「…あのさ」
「うん?」
「どこまでついてくる気?」
 帰り道。帰る方角が反対にも関わらず、はなぜかバスに乗り込んだ僕についてきた。
 へらっといつもの顔で笑って「ルピの家を確認しに」「…だからなんで?」「だって気になるし」さっきから同じ問答ばっかりしてる気がする。はぁと息を吐いて少し痛む頭に手を添えた。
 バスは夕方の一番混む時間帯のに乗ってしまったせいでぎゅうぎゅうだった。それでもこれを逃すと二十分もバス亭で待たされることになるからと、しょうがなく乗り込んだのだ。それでもついてきた。いつもだったら別に、校門で別れて終わったと思うんだけど。
 今日は特別何かあった、ってわけでもない。と思うんだけど、どうだろう。は僕が思うよりも僕のことを思ってるようで、ときどき、君ばかじゃないのって罵りたくなる。いつも思うだけ思ってることだけど声に出して言いたくなる。そのくらいは僕にばかっぽかった。

 必須課目でしょうがなく出る体育。今日もあった。っていうか毎日。多分、一番がどこか決まるまで。
 今更ドッジボールなんてやったって面白くもないっていうのに、交流会と称して一年生の勝ち抜きで勝手に組まれた大会表。僕は飽き飽きして、投げるのなんて得意じゃないから始終逃げに徹してたけど。勝ち抜けば勝ち抜くほどにクラスの中での攻防の役割だって決まってきて、は投げる方、僕は逃げる方で。
 ボールは痛くない怪我もしないだろうソフトボール。力差を考えてわざわざ男女別のドッジ。めんどくさかった。だって僕に得は何もない。時間制限があるから逃げるだけ逃げ回れば終わりだ。終わりだけど、こんな面倒なことないに越したことない。
 なんだかんだでみんな楽しそうだけど、僕は全然楽しくなんてなくて。いっそ読書したいと思うくらいで。
 だから僕はクラスの中で逃げ回る方。とは違う。は投げて相手のクラスの人数減らす方に徹してて。だけどそれ全部が僕を守るように盾になるようにの行動で。
 前線に、出たって、いいのに。僕をいちいち庇うみたいに全部ボール受け止めて。どんなに至近距離でも遠距離でもすごい球でも全部全部受け止めて。僕を狙うとが守る、それを分かっててわざと攻めてくるクラスだってあったのに、あいつはそれ全部を制覇してみせた。
 回転するボールの運動全部を無視して受け止める。ばんとすごい音がしても取り落とさず、いってぇとかぼやきながら僕と目が合うとはただ笑う。
 俺が守るよ、なんて、ばかみたいなこと言って。

