでに情報を入力していた。口で説明しなくてもすむように、マスターをあなただと認識したその瞬間からあなたの現状が理解できるように。マスターはそういうやり方をしたのだ。
 だからあたしは知っている。マスターのご両親がすでにこの世にいないことを。
 だから。あの仏壇に手を合わせるマスターの後姿を見ているとなんとも表現しがたい気持ちになったりする。
 あたし達VOCALOIDには親はいないし、設定しなければ兄弟だっていない。あたしは鏡音リンで鏡音レンとは双子設定か何かであったように思うけれど、それは二人揃っていればの話。あたしのマスターはあたししか購入しなかった。だからこの家でVOCALOIDはあたしだけで、あたしに双子なんていう設定はない。親という設定ももちろんない。あたしはあたしとして、鏡音リンとしてこの家に、マスターのために日々を過ごしている。
 だからあたしには親というものの存在、それが己に与える影響など、いろいろなことがわからない。ここにきてもうだいぶたったように思うのに、あたしはまだマスターのことを全然わかれていないと思う。
 かちゃん、と最後の食器を洗い終わって、コンロ周りやシンクをきれいにした。ゴム手袋もちゃんときれいに洗って干しておく。そうすれば次に洗い物をするまでに乾いているから。今日やり残していることはもうないかなと台所周辺を見て回って冷蔵庫の中を少し整理して、明日の朝ご飯の算段を頭の中ですませて。それから洗剤のにおいのする手を洗面所へいって石鹸できれいにする。洗剤はやっぱりちょっと。石鹸の方がいいにおいだし。
 洗面所、洗濯機と脱衣所をかねてるそこは、少し向こうに曇りガラスの扉のバスルームがある。
「あーリン」
「、はい?」
 扉の向こうからくぐもった声で呼ばれて少しどきっとした。こんと扉を一つ叩いたマスターが「ごめん石鹸切れた。戸棚の新しいやつくれる?」と言うから「はい」と返事をして新しい石鹸を探した。戸棚をぱかと開けて背伸びで中を手探り。これだと手にしたビニール袋を引っぱり出して、適当な種類の石鹸が適当に突っ込んであるものの中から比較的大きいのを取り出してびりと封を破った。ビニール袋を棚に押し込んでばたんと閉めて、石鹸の袋をゴミ箱にぽいしてこんこんとバスルームの扉をちょっと叩く。「マスターありました」と声をかけて、「はいちょーだい」とがちゃんと開けられた扉の向こうから出てきた手に石鹸を手渡した。少しだけ触れたその体温。あったかい。
 無駄にどきどきしながらくるっと背中を向けて、石鹸触っちゃったともう一回手洗い。それから洗面所をあとにして、そういえばあたしもお風呂ってのに自分で入らないとなと思った。VOCALOIDだからお風呂に入る必然性はないのだけど、なんとなく、やっぱりほら、ね。マスターは何にも言わないけど、一応あたしは女の子なんだし、お風呂できれいになるのも悪くはない。
「すっかり寒くなったなぁ」
「はい」
「リンは風邪引かないか。俺は毎年風邪引いてるからさー、世話かけたらごめんね」
「はい、ちゃんとお世話します」
「うん」
 マスターが笑う。それでくしゃくしゃとあたしの頭を撫でてくれる。夜の少ない時間だけど、マスターはあたしと一緒にいてくれる。お休みの日以外はあたしとそんなに多く一緒にいられないからと、マスターがあたしに時間を割いてくれる。この時間はあたしにとってとても大切だ。マスターがあたしのことを考えてくれる時間だから。
 マスターは祝日の明日もお仕事だ。あたしもそれはわかってる。だからあまり長くマスターとお話はできないけど、それでも眠る前のこのささやかな時間が、あたしは大好きだ。
「リン」
「はいマスター」
「呼んだだけ」
「…なんですかそれ」
 ぶうと頬を膨らませる。マスターが笑う。「何でもないよ」と。それから息を吐いてベッドに倒れ込んで「疲れたな」と漏らす。だからあたしは眉尻を下げて「眠ってください」と言った。マスターが目を閉じて「うん、寝るよ。寝るけどね。そういう疲れとはまた別っていうのかな」「?」「…いや。何でもない」よっこいせと起き上がったマスターがばさりと布団をめくった。だからあたしは立ち上がって枕元に行く。マスターがベッドにもぐりこんで、あたしはそのマスターに布団を被せる。
 きちんと毛布も入れてあるし今のところ風邪の心配はないはずだ。でも風邪を引きやすいというのならあたしはもうちょっとマスターの健康管理面も気を遣うべきなのかも。今までのところマスターが大きく体調を崩したことはなかったけれど、これからは寒くなる。あたしは全然へっちゃらだけど、むしろ暑さの方があたしには負担なのだけど、人は違う。あたしは平気だけどマスターがそうじゃないなら気をつけていないと。
「リン」
「はい」
「今日は、俺が寝るまでそこにいて。ってわがまま言っていい?」
「はい」
 だからベッドのふちに膝をつく。ごそごそ布団が動いてマスターがこっち向きに体勢を変えるから、あたしは首を傾げた。あたしの顔をじっと見たマスター。「おやすみリン」と言われて「おやすみなさいマスター」と返す。手が伸ばされてあたしはその手を握り返した。そんな中途半端な状態でマスターが目を閉じる。それはつまりこのまま、手を離さないで握っていたいという意思表示だろうか。
 寝るまでそこにいて。っていうわがまま。マスターはそう言ったけれど、あたしはあなたのためにあるVOCALOIDなのだ。それは別に全然わがままなんかじゃない。中途半端な姿勢でからだが固まろうと、あたしは別に困らない。あなたが眠るまでこうしている。あなたがずっとこうしていろと言うのならあたしはそうするだろう。だってあたしはあなたのためにあるのだから。
(…いい夢を見てね。マスター)
 疲れていたのだろう、マスターは少ししてすぐに眠った。だからあたしはそっとマスターの手を外して布団の方に戻しておいた。それからそっと立ち上がる。
 あたしが今からするのは家の戸締りの確認や火元の最終的な確認などだ。それに異常がなくいつも通りだったならあたしも朝のいつもの時間までスリープ状態になる。あたしは人のように夢を見ることはないけど、あたしの意識も一応の眠りにつく。マスターと同じように。
 だからマスターは用意してくれた。板の間で敷布団はからだが痛くなるかもよと言われたけどあたしは構わなかった。むしろこういう形であたしのお布団を用意してくれたマスターを嬉しく思った。適当にソファに座ってスリープ状態になっていようと思ってたから、お布団できちんと人みたいに眠ることができるのは形だけでも嬉しいものだ。

 一通り家の見回りが終わって、あたしもお布団にもぐりこむ。枕に頭を預けて目を閉じる。頭の中で稼動状態をいつもの目覚ましをオンにしながらスリープモードへと移行。
 そうしてあたしの意識は一日の終わりを迎える。
 そうやって、あたしの日々はこれからも過ぎていく。

やさしいゆめをみればいいよ
(あたしはここにいるからね)