たとえば一ヶ月、水も食料も持たされずに無人島に放り込まれたとしよう。そんな話たとえばで言われたって混乱するしありえないだろって思うだろう。俺だって同じだ。そんなこと考えたってしょうがないと思うし一番にはありえないだろって思う。
 だけど現実で、紛れもない日常で、それに等しいものを突きつけられた。
 一ヶ月の単身赴任。世界的不況が訪れ日本も疲弊し疲労しどこの支店が閉鎖どこの会社が倒産といい情報なんてすこぶる耳にしなくなった、そんな中での単身赴任の命。
 今の会社が特別好きなわけじゃなかった。ただルピと俺とが食べていけるだけの分を稼げるところであまり無理をしなくてもよさそうなところ、俺でも通える場所であること、条件を限定していけば通えるだろうところは限られていた。だから今の会社にいる。電車一本で行けて、帰りはいつも電車に跳び乗って今から帰るよメールをする。ルピからはじゃあご飯作るねと返事が返ってくる。そうすればあたたかい食事とおかえりというルピの笑顔を見られるのだ。それだけで俺は一日の仕事のことなんてすっぱり割り切って忘れてしまってルピのことを抱き締める。ただいまルピと黒い髪に顔を埋める。ああ幸せだと思う。二人の空間と二人の時間と二人での食事。二人での後片付け。どれを取っても至福で心が満たされた。そういう日々が続いていた。
 だけど単身赴任の命が出た。今の会社を捨てて他の会社に就職できるか否かなんて訊くまでもなかった。行くしかなかったのだ。一ヶ月、水も食料も持たされずに無人島に放り込まれる。一ヶ月ルピの食事が食べられず一ヶ月ルピに触れられず一ヶ月ルピと一緒にいられない。それは即ち俺にとっては水も食料もなしに無人島に放り込まれることと同義だった。
 朝。慣れない部屋の慣れない目覚ましの音で目を覚ます。ぼんやりとした意識の中視線が彷徨ってルピを探した。ぴぴぴぴとうるさい目覚ましを俺の代わりにばちんと止める手はない。起きて朝だよと耳朶を打つ声もない。
 のろのろと起き上がってばしんと目覚ましを叩いて止めた。うるさい音が止んでしんと静まり返った慣れない部屋で生活し始めてそろそろどれくらいだ。俺はどのくらいルピの食事を食べてなくてどのくらいルピに触れてなくてどのくらいルピと一緒に、
(やめよう。飯が余計にまずくなる)
 ルピのものじゃないご飯。買い置きしておいたスーパーの普通のお弁当。それの蓋を開けながらいつも出来たてだったルピの食事を思った。朝は俺が起きる前から起きて食事の用意とお弁当の用意をしてくれて、夜は俺が今から帰るよメールをすれば到着する頃にはきちんとご飯ができてた。いつでもあたたかいものが食べられた。仕事が休みな日は一緒に出かけたりのんびり一日を過ごしてみたり、今となってはそれも何だか遠い記憶だ。まるであの日々が天国で過ごした日々のように遠い。
「…おいしくない」
 割った割り箸が左右均等にならずに片寄った。微妙な形をした割り箸で冷めたご飯をつついて息を吐く。
 さっぱり食欲がわかない。だけど食べないともたない。今日だって仕事なんだ、ようやく憶え始めたんだからここから挽回していかないと後々上司にも何かと言われるだろう。それなりに使える奴、あるいは役には立つ奴と思われないとクビを切られる。それだけは避けないと。
 ほぼ丸呑みにしたお弁当を片付けて、何日か着続けてるワイシャツに袖を通してそろそろ洗濯かなぁと思いながら襟を引っぱった。
 俺の首にネクタイを回してくれる腕はない。自分でやると微妙に歪んでしまうそれを直してくれる手もない。いつまでたっても下手くそだね、そうやって笑う声もない。
(ルピ)
 窓際まで歩いていってしゃっとカーテンを開けた。眩しい朝の光に目を細めながら今日一日を思う。今日一日の仕事とそのあと、帰ってきてからのルピとの電話を。唯一一日で繋がっていられる少しの時間を。
(お前も苦しいんだろうね。俺も苦しいよ)
 朝陽に背を向けてまだ慣れない部屋を出た。いってらっしゃいと送ってくれる声はない。振り返ってもばたんと閉まる扉があるだけで手を振ってくれる誰かの姿はない。
