退屈だった。生きていることが

「でっさ、もうちょー馬鹿らしいわけ! あいつほんとばっかだよなー、女引っかけるの下手くそなんだもん」
「ふーん…」
 かつんこつんといつものように歩く。駅の改札を抜けて鞄を肩にかけ直し、隣でさっきからぎゃあぎゃあうるさいそいつを僕は呆れた目で見やる。女女ってさっきから連呼してる辺りで君も同じくらいばかっぽいよ、と胸のうちだけで思いながらいつものように歩き出す。ああ全く、くだらない。
「なールピは誰か釣らないのかよ」
 それで横から無遠慮な言葉。じろりとそいつを睨みつけて「うるさいよ。僕のことなんてどうでもいいだろ」と返した。そっぽを向いて、ポケットで震えた携帯を取り出してぱちんとフリップを弾く。黒い筐体。本当なら薄いピンクとかがよかったんだけど、高校生になってまで男でピンクはやっぱりちょっとおかしいって思うし。
 好きなんだけど。それだけじゃあ、この世界じゃ上手く生きられないから。
(…ドーナツね。そういえば今百円だっけ)
 母親からのメールだった。だから顔を上げて「ごめん、僕ドーナツ買って帰らないとならないから」ちょうどいいやと思ってそう言ってミスドの方へ踏み出す。そいつがぶんぶんばかっぽく手を振って「おー、お前もマザコンなのな。じゃーなー!」とか無遠慮なことを言うからじろりと睨んで「うっさい」と返してそっぽを向いた。ああなんであんなばかみたいなのと高校一緒になっちゃったんだろう、っていうか一緒の駅からなんだろう、とか誰に言うでもなくぼやく。
 だけどあのばかっぽさにどうしてか少し、安心している自分がいる。
(口を開けば女女ってさ。ほんとばかなのにな)
 女女って、あいつはそればっか。それなのにそんなどうでもいい話に付き合ってる僕も大概ばかだけど。
 女女、って。別に女なんて、と一人思いながらミスドの扉の前に立った。がーと両開きの自動ドアが開いて店の中に入る。
 週末であるのと百円の広告が入ってるからだろう、少し並んでいた。その列に加わって、母親にメールを返信して並んでるから少しかかるよと打った。送信してからぱたんとフリップを閉じて顔を上げて。誰かの服が目に入って。別に並んでるんだから目の前に人がいるのは当たり前のはずなのに。
「、」
 ぐい、と目の前の人の腕を、引いていた。無意識に。「え」とこぼした自分の声と「ん?」と誰か知らない人がこっちを振り返るのは同時。
 黒い髪で、ちょっと長めにしているそれを暑いのか後ろでくくっているその、知らない誰か。
 それなのにどくどくと心臓が脈打っているのが分かる。
「君、誰?」
 そう、訊いていた。気付いたら。掴んだその人の腕が離せない。触れている温度が熱い。熱い。
 その人が首を捻って「え? えーと、俺も君が誰か知らないんだけど…?」と言うから、そりゃそうだ初対面だもんと思って何ばかしてるんだろう僕と思って、それなのに手が、その人を離さなかった。掴んだまま、離せなかった。

『ルーピ』

 どうしてか幻聴まで聞こえた。その人の声だ。目の前の人の声。でもその人は不思議そうに首を捻ってるだけで僕の名前なんて呼んでない。僕の名前だって知らないはずだ、だってそう言ったじゃないか。それなのにその人の笑顔が、その顔に重なる。僕を呼ぶ声と一緒に。

