そこでは僕は手に少し重たい何かを持っていて、目の前には誰かがいて、知らないその誰かに正面から突っ込んだ僕は振り返ったその人とどんとぶつかった。 手にしているものが何かに、その人が誰なのかに、そんなことに今更気付く。 手にしていたのは一振りのナイフ。 ぶつかったのは、いつかに見た誰か。 やってはいけないことを、やってしまった。 ぬるりとした血でナイフが滑り落ちカランと音を立てた。僕が刺した人は苦しそうに身体をくの字に折ってごほと咳き込む。その服が腹部を中心にじわじわ赤く染まっていくのが見える。見える。 かたかたと手が震えた。ざりと後退る。その人が僕を見た。苦しそうな顔で、刺したんだから苦しくて当たり前で僕を罵倒罵声するのが普通なのに、その人は苦しそうな顔をしながらも笑った。 わけも分からず、逃げるように駆け出した。いや僕は逃げたのだ。わけが分からなかった。僕は何をしてる? どうしてナイフなんて持ってた? それ以前にどうして僕はあの人を刺してしまった? ルピ、と苦しそうな声が僕を呼ぶのが聞こえて、ばしゃんと水溜りを蹴り飛ばした足が止まる。 は、は、と肩で息をしながら振り返った。その人がいたのは教会だった。小さな、どこにでもありそうな教会だった。雨が降っていた。冷たい。冷たく僕を凋落する。無慈悲に。 かたかたとまだ震えている手をかざす。汚れた掌。雨で流れ落ちる赤。赤。赤。赤い色。 (僕は) 僕は、なんてことを、してしまったんだろう。 「っ!」 ばちと目を開けた。開けたら、こっちを覗き込む目と目が合った。息が詰まる。夢で僕が刺したのはその人だったのだ。 「大丈夫ルピ。だいぶうなされてたけど」 「…、」 起き上がって、ベッドに手をついてこっちを見ていたその人の手を引っぱって「お、っと何?」困惑の声を上げるの腹部に手をやった。穴が開いてないか確かめるためにTシャツをめくった。程よく筋肉のついた身体があるだけで、穴なんてなかった。 ほぅと息を吐く。安堵した。心の底から。 「ルピ?」 「…こわい、夢を見たんだ」 「こわい夢。そっか、こわかったの」 僕の頭を緩く抱き寄せたが「だいじょーぶ大丈夫、俺が守ってあげるよ」と言うから。僕は薄く笑った。他ならないそんな君を僕は刺してしまったんだよ。そんなこと、言えるわけもなかった。 もどかしさ故なのだろうと思った。 どうして僕を忘れてしまったの。どうして僕を思い出してくれないの。もう僕らが再会してからだいぶ経つでしょう、何回だってベッドに入ったじゃない、全部あの頃と一緒なのにどうして君は僕のことを憶えてないの。 傷つける言葉ならいくらだってある。だけどそんなこと言ってものためにはならない。 だから僕は、僕を抱く温もりに目を閉じる。生まれ変われただけでも奇跡。ねぇそうでしょう。もう一度巡り会えただけでも奇跡。ねぇそうでしょう。 だけど1を知れば10が欲しくなり、10が満たされれば100を求める。そんな愚かな思考のせいで僕はたまにを困らせる。どうにもならないでしょう。あのときのことどうして憶えていないの、なんて言ってもしょうがないでしょう。 (ねぇ、未だに僕のこと君って言うよね。前はお前って言ってたよ。ねぇ、どうして思い出してくれないの) 「怒ってるね、ルピ」 「、」 顔を上げる。が困った顔をして僕の髪を撫でて額に口付けた。 ああまたの家に泊まってしまった。そろそろ家族への言い訳が苦しいところだ。でもこの体温と少しでも離れることが僕にはとても耐え難い。が僕を憶えていないことも手伝って、誰かに取られてしまうんじゃないか、君がどこかへ行ってしまうんじゃないかと僕は気が気でない。 がこつと僕と額をくっつけた。