会いたいのに会えないのは辛いよね、ごめんねルピ
 受話器越しのその声に泣き言を言いたくなった。言いたくなったけどそこはぐっと唇を引き結んで噛み締めて痛いって気持ちを強くして、さみしいって気持ちを追い払った。悲しいって気持ちを追い払った。そうでないと受話器の向こうにいるが困ることなんて分かっていたからだ。
「僕は、大丈夫だよ」
 絞り出した一声もどうにか絞り出したって感じが滲んでいた。受話器越しにの声が伝わるのに温もりまでは伝えてはくれない電話。だけどテレビ電話なんてしたら僕は泣いてしまうに決まってるから、だからただの電話。
『ごめんねルピ』
「うるさい。もう言うな。謝っても何も変わらないくせに」
『うん。だからごめんね』
 申し訳ない、心からそう思ってる声。ぎゅうと受話器を握り締めて「うるさい謝るな」と言う。そうでないと僕は泣いてしまいそうだ。そんなに悪いって思ってるなら今すぐ僕のそばに来てよ帰ってきてよと言ってしまいそうだった。だけど口にしてしまったらきっとは仕事を放り投げて僕のところへ来てしまう。本当に本気で。だから僕は意地でも折れずに泣かずにいるしかなかった。ただ受話器越しのの声に泣かないようにするしかなかった。縋らないようにするしかなかった。
 ずっと甘えてきたからいざ頼らないとなるとそれが案外難しくて、自分が甘えないようにと律するのに精一杯。
 が今どこのホテルにいてどういう状況で今日一日がどんな日だったのか、それさえ訊けなかった。自分が次に言う言葉が帰ってきてになってしまいそうで、だから訊けなかった。
『ルピ、明日早いから。俺もう寝るけど、大丈夫?』
 しゅるとネクタイか何かの解かれる音がして心臓が大きく一つ鳴った。今ここにいないそばにいない人の体温を求める身体で「大丈夫」と声を絞り出す。「僕ももう寝るから」と声を絞り出す。一緒にこのさみしさもかなしさも出て行ってしまえと願いながら。受話器の向こうで小さな笑い声と『ごめんねルピ。また明日ね』という声に縋りたいと思いながら。だけど困らせたくなかったから僕は唇を強く噛んだ。今はあの体温を忘れるしかないんだと自分に言い聞かせて「おやすみ」と言う。『おやすみ』と声が返ってきた。そうして静かにぷつという音と一緒に通話が途切れた。
 ツー、ツー。その音ばかりを流し続ける受話器のボタンをのろのろした手つきで切った。ぷつと音が途切れる。そうして受話器は沈黙する。
 さっきまでと繋がっていたこれはただの機械になってしまった。携帯だと電波悪いからってわざわざ受話器で会話したのにこの後味の悪さ。僕は確かにと繋がれるこの瞬間を何より望んでいたはずなのに。
(遠くになんて…僕のいないところになんて。僕の手の届かないところになんて。行かないでよ)
 膝から床に崩れ落ちてごつと盛大に膝頭をぶつけた。痛い。だけど痛みよりも押さえ込んでいたかなしみやさみしさや負の感情が僕の胸を埋めて痛みをどこかに放り投げた。ぽろぽろと涙がこぼれて床に落ちて点々とした小さな雫を残す。
 分かってる。仕事だもの。仕方ない。そう思うしかない。はきちんと僕と一緒にいられるようにって考えて仕事を選んで先を見ていたはずだ。だけど世界的な不況が日本を襲った。だから僕らだけではなく誰もがこれからを見て改めて考えなくてはならなくなった。自分の行く道や未来やその先、不安の種や保証のできる安心を。
 は、不安の種を取り除きつつ保証のできる安心を求めた。そうでないと俺がいられないと言った。お前と一緒に生きるためなら何だってするよとは笑った。僕はただのためにご飯を作ってのために洗濯物や洗い物をしてのために日々を過ごす。は僕のために仕事をして会社から帰ってくる。そうやってささやかだけれど幸せな日々が続いていたのに、世界は僕らを裏切った。約束されていた明日なんてないって分かってたけど、だからってこんな仕打ちはと僕は世界を怨んで呪った。