 ルピと。知らず唇がその名前をこぼす。
(早く、帰りたい)
 たとえば一ヶ月、水も食料も持たされずに無人島に放り込まれたとしよう。
 よほど生きることに貪欲か、それともそういったアウトドアに精通した誰かでなくてはそんなこと到底不可能だ。よく無人島で一ヶ月ゼロ円生活なんて番組をやってることがあるけど、あれだって様々なものが揃った時点でのゼロ円生活。本当のゼロじゃない。そういう意味では俺も本当のゼロではないんだろうけど、それでも気持ちはゼロに近い。
 ここにはルピがいないんだから。この子のために俺は生きてる、そう思える子がここにはいないんだから。俺は自分のためだけに生きていられるような奴じゃない。かわいい俺の子が、守らなきゃならない俺の子がいてこそ。ルピがいてこそ俺は。
 受話器の向こうのルピはいつもより控えめでいつもより無口だ。俺はその理由も分かってる。
(同じだよ。下手なこと喋ったらさみしくてかなしくてそれを誤魔化せなくなる。俺だって同じだ。だから大したことも言えてない)
 今日仕事がどうだったとか。ルピのご飯が恋しいとかルピの身体に触れたいとか。思うことはあっても口にはしない。言ってしまったらきっとルピが我慢してるんだろうことを俺から崩すことになる。
(ちゃんと食べてる? ちゃんと寝てる? ちゃんと生活できてるかな。俺がこんなだから心配だな)
 そっちはどうしてるのとか。もう半分過ぎたからねとか。恐ろしいほどに緩やかにしか過ぎていかない一日一日がひどくもどかしく、それでも過ぎていく時間と戦いながら、闘いながら、どうにか仕事を終えた。
 今日もまた一日が終わった。そのことにほっとしながらまだ慣れない部屋に帰って夕飯のカップ麺の蓋をびりびりと開ける。値引きされていた今日が賞味期限のお弁当は明日の朝ご飯。
 こっちで買ったポットでお湯をわかしながらこれを食べたらすぐにロビーの公衆電話んところへ行こうと考える。携帯ではここは電波の受信がよくないから。きちんとルピの声が聞きたいから受話器を取りに下へ行かないと。これを食べたらすぐに。
 だからまた胃につっこむみたいにラーメンを食べてスープも全部飲んで空をゴミ箱に捨てて、財布をポケットに突っ込んで部屋を出た。ばたんという慣れない音とがちゃんという慣れない大きな鍵の音。ポケットに鍵を突っ込んでエレベータへと急ぎながらルピにメールをする。『今から電話するね』と一言。
 ポーンと音を立てて到着と告げるエレベータに乗り込んだ頃にメールが返ってきた。『分かった、待ってる』と一言。
(ルピ)
 今過ごしている日常での唯一の癒しはルピの声を聞ける時間だった。せいぜい毎日五分か十分が限界の電話。だけどそれでもルピと通じられている時間。
 ポーンと音を立てて開いた扉の向こうに足を踏み出し公衆電話へと急ぐ。携帯で通話することが主流になってから数が減ってきた公衆電話、このホテルには一つしかないそれはきちんと扉があって箱の中にあった。会話は漏れたりしない。その透明な扉を押し開けてがちゃんと受話器を取ってカードを差し込んで自分の家の番号を押した。コール音。ルピは2コール目で電話に出た。
?』
「ルピ」
 声を聞いて、まず一番にほっとして脱力する。今日一日が終わった。そう思って脱力する。「終わったよ」と言えば『おつかれさま』と返ってきた。いつもの会話だ。ここから先がいつも不規則だけど、でもそろそろ気になってることを訊かないと。

「ルピ、ちゃんとご飯食べてる?」
『少しは…君の方だって、ちゃんと食べてるの?』
「俺も少しは。って、少しって何、ルピあんまり食べてないの?」
『…めんどくさくて。作るの。あんまりかもしれない』
「めんどくさいって、俺といるときはあんなに」

 そこまで言ってしまったと思った。受話器の向こうでルピが傷ついたのが手に取るように分かったからだ。そういう息の呑み方だった。『それは君が、いるから。君のためだから』という受話器越しの声がじわじわ滲んでいく。