『たとえ死んでも、生まれ変わって、きっとまた一緒にいられるよ』

 ざ、と光景が過ぎる。僕は目を見開いた。その人はただ首を傾けてこっちを見ている。
 白を基調とした黒いラインの入った服が、今は真っ赤に染まっていた。僕の血じゃなかった。僕を庇うようにして死神の攻撃を受けた、愛しい人の血だった。
 いやだっ、
 そう叫ぶ自分の声。は笑った。庇ったせいで右肩から左の脇腹までをすっぱり斬られてさっきから血が止まらない。止血しようとその傷口に押しつけている長くて余っている服の袖。それさえも血を吸い上げてじわじわと赤く侵食されていく。
 だいじょうぶ、ルピ、だいじょうぶ。俺は、平気だよ
 何が大丈夫なものか。こんな傷受けたら死ぬに決まってるじゃないか。斬られたんだ。僕なんか庇うから。僕なんか、庇うから。
 だけどはやっぱり笑う。ごほと咳き込んで口の端から血泡を吹かせて、それでもやっぱり笑う。ねぇそういえば僕は、君の怒った顔を見たこと、なかったよ。
 だいじょうぶだよルピ
 ず、と血で汚れた掌が僕の頬を撫でる。だからその手をぎゅっと握った。が笑う。僕がそうとしか知らないように優しく笑う。
 たとえ死んでも、生まれ変わって、きっとまた一緒にいられるよ
 そんな、根拠のない言葉。僕らは死んだらそれきりでしょう。人間じゃないんだよと思った。人間だったら尸魂界に送られてまた人間になれたかもしれない。だけど僕らは人間じゃない。破面なんだ。生まれ変われる、はずもない。次の世界なんて、待ってない。
 だけどがそう言って笑うから。笑うから。だから僕は、そんな一抹の可能性にさえなりもしない言葉に、笑うしかなくなった。
 周りを死神に囲まれているのが分かる。僕の蔦はもう半分斬られて落ちて再生が追いつかなくなっている。もう終わりだ。もう。
 だから、が笑うなら、僕だって笑おうと思った。そんなこと奇跡でも起こらない限りありえないよ。ねぇ本当は分かってるんでしょう、そんなの慰めにもならないって。そう思いながら、ごほと咳き込んで苦しそうにしながらも笑うを抱き締めて、僕は言った。約束だよと。は笑った。うん約束、と。
 生まれ変わってもきっとまた、一緒にいられるよと。
「、」
 ぼろと涙がこぼれ落ちた。その人がぎょっとしたように「え、わ、ちょっとどうしたの」と戸惑った顔で、それでも僕に手を伸ばして涙を拭った。その温もりはよく知っているものだった。本当によく知っているものだった。僕はこの温もりに何度だって抱かれてきたのだから。
 何度だって唇を、重ねてきたのだから。

 しゃくり上げながらその名を呼ぶ。その人が驚いたように瞬きして「俺の、名前。君、なんで」と呟くから、僕は泣きながら首を傾けて笑った。
(約束は果たされたね。だけど君は僕のことを憶えてないんだね。僕はこんなにも君のこと憶えてるのに)
 奇跡は起こった。僕らは再び出会った。鬱々としていた日々の理由は、なんてことはない、あるべき人がそばにいなかったせい。
 困った顔をしたその人が、「ちょっと出よう」と言って僕の手を引いてミスドをあとにした。その手に引かれて歩くこと、の体温が僕の手を握っていることがとても懐かしい感覚で、嬉しいのに、悲しかった。
 だって君は僕を知らない。
「えーと、大丈夫? なんか俺が泣かせた、んだよね」
 駅の片隅でがそう言って困った顔をして僕を見る。僕は薄く笑った。本当に憶えてないんだね僕のことを。僕はこんなにも君のことを憶えているのに。正確には思い出したのかもしれないけど、愛して愛してやまないのに。それだけは生まれる前も後も変わらないのに。
 だけど、手は、まだ繋がれたままだ。
「僕、は、ルピ」
「え?」
「名前。ルピだよ」
 が一つ二つと瞬きして、「ルピ」と僕の名前を呼んだ。それに僕は笑った。もう一度、君に名前を呼んでもらえた。それだけでもきっととても喜ばしいこと。
 が「ルピ」とこぼして、それから困ったように笑った。よくそんな顔をしていた、君は。誰かを斬ることが嫌だったから。
「なんか、懐かしい名前」
「、」
 それでそう言われた。途端に自分の笑顔が崩れるのが分かる。そんな顔を隠すためにもその胸にぼすと顔を埋めた。「え、ルピ?」と戸惑った声が聞こえる。僕も男、も男。奇妙な光景かもしれない、駅の片隅でも。だけどは僕を気持ち悪がったり引き剥がしたりはしなかった。ただゆっくり包み込むように僕の背中を抱いて「なんだろう、すごく懐かしい」とこぼすから。僕は余計に泣きたくなった。
(懐かしいって言うくらいなら、憶えていてよ。僕のこと。あんなに愛し合ったのに)
 奇跡は起こった。次の世界があるはずもなかった僕ら。ただ死んで終わるだけだったはずの僕ら。消えるだけだったはずの僕ら。それなのにここに今生きている。奇跡だ。は約束と笑った。生まれ変わってもきっとまた、と笑った。