 だけどそれでも生きていた。なら生きていかないといけない。この先もと一緒にいたいと願うなら生きていないといけない。どんな時代やどんな環境が訪れてどれだけ苦痛に苛まれても生きていかないといけない。そうして乗り越えないといけない。そうやってまたと手を取り合って生きていかなくては。
 繋ぐ手がなければ、僕は一人では生きられない。とてもじゃないけど僕は君のいない世界では。君がいないと僕は。
(…家事。まだだ)
 涙が枯れた頃にぼんやりとそう思って顔を上げた。いつも通りならとっくに片付いているはずのキッチンはまだ料理のあとを残したままだし今日は掃除機だってかけてない。洗濯物は僕一人分だからそんなにない。お風呂を入れないと。でも面倒だからもうシャワーでもいいかな。
 よろよろと立ち上がって握り締めたままだった受話器をがちゃんともとの位置に戻した。かちと針が一つ進む音がする。顔を上げればもう十二時を回っていた。僕はどれくらいの間泣いていたんだろう。
 明日、日付的には今日だけど、また電話がある。の声が聞けるのは嬉しいし安心するし心があたたかくなる。だけど同時に胸がきゅうと苦しくなって切なくなる。この手にできない体温に狂おしいほどに恋焦がれる。僕はがいないと生きていけない。
 そして今そのがいなくて。僕が僕を保てないのを感じる。
(お風呂…めんどくさいならせめてシャワー。それから洗い物も…)
 多少ふらつきながらキッチンの前に立って後片付けを始めた。
 俺手伝おうかという声はない。だからいいよとも答えない。代わりにお風呂入れてよとも言えない。僕はここに一人きりだ。
 だって今一人きり。知らない場所に一人でいる。僕よりずっと不安でずっと大変なはずなのに弱音は吐かなかった。嫌だなぁとは言っていたけどさみしいとかかなしいとかは言わなかった。じゃあはさみしくもかなしくもないかと言えばそうじゃない。そんなこと僕だって分かってる。分かってるのに。
(お互い様、なのに…世界はどうして僕らに優しくしてくれないんだろう)
 スポンジに洗剤で洗い物をしていた手からコップが滑り落ちてごとんと音を立てた。のろのろと手を伸ばしてそれを拾い上げてお湯で泡を洗い流す。いつもの倍はかかってる。いつもの半分の量なのに。
「…しっかりしろよ僕。男だろ」
 情けない。不甲斐ない。だけど言い聞かせた言葉に説得力はゼロ。だって僕はいつも抱かれる側だし、それを嫌だとも思ってないし。僕は男よりも女に生まれていたかった。そうしたら何の支障もなくと一緒にいられたのに。
 今だって一緒だけど。だけど、
(やめろ考えるな。考えてもしょうがないんだから)
 思考を打ち切って洗い物を切り上げ、シャワーを浴びることにした。洗剤でべたつき感のある手を石鹸できれいに洗って顔を上げた先にある鏡には、何とも情けない顔をした自分が立っている。
 鏡は嘘をつかない。正直だ。そう思いながら首筋に手をやればまだ赤い痕が見えた。が仕事に出て行く前に僕につけた痕。甘い痛み。思い出すとまたさみしくなりそうで首を振って服を脱いで事務的にシャワーを浴びた。誘う相手は誰もいない、だから僕は自分のことだけを考えればいい。
 自分のことだけを。
「……、どうやって?」
 ざああと熱いお湯を浴びながらこぼした言葉に涙が滲んだ。どこを取っても君がいてどこを見ても君がいる。高いところに手が届かない僕の代わりに手を伸ばしたのは。はいどうぞとそのお皿を手渡してくれたのは君。白いね相変わらずと僕の肌を舐めるのは君だけ。石鹸の味がすると僕の首筋を甘く噛むのは君だけ。
 どこを取っても君がいてどこを見ても君がいて、君を思い出す。こんな僕であと一ヶ月を生き抜く? 世界は随分と残酷になったものだ。今の僕にそんなことができるなんて到底思えない。
 一ヶ月の単身赴任。長すぎる君の不在に、僕は一体どうしたら打ち勝てるだろう。君のいない空白の時間をどうやって埋めていけばいい?

 ざああとシャワーの音が耳朶を打つ。当たり前だけど、応える声はなかった。
 今ここにはいない人を思って僕は泣いた。シャワーの音に紛らせて涙の声を濁らせて、ただ泣いた。

 その指が僕を見放す前に、
どうか
(どうか、)