無駄にどきどきしながらごくんと唾を飲み下す。 目の前には一つの扉。番号と小さな覗き穴のある扉。 いつでもおいでって言ってくれたことが頭の中でぐるぐる回って、気付いたら足が向いていた。親戚の家とかそういう類の誰かの家なら出向いたことがあったけれど、僕が僕だけで僕の意思で誰かの家に出向くのは、これが初めてだった。 どこにでもありそうなアパートの二階。教えられた部屋の番号と表札とを何回もチェックした。だからこの部屋で間違ってなくて、あとは呼び鈴を押せばいいだけ。 それなのに無駄にどきどきしていた。さっきからずっと。 (一回、押すだけ…押すだけなのに) 指が震える。押すだけ。それだけなのになんでこんなに緊張してるんだろう僕は。 どれくらい時間がかかったのか分からないけど、別の部屋の扉ががちゃと音を立てて開いたことがきっかけで、僕はようやくぷちと呼び鈴を押せた。勢いだった。ピンポーンと音がする。 「はいはーい」 ドアの向こうからの声。ばたばたと足音。だからほっとして胸を撫で下ろす。留守だったらとか今更になって浮かんだ考え。だって前もって知らせなかったから。 突撃訪問っていうか、うん、そんな感じ。 がちゃんと開いた扉の向こうからが顔を出す。ジャージとTシャツ一枚なラフな格好で、きょとんとした顔で。 「え、あれ、ルピ?」 「そう」 「嘘、連絡くれたっけ?」 「…あげてない」 慌てた顔をしてポケットから携帯を取り出すにぼそりと返す。それからお隣さんが僕の後ろをちょっと狭そうに通り抜けていったので、をぐいと押して「入れて。突っ立ってると邪魔みたい」「ああうんどうぞ」ぱんと携帯を閉じてポケットに捻じ込んだ。がしがしと頭をかいて「あーっと、汚いんだけどなぁ」と漏らす。ばたんと閉じた扉は僕の家のものとは違って無機質な感じ。 靴のを脱いで上がらせてもらう。無駄に心臓がどきどきいってる。まるで走ってここまで来たみたいだ。僕はきちんと歩いてここまで来たんだ、道順をしっかり憶えようって。この間の雨の日、をここまで送ってそれから自分の家へ帰って。そのときも道順を憶えようと一生懸命だったけど、行きと帰りじゃまた違うから。 何を、こんなに緊張してるんだろう。僕は。 「あの」 「ん? あーえっとちょっと待ってよ場所を」 がばさとベッドから洗濯物っぽいのを退かして、丸テーブルに散乱してる雑誌を適当に集めて、それからベッド脇に放置してある鞄とかを片付け始めた。やっぱり急なのはダメだったかなと思いながら、一人暮らしをしてるんだというの部屋を見回す。 ありがちだ。ありがちだけど、僕は普通に家だし、大学もどうしようって思ってるから一人暮らしなんて考えてもいない。だから新鮮と言えば新鮮な、狭い空間。 試しにキッチンの方へ行ってみる。やっぱりというか朝から片付けてない感じで放置されていた。多分夜全部洗うとかいい加減なことしてるんだろう。らしい。 それからばたばたしてるを置いてお風呂場も覗いてみた。狭い。脱衣所がない。トイレとお風呂場がくっついてる。ホテル仕様な感じだ。アパートってどこでもこんなふうなのかな。 ふぅんと顔を引っ込めて、まだがさがさしてるを見る。「連絡くれたらきれいにしといたのに」と言われて「ごめん」と返す。やっぱり連絡した方がよかったかな。 だけどふと顔を上げたが「ああでも嬉しかったよ。誰かなって思ったらルピだったから、一瞬夢かと思った」とか笑うから。だからふいと顔を逸らして、に買ってもらったTシャツの長い袖を無意味にいじった。手持ち無沙汰、ってやつが、僕は苦手だ。 「ルピーおいで。とりあえずこれでいいや」 一人納得したらしいがぽんぽんとベッドを叩く。だからそっちに行って、伸ばされた手に腕を取られて座り込んだ。僕のベッドとは違う感触のベッド。当たり前といえば当たり前だけど、スプリングの軋む音一つ取っても違う。違うということがなんとなく緊張感を運んでくる。ここは僕の部屋じゃなくて本当に、他人の、の部屋なのだ。 「あの、急に、ごめん」 「いいよ全然。汚いのはごめんね」 ふるふると首を振った。腕が取られたままでなんだかずっと心臓がどくどくしてる。腕、離してくれない、かな。 というか何を。何をこんなにどきどきしてるんだろう僕は。 「何か飲む?」 「、何かある? 甘いのがいい」 「あー、甘いの…えーとねぇ、午後ティーのストレートならあるから、ミルクとシロップ入れようか。甘くはなるよ」 そう言ってが僕の腕を離してくれた。ほっとする。なんだか熱い。服の上から握られただけなのにどうして。いつも手を繋ぐと顔も熱くなるけど今のは腕で、直に触れてもいないのに。 がちゃんと冷蔵庫を開けて飲み物を用意してくれているを見つめる。いつも通りだ。っていうかいつもより何も着飾ってないのに、何緊張してるんだろう僕。ばかみたい。 何を緊張して。 ぎゅうと拳を握ったとき、さらっとした自分の布団とは違う感触にベッドに視線を落とす。ベロアの生地みたいにさらさらしてる。僕のベッドと、違う。 違う。吸う空気も、ベッドのスプリングの感触も。何もかも。 (変だ。