 慣れた温度、知っている掌。僕の頭を撫でたその手に覚えがありすぎて、僕はただ泣いた。は困ったような顔をしていたけど、僕を引き離すことはしなかった。その優しさはやっぱりそのもので、たとえば僕じゃないような奴に一緒のことをされてもきっと同じように引き離さず受け止めてくれるんだろうと思った。
 ああ全く変わってない。僕は今まで何をしていたのだろう。適当に生きていた。だって生きていることがつまらなかったから。どうしてつまらなかったのか、今ならよく分かる。だって君がいなかったから。刀がなかったせいじゃない。ありふれた日々は確かに退屈ではあったけど、ただ、君がいなかったから。一番欠けていたのはそれだったから。

「僕は、」
「うん」
「僕は、君を待ってた」
「…うん?」
「好きだった。今も好きだよ」
「…ちょっと待って、え、俺が?」
「君が。あんなに愛し合ったのに、憶えてないなんてひどい」
「え、えーと…なんかごめんね?」
「やだ。絶対許さない」
「えー…じゃあ俺、どうしたらいいかな」

 顔を上げる。は相変わらず困った顔をしていたけど、思えばついさっき会った奴にしかも男に好きだって言われたのに顔色一つ変えないで、君は本当に、あの頃と変わってない。
 それが嬉しいのに悲しかった。
 ねぇもしも本当に約束を果たしてくれるのなら、また僕と一緒にいてよ
「愛してよ。僕のこと」
 だからまた、一緒にいようよ。二人で。生まれ変わった世界で。君が嫌ってた刀のない世界で。平和ボケしてる世界で、二人で。
 は困った顔をしていたけど、僕に顔を近づけて唇を重ねた。目を見開く。ついさっき出会ったばっかりでしょう君にとって僕は。それなのに。
「よく分かんないけど。これはあれかな、運命かな」
 僕の髪を撫でて、が笑う。まだ困ってるみたいな顔をしてる。それなのに笑ってる。
「一緒にいようか。ルピ」
「…ぅ、」
 ぼろ、と涙がこぼれた。いつかのの声が甦る。たとえ死んでも、生まれ変わって、きっとまた一緒にいられるよと。
(本当に? 本当に一緒にいてくれる? 僕には君しか)
 ぎゅっと目を瞑る。僕は今高校生で、はどうかな私服だからよく分かんないけどとにかく二人とも人間で、次がなかったはずなのに人間に生まれ変われて、君は僕を憶えてないけどでも僕は君を憶えてて。
 悲しい。君が僕を知らないことが。僕は君を知っているのに。
 だけど、奇跡が、約束が果たされたことが、一番何より嬉しいことのはず。
(一緒に。二人で。二人だけで。この先だってきっとずっと)
 ぎゅう、との服を握り締める。「君が好きなんだ」「うん、聞いた」「愛してるんだよ」「うん、聞いた」「君は、」そこまで口にできたけど、でもこの先は自信がなかった。君は僕を愛してくれる? なんて、初対面に言う台詞じゃない。ああでもさっき似たようなことを言わなかったろうか? 頭が沸騰してる。君に会えたせいで。
 そんな僕の頭をの手が撫でるから、視線だけ上げてその顔を見た。笑った顔。あの頃と何も変わらない。
「うん。多分ね、好きだよ。ルピはかわいいね」
 いつだって何度だってルピかわいい、と言って僕に頬ずりした、いつかの君を思い出す。だから唇を噛み締めて、僕はその胸に顔を埋めた。強く固く目を閉じる。

(ああひどいよ僕のこと憶えていないなんて君から生まれ変わったらなんて話言い出したくせにひどいよひどいひどいでも僕はそれでも君のことがただ、ただ、愛しいんだ)

(僕は君に狂ってる)