「ごめんね、いつまでも君のこと思い出せなくて」と、本当に申し訳なさそうな顔をしてそう言うから。僕はぎゅっと目を瞑った。 (お前って、どうして言ってくれないの。何か遠慮してるの。それとも単純に思い出せないから、他の人に対しての二人称がそれなの? あの頃とは違って?) 現実のは仕事をしていた。分かってる。僕は退屈に生きてきた。だけどは僕を求めて生きてきた。分かってる。話はたくさんしたもの、の言葉は全部暗記してるくらいだ。が求めてきたのは僕だったって結論を出してくれたんだから僕はそれで満足なのに。あの頃みたいな刀のない世界で君が笑っていられるなら僕にとってそれが最善。 いつからだろう。僕が僕の幸せを優先したいなんて傲慢なことを考えるようになったのは。の幸せよりも自分の幸せを優先したいと思うようになったのは。 「怒って、ない」 「そう? だって口数少ないじゃない」 「それは、こわい夢を、見たからで」 「俺がいるよ。夢は夢だよ。もうこわくないでしょう?」 首を傾げる。僕は目を開けた。この手は血色に染まってなんてない。この身体で僕は刀を握ったことなんてない。 だけどもしも僕がこのまま僕のことを優先させていってしまったら、夢みたいに、僕のものにならない君なんていらないって、なっちゃうのかも。 そう思ったら怖かった。がいなくなった世界でどう息をすればいい? きっと僕は息の仕方さえ忘れるに違いない。瞬きなんてもっての他。僕はきっと枯れ果てる。 ぎゅっとの服を握って「キスして」と言った。が一つ瞬きしてから目を閉じて僕に口付けてくれる。躊躇いなんてなく。僕の唇を生温い温度の舌がなぞる。あの頃と変わらない温度。だけどどうしてかな、どうして僕は満足できないんだろう。 「ねぇ、したい」 「え? 朝から?」 「何にもないんでしょ、今日」 「んー、まぁそうなんだけど。ルピはいいの?」 「…夢を忘れたいんだ」 呟くと、が「そっか」とこぼしてベッドに上がった。どうせ僕は上だけだったから布団の中で目を閉じる。 間違ってる。間違ってる。分かってる。僕は間違ってる。 愛してる人の幸せが、僕の幸せじゃないか。は僕のこと好きって言ってくれるじゃないか。求めてくれるじゃないか。ちゃんとルピって呼んでくれるじゃないか。それなのに、それなのに。 ああなんだろう、すごく泣きたい。 疼く身体もその掌も体温もあの頃と何も変わらないのに。ああどうしてだろう、すごく泣きたい。泣きたいんだ。 (ねぇ、君はいつ僕を思い出してくれるの? あの頃を思い出してくれるの? 何もかも蹴散らして二人で笑ってた頃を、いつになったら) 「、」 意識が上昇した。目を擦って寒いと思って布団に潜り込む。そうしてから一緒のはずの体温がないことに気付いてがばと起き上がった。借りているのシャツに袖を通して慌てて隣の部屋に駆け込んだけど誰もいなかった。 「…?」 シャワーの音はしない。だからお風呂じゃない。でもキッチンにもリビングにもいない。いなかった。 ついさっきまで一緒だったのに、この部屋には誰もいなかった。 「? 、っ」 声を上げる。がちゃっと多少乱暴に扉という扉を開け放つ。トイレでもないしお風呂場でもないしクローゼットの中にいるわけもないし、扉という扉を開け放って、それでもがいないことに身体から力が抜けた。ぺたとフローリングの床に座り込む。冷たい。冷た、い。 (夢みたいに) ぎゅっと自分の腕を握り締めた。 もしも夢みたいに無意識に僕が刺してしまったんだとしたら? ううんそうじゃなくたって、もしもこれが、全部、今までの全部が僕の夢だったら? 「やだ…っ、いやだ」 頭を抱え込んで小さくなった。誰もいない部屋。