バレンタインって行事にそんなに興味があるわけじゃなかった。興味がないって言えば嘘になるわけだけど、甘いものが好きだからチョコだって好きなわけだけど、だからもちろん興味はあるんだけど。だけどバレンタインなのに男がチョコ買うなんて、そんなの傍から見たら絶対変だって思ったから。 バレンタインは女の子の行事。女の子が好きな相手にチョコを贈る日。だから男である僕にバレンタインは関係ない。 「ほらルピおいでってば。別に変じゃないから」 「変じゃないとかそういう問題じゃないってばこれ。っていうか何、なんで僕がこんなかっこしないとならないの」 「いいじゃないかわいいよ。チョコたくさん食べたいでしょ?」 「それとこれとは全然関係ない…!」 バレンタインは女の子の行事だから。だから好きな人に気持ちを込めて物を贈るっていう本来の風習から外れてても、バレンタインはチョコの日でイコールされて世間で動いてて。だから本来の意味から外れててもバレンタインはそれとは関係ないわけで。 だから好きな人にチョコじゃなくて他のものを贈ればよかったのかもしれないけど、僕は甘いものが好きで。海外の一粒いくらのおいしいチョコが食べられるのはこの時期だけ。だけど僕は女の子じゃないからデパートの地下とかでチョコ選びなんてできない。 そう、漏らしたのが間違いだった。 じゃあ女の子のかっこして俺と行こ。そしたらチョコ選び遠慮なくできるし問題ないでしょ。いつもみたいに笑ったが何を言うかと思えばそんなことを言って、それで出かけた先で僕を試着室に押し込んでワンピースとか色々放り込んできて。ほら着て買ったから行くよとか一方的に言うんであって。買っちゃったからには着る以外僕に選択肢があるはずもなく。 (無理矢理だ、横暴だこんなの…!) ぎゅうと膝丈のワンピースの裾を握り締めて「ばか」と毒づく。だけどはいつもみたいに笑って「いいじゃないかわいいよ。あ、三越見えてきた」とマイペースにいつもみたいに僕の手を引いて歩いてるだけ。 休日で人の多い地下街でよりにもよってスカートなんてはいてるところ、知り合いに見られたら、なんて説明しよう。 頭の中で色んなことがぐるぐるしてる間に三越の地下に入った。途端にチョコの甘いにおいが分かってそろりと顔を上げる。普段なら漬物とか売ってそうな位置に今はチョコが置いてある。試食係でバイトなんだろうお姉さんも何人か立ってる。 家族連れやカップルや女の子の集団、人はたくさんいた。それに気圧されるように一歩足が下がる。だけどが僕の背中を押すからそれ以上下がれない。 「ほらルピ」 「………」 が僕の手を引いて海外から直輸入の個数限定販売のチョココーナーに歩いていく。僕を後ろにして、人混みから僕を守るために先を歩いて、僕とはぐれないためにしっかりと手を繋いで。 だから口を噤んでついていきながら「どうぞ」と横から差し出されたチョコに瞬きした。視線を上げれば試食のチョコを配るお姉さんがにこにこと笑顔を浮かべている。 「ルピ」 「、」 に促されて、恐る恐るチョコに刺さってるつまようじを取ってぱくと食べてみた。これはトリュフタイプで口の中で溶けてすぐに形がなくなって消えた。だけどおいしい。後味も悪くないし溶ける感覚も、ほんとに溶けるって感じで。 の方にも「どうぞ」とお姉さんがチョコを勧めたけどは苦笑いして「甘いの苦手なんで」と遠慮した。それから気付いたように「あ、でもやっぱ一つ」と言ってつまようじを取り上げてそれから「はい」と僕の口元に運んだ。ざわざわとうるさい雑踏の中一瞬だけ時間が止まる。 「ルピ? あーん」 「…、このばか」 小さく罵ってぱくとチョコを食べた。視界の端ではお姉さんが微笑ましいものでも見るみたいな顔してるのが見える。恥ずかしい顔が熱い。これで僕が男だって分かったら一体どんな顔するんだか。 だけどが無理矢理ワンピースなんて押しつけてきたから。大丈夫だよかわいいからとか訊いてもないこと言っていつもみたいに笑ってるから、僕は抵抗する気が失せた。一度くらいこのバレンタインの行事に参加してみたいっていうのは本音だったからだ。 甘いものが好きだった。それはも知ってた。だけどは甘いものが得意な方じゃなかった。だからバレンタインもどうしようかって悩んでた。あげても無理して食べるんならあげる意味がないと思ったから。 まさかこんなふうに逆転することになるとは思ってなかったけど。 (甘い) 僕の手を引いて歩くはいつも通り。「今度はあっち行こうか」と人が群れをなしてる中僕の手を引いて歩く後姿。はぐれないようにしっかり握られた手と地下街独特の生温い空気が顔を撫でる。 僕は本当は女の子に生まれたかったんだと思う。そうすればこの恋だって親に告げられるし自慢もできるし僕のは一番なんだよって言えた。バレンタインだって参加できた。女の子だったなら好きな人にあげるチョコを手作りにするかいいものを買うかとか悩むことだってできた。 だけど僕は男だった。生まれてしまった以上それはもう変えられない。 は僕に変わらなくていいと言う。俺はルピのことが好きなんだよと。