(ばかなんだ。絶対ばかなんだ。そうに決まってる)
 ちらりとを見やった。背が高いから上のつり革じゃなくて鉄の棒に手を引っかけて「狭いねー。っていうか暑いや」とぼやいたがしゅるとネクタイを解いてシャツの襟元をくつろげる。そこから視線を剥がした。何どきどきしてんだよ僕。ばかじゃないの。
 バスが赤信号で止まる。ブレーキがかかる。つり革に手を伸ばして一生懸命掴まってるけど限りがあった。運動の法則は無視できるもんじゃない。重心はどうしたって揺らぐ。
 それを支えるみたいにに引き寄せられた。自分の腰にその腕が回っているのを自覚して、襟元をくつろげたの胸に顔を埋めるような形になって、それを意識して、どうしようもなく顔が熱くなる。
「だ、いじょうぶだよ」
「でもさっきからふらふらしてる。頭痛いんでしょう」
 すぐ近くで声。それにどきどきしてる自分がいる。ばかじゃないのと罵ってみたけど何も変わらなかった。
 声が、どうしようもなく近くて。距離だって。なんで僕今こいつに抱き寄せられてるんだろう。バスは確かに狭いし人が多くて頭も痛いけど、でも、立てるでしょう僕。立てる。自分で。だけど。
(…ばかじゃないの)
 自分を罵る。を罵る。だけど何も、変わらなかった。
 バスが動き出す。だからもう大丈夫。また自分で立てばいい。それなのにつり革を握っている手には力が入らず。だって自分で立っているのだけで大変だろうと思うのに、僕はつり革を離してしまった。代わりにの腕に掌を重ねる。ああ僕ばっかじゃないのって心ではいくらでも罵れるのに、現実の僕は何も変わらなかった。
「ちゃんと支えてよ」
「いえっさ」
 の笑った声。窓の外へ視線を逃がそうと思って、だけどその窓に映り込んだ自分が見えて。が見えて。外の景色よりも何よりも、がなんだか幸せそうに笑って僕の頭にこつと額をぶつけるから。だからどうしようもなく僕は自分が、そしてが、ばかだなぁと思って。
 本当に、本当に。僕も、も、ばかなんだ。
「最終? じゃあルピはいっつもこんな長時間バスに乗ってるのか。大変だなぁ」
 ぶおんと排気ガスを出してバスが走り去る。終点でバスを降りた早々はそんなことをぼやいた。僕は結局あのバスに乗ってる間半分くらいに抱き寄せられたままだった。羞恥心でさっきから顔が熱い。
「別に大変じゃない。自分で行こうって決めて、乗ってるんだから」
「そうかもだけどさ。なんかなぁ」
 顔を逸らしたまま歩き始める。当然のようにはついてくる。学校でもそうなように。何をするにもどこへ行くにも勝手についてくるように。僕が何も言わずともこいつはついてくる。
 女じゃないって説明した。何度だって。ナンパなら相手違いだよって言った。何度だって。その度には笑った。そんなんじゃないよと笑う。いつもどこか少しさみしそうに、かなしそうに。
 夢を見ていたと。僕の夢を見てたとは言った。お前のこと知ってるよと。何度だって聞いてきた。それは僕であって僕でない。僕は、君を、知らないで育ったんだから。
「…どこまでついてくるの?」
「ルピんちまで。見送ったら帰るよ」
 もう陽も暮れて、辺りは夜闇に沈んで。そんな中二人で歩く。
 ふいに手を取られた。没頭していた思考が浮き上がって顔を向けると、が少しかなしそうに、さみしそうに、でもいつもみたいに笑ってそこにいる。
「ね、繋いじゃ駄目?」
「…もう繋いでるじゃない」
「そうなんだけど。許可がいるかと思いまして」
「……別に」
 そっぽを向いた。繋いじゃダメかって問いかけに対して別にっていうのは答えになってないと思ったけど、拒絶も許容も、今の僕にはできそうにもない。
 こいつがどれくらい真っ直ぐなのかなんて、そこにどんな負荷が加わろうともこいつが折れることはないんだってこと、僕は分かってる。
 ぼんやりと。何度か夢を思い出す。だけど本当にぼんやりで、本当に薄くて。どれもこれも白と黒で。たまに、赤い色。
 たまに赤。いつも白黒。よく分からないし憶えていないけど、最後の瞬間だけは焼きついてる。滴る赤とそれを防ごうとする愚かな自分。今手を繋いでるが、死にそうで、それを必死にどうにかしようとしている自分。
 ばかみたいだ。全部夢の話なのに。
(夢なんだって、なんでそこで終わらせておかないの。ばかみたい)
 僕も、も。二人して、多分きっとばかなんだ。
 と繋がる体温が、掌が、こんなにも熱いって思うのはきっと僕がばかだから。
「…ねぇ」
「うん?」
「君ってばかだよね」
「そう? でもルピと同じくらいの成績心がけてるんだけどな」
「…それがばかだって言うんだよ」
 首を傾げるが視界の端に見える。
 そんな君に思考も傾ける僕も、どうしようもないくらい、ばかだ。
「、あれ。公園?」
「…悪い?」
「いえ全然。一瞬公園がルピの家なのかと」
「ばっかじゃないの君」
「冗談だよ」
 それで真っ直ぐ家に向かわず引っぱって来てしまったところ。陽が暮れて誰もいなくなった公園。電灯がじじと僅かに音を立ててるだけのさみしい公園。
 このまま家に帰ってさよならをするのは、なんだか少しもったいないと思ったのだ。何のどこら辺がもったいないのか自分でもよく分からないけど、せっかく繋いだままの体温を離すのがもったいないような、気がした。
 いつから。いつからこんなふうに、僕は変わっていったのだろう。
「夜は誰もいないね」
「…そうだね」
 ぼすとベンチに腰かける。不思議そうに僕を見ていたも同じように隣に腰かけた。手は、繋いだまま。