『僕が、自分のためだけにご飯、作るって思ってた?』
「それは…」
『君が、僕のためにって言って働いてるのと、一緒だよ。僕だって君のためだから全部できるんだ。君のためだから…っ。君がいないなら全部、できないよ。できない』
 ひっくとしゃくり上げる声と嗚咽。硬く冷たい受話器を壊れるくらいに握り締めて「ごめんルピ。泣かせるつもりじゃなかったんだ」と言う。受話器の向こうでしゃくり上げる声が胸に痛い。心臓に痛い。俺は今泣いているルピを抱き締めてやることさえできやしない。
「ごめんねルピ。もう少しだから」
『…あと。一週間』
「うん。あと一週間だけだから。もう少しだから。そうしたら有休待ってて一緒にいられるから。ね」
『…うん』
 ピーとカードが残り時間を告げた。しまったカードの買い足し忘れてたと今更なことに気付いて財布から硬貨を取り出そうと探ってる間に『いいよ。今日はもういいよ。僕なら大丈夫だから』と声がした。カードの音はルピの方にも伝わったらしい。
 多分今は目を擦ってる。赤く腫らした目元でそれでもルピはきっと無理矢理笑ってる。『君も、明日もあるんでしょ。早く寝なよ』と言われて唇を噛み締める。
 こんなにも早く一週間が過ぎ去ればいいと願ったことはない。こんなにも過ぎる一日に悪意を感じたことはない。俺とルピを引き裂く世界が、嫌いだと思ったことはない。
 俺は何も言えない。大したことは何も。ただ仕事で下手をせず上手にやって毎日を過ごしていくだけ。それだけ。
「…じゃあおやすみ。ルピ」
『うん。おやすみ』
「愛してるから」
 まるで付け足してるみたいだ。そう思ったけど何か言わずにはいられなかった。ルピが少しだけ笑って『僕だって愛してるよ』と声が返ってきた。そうしてピーと音が割り込んで強制的にぶつと通話が途切れた。残ったのはピーと音を出して吐き出された空っぽのカードと、さっきまで確かにルピと繋がっていた硬く冷たい受話器だけ。
(…俺の馬鹿)
 無神経すぎた。ごつとガラスの壁に額をぶつけて吐息する。ルピを泣かせてしまった。気をつけないといけないって思ってたのに。
(俺のためだから…俺もお前のためだから頑張れる。同じだ。自分のためだけには頑張れない)
 電車に跳び乗って今から帰るよとメールする。じゃあご飯作るねとメールが返ってくる。マンションの狭いエレベータに乗り込んで扉の向こうに降り立って足早にいくつか扉を通り過ぎて自分の部屋の前に立つ。防犯のために鍵はいつもかけるようにって言ってあるからポケットから鍵を取り出してがちゃんと扉を開ける。そうするとこっちに駆け寄ってきたエプロン姿のルピがおかえりと出迎えてくれる。俺は腕を伸ばしてルピを抱き締めてただいまと返す。
 ささやかだけれど幸せな毎日。ただただ続くことを願う日常。ただただお前のためだけに頑張ろうと思える日々。
(…ルピ)
 きゅ、と持っているシャーペンで手帳に×印をつける。
 朝、昨日買った賞味期限の切れたお弁当を片付けて、今日の日付に×をつけた手帳を見つめた。○のしてある帰還日まではもう少しだ。
(あと一週間切ったよ。ルピ)
 同じようにしてカレンダーに×印をつけてるだろうか。それとも携帯を睨んでるのかな。俺の帰ってくる日付が早く訪れることをただひたすらに願いながら。俺もその日が来ることを心底願ってる。早くルピをこの腕に抱き締めたいと強く思ってる。
(もうちょっとだからね。ルピ)
 しゃっとカーテンを引いて部屋に朝陽を取り込む。まだ慣れない部屋。多分慣れないまま出ていくことになるだろう部屋を今日も一人であとにする。見送る声はない。見送る姿はない。それはあと一週間後に見ることができる愛しい存在。
 エレベーターを呼ぶために矢印の下向きのボタンに触れながら「お前のためだから」とこぼす。
 他には誰もいないその広い廊下で。エレベータがポーンと音を立てて到着を告げるまで、俺はただルピのことを思った。記憶している限りのあの子のことを思った。

君が縋ってくれなきゃ
生きられない
(ルピ、お前がいるから、俺は生きていけるんだ)