男とか女とか関係ないんだよと。 ありのままでいいと。僕は僕のままでいいと。だから僕も変わらなかった。ただそれでも恋をしているということを誰にも告げられず隠し通すことを続けるのは少し辛かった。 本当は大好きな人がいて将来を誓い合った人がいて、この人だって思える人が僕にはちゃんといて。だからそういう心配はいらないしは僕を大事にしてるし僕だってが大好きで、そうやって言える誰かがいないことが少しさみしかった。 でもそれってやっぱり幸せな不満なんだろう。恋人がいない人は世の中たくさんいるし。だから僕の悩みは多分とても贅沢なもの。 「いっぱい買っちゃったね」 「君が調子乗るから。残金いくら」 「そーいうことは訊かないんだよルピ」 小脇に紙袋を抱えたが財布を一つ振って笑う。「いいじゃない、これだけあればルピも満足でしょ?」と言われて渋々頷く。僕がおいしいと思ったの全部を買ったの財布の中身が切実に心配だけど。 紅茶屋さんでミルクティーをすすりながらばかと胸中で罵るだけ罵る。 紅茶と一緒に頼んだアップルパイがさくさくでおいしい。がルピはきっと好きだよって頼んだだけのことはある。 そのはコーヒーだけでいつもみたいにそこにいる。僕のすぐそば僕の目の前、僕の手の届く場所に。 「おいしい?」 「…はい」 さくと一口切って差し出す。一つ瞬きしたがぱくとフォークをくわえた。「んー甘い」と漏らして苦笑いする顔に自然と頬が緩む。いやなら食べなきゃいいのに。ばかだなぁ相変わらず。 (ばかなのは僕もか) さくと一口アップルパイを切る。 こんなに僕のこと想ってくれてる人がいるのに、そりゃあ胸張って恋人だって言えればそれが一番なのかもしれないけど。だけど他人は他人で僕らは僕ら。関係ないじゃないか。比べたってしょうがない。僕が女の子だったならなんて考えたってしょうがないのと同じこと。 じゃあっては僕に女の子のかっこさせたけど、それだって自分だけだったら絶対やらなかったことだし。いい意味で背中を押してくれる人なんだ。おかげでおいしいチョコたくさん買えた。は一口でいいって言うだろうから僕がほとんど食べることになるんだろうけど、体重だけは、気にしないと。 テーブルに頬杖をついて、は満足そうな顔でこっちを見ている。 「…何?」 「ルピは甘いものと一緒がやっぱりいいなと思って」 コーヒーをすすったが腕を伸ばして僕の髪を撫でた。ざわざわうるさい雑踏の中でまた時間が止まるような一瞬を錯覚する。今この瞬間時間が止まってしまえば僕は幸せなままで終われるだろうと思える錯覚。 (…ばーか) だから僕は視線を逸らしてさくとアップルパイを口にする。あったかくて甘くてさくさくでおいしい。は僕の好みをよく知ってる。僕も君をよく知ってる。僕らはお互いをよく知ってる。 バレンタインは女の子の行事。女の子が好きな相手にチョコを贈る日。だから男である僕にバレンタインは関係ない。 だけどそうも言ってられない。が僕にチョコを買ってくれたんなら僕だってに何かあげなくちゃ。 (……すんごくベタなやつしか思いつかない。どうしよう) さくとアップルパイをまた一口切る。スカートだから足がすーすーする。雑踏が程好い感じのBGMになってて言葉を交わしてなくても居心地が悪くない。 は僕がいればそれでいいと、いつもそう言う。僕が何かしなくたってそばにいてくれるだけでいいんだと。 (だけどバレンタインだし、チョコ買ってもらっちゃったし。ここは僕だってに何か贈らないと) 「…あの」 「? おかわり?」 「違う。そうじゃなくて」 だけどいざ顔を上げてと目を合わせたら言葉がどこかにいってしまった。が不思議そうに首を傾げるから僕は視線を落としてさくとアップルパイにフォークを立てて「あの、僕は君に何あげよう」とこぼせばが瞬きしてから笑った。かたんと席を立ってテーブルに手をついて身を乗り出して、それで僕の前髪をかき上げて。ここが公衆の面前で普通に人が行き交ってるってことを無視して僕の額に口付けた。 また時間が止まったような錯覚。心臓がどくんと大きく脈打つ音が分かる。 顔が、熱い。 「いいよ。俺が勝手に買っただけでしょ。ルピはいいよ」 「、それやだ。僕も何かあげる」 「えー、じゃあルピをちょうだい?」 冗談半分っぽい言葉にまた顔が熱くなる。だけど最終的に僕があげられるものでが一番喜ぶだろうものは僕自身だ。ベタな話だけど。だから直球で言うんなら僕をあげるってことに、なるわけで。 最後の一口であるアップルパイを睨みながら「じゃああげる」とこぼす。がきょとんとした顔をしてるのが見えたけど知るもんかと思ってぱくとアップルパイを平らげた。紅茶のカップを手にしてさっきからいくつか視線が刺さってるのを感じながら琥珀色の液体をすする。 視界の端でが口元を緩めて笑った。それがあんまりにも幸せそうだったから僕はがばかだと思った。だけど逆の立場で同じことを言われたら僕だって同じような反応するんだろうと、そんなことはすぐに分かった。だから僕は何も言わないで、今はただ早くここから出てこの興味の視線から逃れたいと。そう思った。 |