俺はその壁を超えてみせるよ

「え? 進路?」
「うん」
 土日に平日の午後、学校が終わってから。その時間はほぼ俺の家にいることが常となってきているルピが鞄から進路調査票を出してきた。ずぞぞと紙パックの野菜ジュースを飲みながら「何で俺んとこに」「…だって」顔を背けたルピが「親の言うことなんて一つか二つじゃない。大学か就職かどっちか」と言うから首を傾ける。だからって俺のところに持ってこられてもなぁ。
 ぺらりとプリントを持ち上げる。とりあえず斜め読みした。こういうのはどこも一緒か。
 俺は高校出て職に就いて点々としてるから、参考にはならないだろう。一応就職っちゃ就職だけど、半分以上ホスト時代だし。絶対ルピの参考にはならない。
(あー…いっそ嫁とか)
 そんなことを考えた自分の頭が馬鹿だと思った。
 ずぞ、と空になった紙パックのストローから口を離して「ルピはなんかやりたいこととか」「ない」言い切る前にきっぱり言われた。
 …俺にどうしろと。
「じゃあ嫁とか」
「、は?」
「ルピが台所やってくれると俺はすごく助かるなー経済的にも楽だなーとか、思ったりして」
 試しにそう言ってみたら、ルピの顔がみるみるうちに赤くなって最後には全力で俯いて「ば、ばかじゃないの、進路調査票なのに嫁とか書けないよ」とか返されて。あれ、嫁って辺りは否定しないんだ、と思ったり。
 頬杖ついて紙片を見やる。まぁ本気で考えるとして、どうだろうなぁ。まずはやっぱりルピの両親との話し合いが先だと思うんだけど。
「ご両親は? いいの」
「いい。君が先決」
「…俺ってルピに愛されてるなぁ」
 しみじみしてぐしゃと紙片を握り潰してジュースのパックと一緒にゴミ箱にぽいした。「ちょ、ちょっと捨てたらっ」と声を上げて駆け寄ってくるルピを抱きすくめてひょいと抱き上げる。相変わらず軽い。「紙の一枚や二枚大丈夫だよ」ちゅ、と音を立ててキスすれば「だ、だからって捨てないでよ」とルピが抗議気味の声を上げてくる。かわいいなぁと緩む頬を自覚しながらその唇を奪う。
「ん…っ」
 いつまでたってもキスは苦手らしく、いつまでたっても舌を絡めるのに慣れてくれない。そんなところもまたかわいい。ぎゅっと目を瞑ってるとこも全部。
「ね、嫁で決定」
 は、と息を切らせるルピに俺は頬を寄せた。白い肌は相変わらずで、季節関係なく日焼けなんてもの知らないみたいな色をしていた。
 だけどキスすれば真っ赤になる顔や、ちょっとしたことで照れるこの子は素直だ。顔に出やすいとでも言うのかな。白いから赤くなるとすぐに分かる。
「よ、嫁じゃ、書けない」
「うーん…じゃあバイトにしちゃえば? 進学分を自分で稼ぎますって。俺の友達にもいたよ、そうやって書いた奴」
 言いながらすたすた歩いてソファの方に腰を下ろして、ルピはもちろん胡坐をかいた俺の膝の上。転がるリモコンを手にしてぷちと電源を入れた。適当にニュースにする。それでそういえば今日って金曜だと気付いた。今日の金曜ロードショーってなんだっけ。新聞ないからいちいちパソコンの方で調べないとならないのも不便だ。
 その手にクッションを預けて「俺はルピが来ても全然いいんだけど、問題はやっぱりご両親じゃないかな。どう説得するつもり?」と訊けば、ルピは視線を逸らした。「別に、どうでもいいもん」と言うから一つ瞬きする。どうでもいいって。
 ぼそぼそと小さく「だいたい君は卑怯なんだよ。あの頃は嫁なんて言わなかったくせに」とか何とか言われて頬をかく。ルピの言うあの頃が俺にはまだ思い出せないままだから。あった事実なのかもしれないけど、俺にはそれが分からない。
 もしかしたらこのまま一生思い出せないままなのかもしれない。分からないままなのかもしれない。だけどそれでも、俺はこの子と共にある道を選ぶだろう。茨の道を自ら。
(七時…飯の時間だ。けど)
 ちらりとルピに視線を落とした。なんか拗ねたみたいな顔でぎゅうとクッションを抱き締めている子を。
「ね、夕飯食いに行く? もう作るのめんどくさいや」
「、行く!」
 それでぱっと顔を輝かせるルピに、俺は苦笑する。素直な子だ。俺にだけはとても。