 いつか。いつもこうしてたと。いつも手を繋いでたと。夢ではそうだったと。僕でない僕とそうして一緒にいたと、は言った。
 それは僕じゃない。君にとって僕はその夢の中の僕と同一人物なのかもしれないけどね、だってそれじゃあどうして僕は君を憶えていないんだ。君はそんなにもはっきり僕のことを憶えてたのに、どうして僕はそんな君のことを憶えていないのだろう。
 それってなんだか、ひどいじゃないか。僕。

(…おかしなの。ほんと)
 息を吐いてベンチの背もたれに背中を預ける。じじ、と電灯の明滅する音がする。そろそろ古いんだから取り替えてくれてもいいのに、市もサボってる。
 どうでもいいことを考えたときにふっと電灯が消えた。「、切れた?」「かも」僕の呟きにそう返してくれるが見えない。真っ暗になってしまった。だから取り替えろって今さっき考えたのに。
 そう考えたところで、真っ暗な中ぎゅうと繋いでいる手に力が込められるのが分かった。じ、と電灯がどうにかして光を灯そうと格闘する音がする。
 次にじじと音がしたとき、視界に光が戻ったとき。景色が分かるようになったとき。僕の唇はの唇で塞がれていた。
「、」
 息が止まる。だってそれは、だってこれは。
 視界に映るのはだけ。不安定にちかちかする電灯で明滅する視界、景色。だけど映るのは一つだけ。
 何秒もしないうちに唇は離れた。それなのにまだ息ができない。
(君、今、何を)
「…?」
「ごめんね」
 訊く前に謝られた。じ、と電灯が不安定についたり消えたりするのが今は妬ましい。つくならつくでちゃんとついてろよ。じゃないとの顔が、なんだか消えてなくなりそうなくらい希薄な微笑みが本当に消え入りそうで。
 だからぎゅうと手を握り返した。消えるな、消えるなと。死ぬなと。夢で、そう、思ったように。
「やだ」
「え?」
「いなくなったら許さない。夢みたいになったら許さない」
 ごほと咳き込んで僕の頬を撫でたが見えた。大丈夫だよルピと血だらけになりながらそれでも笑ったが見えた。それは多分夢の、そう、夢の君で。今目の前にいる君じゃない君。
 だけどそれでも、君だった。
 じわじわ視界が滲んでいく。ついには頬を涙が伝った。「え、わ、ごめんねルピなんか泣かせたっ」と慌てるは血だらけじゃない。こだわってワイシャツにネクタイの格好ばっかりしてきて、上手くネクタイ結べないくせになんでさって訊いたらだってルピが結び直してくれるからと、へらっと笑っていつもみたいにそう言って。
 それで、そんな言葉を聞いて少しでも照れたりした自分が我ながらばかだと思って。だけど追い払ってもどこへ行っても僕を追いかける君に、だんだんと、それでもいいかと、いつからか。
「ごめんね、キスなんて嫌だったね。ごめん」
「…誰もいやだなんて言ってない」
 僕の涙を拭う指が止まる。「え、嫌じゃないの?」きょとんとした顔でそう訊かれてぎゅっと目を閉じた。
 いやだ、って言えば、君がどういう反応をするか。拒絶したって笑うだけのくせに。かなしそうにさみしそうに、でも笑うくせに。他でもない、きっと、僕のために。
「…いやじゃないよ」
 だから目を開けて、それでもまだ滲んでいる視界での手を取る。