いるべき人のいない部屋。僕はがいないと生きていけないのに、どうしてここにはいないんだろう。さっきまで一緒だったじゃないか、僕らはまた身体を繋げたじゃないか。かわいいねルピはって笑ってくれたじゃないかは。どうして。どうして。 どうして、はここにいないんだろう。 もしもこれがあの夢を見たそんな可能性を考えた僕への罰だっていうんなら、直すから。もう考えないから。だからを返して。を返してよ。 どれだけ苦しくたって僕がを愛してることには変わりないんだ。分かってる。分かってるよそんなこと。あれは僕の、ただのわがままだから。分かってるから。直すから。 (だからお願い、を返して) じゃないと僕は、生きていけない。 「ルピ?」 聞こえた声に顔を跳ね上げる。玄関の扉が開いていた。スーパーの袋をぶら下げたが不思議そうに首を傾げてそこに立っている。ばたんという音と一緒に扉が閉められて、は普通に歩いてきて僕のところまで来て膝をついた。「どうしたのこんなとこで、そんな格好」と僕の髪を撫でる。 どうしようもなく。泣きたくなった。 「う…っ」 ぼろとこぼれた涙。ぼふとに抱きついて「いやだ、置いていっちゃやだ」と駄々をこねる子供みたいにに甘えた。「ごめん、ちょっと買い出ししてくるつもりだったんだけど。そんな泣くことないじゃない」と言われて首を横に振った。泣くことある。あるよ。君がいなくなったら僕は一体どうしたら。この心は一体どこへ持っていけばいいというの。君なしでは僕はもう、 くいと顎を持ち上げられて、滲む視界でキスされた。深い方。少し強引だった。僕がどんとその胸を叩いても、いつもならやめてくれるのに今日はやめてくれなかった。 「ん…っ」 いやだ、って胸を叩いても、きつく抱き締められて僕じゃ敵わなかった。同じだあの頃と。僕は力でいつも君に負けていた。それで、よかったんだけれど。あの頃は力っていっても能力があったから、本当にいやなら蔦嬢があったから。 今は、何もない。だって人間だから。 「ふ、」 のワイシャツ一枚しか着てない。背中から腰にかけてをなぞられる。体温が分かる。掌が。その温度が。あの頃と変わらないものが。身体が、反応する。あの頃と変わらずに。 涙は、止まっていた。 「、は」 解放されて、はぁ、と荒い息を吐く。相変わらず僕はこれが苦手だ。どこで息をしたらいいのか分からなくて限界まで我慢してしまう。触れる吐息にいつも火傷するような思いを抱く。 「俺は、ルピが思うほどお前のこと思ってないわけじゃないよ」 「、」 「我慢してるんだ。ねぇルピ分かる。俺は今までお前を求めて生きてきたんだよ。我慢してきたんだ。急に歯止め外して、お前の望まない俺じゃいけないって、俺はずっと我慢してきたんだ」 ぎゅうと強く抱き締められる。「お前だけが俺を求めてるわけじゃないんだよ。俺だってお前のことめちゃくちゃにしてやりたいくらいなんだから」と、そんな言葉が聞こえて。夢でも何でもなく、現実で。 (お前、って、言った) あの頃、みたいに。 「かわいいって思ってるのもほんと。愛してるって思ってるのも全部ほんと。だからね、そんなふうに泣かれると、俺我慢できなくなる。俺はお前に拒絶されたくないんだよ。それが一番こわいから」 「…、じゃあ我慢しないで。僕めちゃくちゃにされたい」 その胸に顔を埋めた。「そんなこと言うとほんとにしちゃうよ? いいの」という言葉に僕は頷いた。めちゃくちゃでもいい。何でもいい。本当の君を、見せてほしい。お前って言ってくれたように。それだけ、僕は幸せになれる。なれるんだ。 君の本当を、全部を、僕は知りたいし受け止めたいし、だからやっぱり僕は君のこと、愛してるんだ。 |