何どきどきしてるの、ばか) ぎゅうと胸を押さえる。 どこへ向けたらいいのか定まらない視線の中、テーブルの上に放置されている眼鏡が目に入った。手を伸ばしてフレームのないそれを手に取る。がいつもしてるやつだ。今なしで大丈夫なのかな。 試しにかけてみた。あんまり違和感がない。ちょっと変な感じがするけど。ってことは僕の視力もそれなりに落ちてきてるってことか。そういえば父さんは眼鏡で母さんはコンタクトだった気がする。じゃあ僕もそのうちどっちかにしないとならないかな、なんて考えて。コップを手にしたが戻ってくるのをレンズ越しに見つめる。 「あれ、俺の。違和感ない?」 「ちょっとだけ。なんでコンタクトにしないの?」 「だって痛そうだしめんどくさそうだし。はい」 手渡されたコップを受け取る。こつと指先が触れた。それだけなのに心臓がどくんとうるさく鳴ったのが分かる。 (あ、れ?) いつもはもうちょっと、もうちょっとくらい慣れてるはずなのに。まるで最初の頃に戻ってしまったみたいに自分がぎこちなくしかに接することができないのが分かる。 は普通にストレートの午後ティーを口にしてそれでも「甘い」とぼやく。じゃあなんで買ったんだろうとか思いながらコップに口をつけた。一応ミルクティーっぽくはなってる。と思う。 コップを持ってない方の手がふいにぎゅっと握られる。ぴたと自分の動きが止まったのを感じた。は普通に、ただ手を握っただけでとんとテーブルにコップを置いて、「何しようか。うーんルピはいつも何してるの、読書?」とか普通に。 普通に。普通に、できない。 (どうして?) 「ルピ?」 ひょいとに顔を覗き込まれた。それでぺたと頬に掌が当たって。熱い、と思って。俯くみたいにしてたのに上向けられて、いやでもと目が合う。 眼鏡が取り上げられた。手にしていたコップも。たん、とテーブルに置かれる音。が眼鏡をかけて何度か瞬きして僕を見る。「やっぱり赤い」と言うから「何が」と返せば「か・お」つんと額をつつかれる。逸らしたいのに逸らせない。だってまだ掌が僕の頬に、熱いまま、触れたまま。 「ねぇルピ、今日なんで来たの?」 「べ、つに。なんとなく」 「ほんと?」 頬を、掌が滑っていく。眼鏡の向こうの瞳が真剣すぎて何も言えない。なんで来たのって言われても本当にただ、なんとなくで。だっていつでもおいでって。だから僕は。 「いつでも、おいでって。言ったから」 「来たの? そっか」 が僕の額に口付けた。かぁと顔が熱くなる。体温が触れるだけでいつもそうだ。舌が額を温く撫でていくのがくすぐったくて恥ずかしくて色々ごちゃ混ぜになって、僕は最後にはいつも、を押し返してしまう。 「くすぐったい」 そうしたらはいつも笑う。かわいいなぁルピはって。だけど今日は笑わなかった。僕が押し返すために伸ばした腕を掴んで「ねぇルピ、俺もお前も男だけどさ」「、何」「俺にとってお前は」それで引き寄せられて、抱き締められて、苦しいくらいのその力に片目を瞑る。熱い。熱い。 「俺にとってお前は、女の子なんだよ」 その言葉と一緒にどさとベッドに押し倒された。 (な、) 何するの、って、言えばいいのに。言葉が出なかった。ただぐるぐる胸のうちで何かが回ってて、回り続けてたそれがが僕の服の内側に手を入れて肌に触れた瞬間に、弾けた。 熱い。 「にとって、僕は、女の子?」 「そう。かわいいかわいい俺の子」 首筋に口付けられた。熱い。生温い感触。舌でなぞられる感触。だけど身体はさっきからずっと熱い。熱いまま。熱を逃がしたい。そもそも僕はここへ何をしに来たんだ? に会いに? だっていつでも来ていいよって言った。言ったのは本当だしだから来たんだってことも本当。全部本当。 僕らはまだキス以外、したことがない。 (したいの? 僕は) が眼鏡を外す。「ねぇルピどうしたい?」なんて今更なことを訊く。胸の突起に触れられてびくと身体が浮ついた。どうしたい、なんて。今更なこと。 どうしようもなく熱い身体が、答えを示してる。 「あ、つい」 「熱い? 熱?」 「違う。そういう熱いじゃない」 額に当てられた手を握り締めて「君のせいだ」とこぼす。「責任取れ」なんて勝手な言葉が口をつく。ああそんなこと言ったらがどうするのかなんて僕は想像ついてるのに。この先どうするのかなんて想像ついてるのに。 想像、ついてて。それが分かってて。抱かれるって分かっててなお、僕はを拒絶できない。むしろ僕は、 が少し笑って僕の唇を奪った。「んっ」と漏れる声に構わずの掌が僕の身体を撫でていく。たったそれだけのことなのに身体が浮つく。まるで待ってたみたいに。 こんなのやらしいって思った。思ったけど、僕がずっとこの部屋に入ってから落ち着けなかったのも、そもそもここへ来てしまったのも、多分全部このため。浮つく思考を、浮つく身体を、で満たしてもらうために。 「じゃあ責任取るね。後悔しても知らないよ」 「…しないよ。後悔なんて」 の首筋に顔を寄せて噛んだ。やり方なんて知らない。知らないけど、僕はこのために来た。 だから僕は、それで満足なんだ。 |