 いつもいつも君は笑ってばっかりだけど、最初だけ泣いてくれたけど、君はいつもかなしそうでさみしそうだ。僕は君を知らないよ。夢で見た君さえおぼろげだ。でも僕はね、僕らは生きてるんだから。死んだ、いつかの夢のことなんて、忘れようよ。
 僕らは生きてるんだから。だったらもうそれで、いいじゃないか。

 ぼすとの胸に頭をぶつけて「いやじゃないから。君のこと嫌いじゃないから。だから、そんな顔、いつまでもしてないでよ」と声を絞り出す。君がさみしそうでかなしそうなのがいつまでも続くのなんて僕はごめんだ。ごめんなんだよ。
 いつだって君は笑うけど、その笑顔はいつだって泣き出しそうなんだ。
「僕は、君を憶えてないけどね、だけど今の君のことちゃんと見てるよ。見てるんだから」
 どんとその胸を叩く。「いつまでも夢にこだわってるなよばか、僕らは生きてるだろっ」と声を上げる。君が消えそうで消えそうで僕はこわいのに、夢みたいになったらどうしようってたまに不安になるのに。
 僕だって夢に囚われてる、君がそうなように。分かってる。分かってるよ。だからお互い、現実を、見ようよ。今ここにある現実を。君も僕も生きていて、ちゃんと息をしていて、今一緒にいるんだってことを。
「生きてるんだから…ちゃんと生きようよ」
 今日も僕が結び直したネクタイが滲んだ視界に映る。バスの中で解かれてしまったけど。何度だって教えるのに何度やっても君は憶えてくれない、上手にならない。わざとかな。僕に結び直してほしいから何度だって失敗してみせてるんだろうか。何度だって君は僕を思う。ボールの攻撃から僕を庇うように。その手が摩擦で少しだけすりむけているのが見えた。見えたけど、そんな君を見た僕に気付いて、君は笑う。
 大丈夫だよルピ。いつかの言葉を同じように笑顔で。
「僕だって君が、」
 そこで言葉が詰まった。
 君が、好きだと。考えるよりも思ったことが、自分の中でかちと何かのスイッチを押した。

 そうだ、僕は、君のことが、何よりも。

「ルピ」
 呼ばれて顔を上げる。が僕の額にキスをした。「俺のこと好き?」と訊かれて言葉に詰まる。好きだって言うのが恥ずかしいからとかじゃなく、君が泣いていて、その涙が僕の頬に落ちたからだ。
 ぎゅっと抱き締められて、僕は抱き締められるままにの胸に顔を埋めて「好きだよ」と言葉を返す。そうして固く目を閉じた。
(ああやっと)
 僕もも泣いていて、男同士で何やってんだって話だけど、その体温が嬉しくて。人混みが苦手な僕なのに、がいるとどうしてか頭が痛くなくて。君と手を繋ぐと僕はいつもいやだって振り払っていたけれど、恥ずかしかったしばかみたいだって思ったしだからいやだって言ってきたけど。君はいつも笑ってたけど。だけど本当は僕は君といる時間が一番、ほっとしていた。
 一番。今まで生きてきた中で一番、一番。
「好きだよ。好きだから泣かないでよ」
「それ、俺の台詞。ルピこそ泣かないで」
「うるさい、誰が泣かせたと思ってんの。君だよ」
「それも俺の台詞。ルピが泣いたら俺も泣けるじゃないか」
「…いたちごっこ」
「…だね」
 顔を上げればが笑った。泣いていたけどでも笑った。だから僕も笑った。まだ涙は止まらなかったけど、でも笑った。
(ああやっと、笑ってくれたね。本当に)

抜 け 出 そ う
(冷たくやさしいその場所から、ここへ、僕らの未来へ)