 行き先は無難にガスト。そんなにほいほい金使えるほど今は働いてるわけでもなかったから、ルピが満足しそうで俺も足りるかなくらいの場所。
 金曜の帰り道そのまま俺んちに来たルピは制服だったから、俺の服を貸した。適当なものと思ったんだけどルピにはどれも大きくて、結局ぶかっとした格好しかさせてあげられなかったんだけど。制服は目立つし。
 袖の余っているTシャツをいじりながら、ルピが「ねぇ、今度僕のもの持ってっていい?」と言うから首を傾けた。「服? 別にいいよ。置くスペースくらいあるし」と返せばルピがほっとしたような顔をしてメニューに手を伸ばした。今度ルピに何か買ってあげよう、そのためには俺もそろそろ打ち込める仕事を探さないと、と思って。同じくメニューに手を伸ばしてぱらとめくった。何食おう。
(別に腹減ってないし…でも食べないとルピが怒るからなぁ)
「ねぇ、そういえばご両親になんて言ってるの? 毎回金土俺んとこに泊まりだけど」
「…別にいいじゃないそんなこと」
「気になるんだけどなぁ」
 ルピがそっぽを向くので俺は苦笑した。いい加減言い訳だって苦しくなってきてるだろう。俺は独立してるからいいとして、ルピは家暮らし。どうやっても家族関係はついてくる。
 頬杖ついて「ルピが俺んち来るっていうのは反対しないよ。ただ家族とのことは、俺を入れるか入れないかっていうのもあるしさ。はっきりさせといた方がいいよ」と言う。それでルピが拗ねたような顔をするから、はぁと息を吐き出した。素直なとこもあるんだけど頑固なところは頑固なんだよ、この子。
「ルーピ?」
「……僕は君以外どうだっていいんだってば」
「それは嬉しいけど。けじめってものがあるから。この世界に生まれちゃったんだもん、しょうがないよ」
 癖っ毛のある髪を掌で撫でた。指に絡めて「俺と一緒にいたいでしょう?」と訊けば「うん」と肯定の答え。「だったら少しだけ頑張ろう。ね」と笑いかければ、ルピは不服そうに口を噤んだ。
 向かい合ってるっていうのがなんとなく気に入らず「あ、すいません」とウエイトレスの子に声をかけて「席移ってもいいですかね」と訊いた。今日のガストはそんなに人がいなかったから「ご自由にどうぞ」と営業スマイルで返され、同じく営業スマイルを返しながらメニューを片付けて「ルピおいで」とその手を引く。
 ウエイトレスの子を睨むようにしいているルピに苦笑しながら四人席の方に移った。ソファの方に腰かけて「隣おいで」と言う。さっき思いっきりウエイトレスの子を睨んだわりにはここでは躊躇うから、俺は薄く笑う。頑固なのに正直で、かわいい子。
「隣いや?」
「、やじゃない」
 それですとんと座ったルピの肩を抱いて引き寄せる。禁煙コーナーにはそんなに人がいない。
「俺もルピと一緒にいたいから、もう少しがんばろ。お前がお嫁に来るんだったら俺も何でもしてあげる」
「…ほんと?」
「ん」
 唇を寄せてその額に口付ける。「あ、でも仕事しないでとかはなしね?」と付け足すと眉根を寄せられた。さすがに稼ぎ手がいなくては家計は成り立たないことぐらい分かるだろうけど、と思いながらこつとその頭に頬をぶつける。
 一番ほっとする。ルピといる時間が今まで生きてきた中で一番安心する。何よりも。
「仕事はしなきゃ。俺が」
「…なんでばっかり。僕もするよ」
「やだよ、家事してくれた方が嬉しい。俺に嫉妬してほしいの?」
 耳元で囁けば、掌で耳を塞いで「うるさい、それ僕の台詞。外行ってる間に浮気なんてしたら許さない」と言われて思わず笑った。
(浮気、ね)
 ちらりと今までの自分を振り返る。

 知らない誰かを求めるように生きてきて、だから他人に触れるときは浅く広くで。求めている誰かを探して色々職を点々として、面影を探すように彷徨って生きてきた今まで。
 俺がこれほどまで他人に固執するのは、それが探し求めていた人だと思ったから。ルピこそ俺の求めていた人だと思ったから。
 俺には、ルピの言うような前の頃のことは記憶にないんだけど。でもルピは俺を知っていて、運命っていうのにまさにうってつけな感じの出会い方をして。
 何度もこの子を抱いた。後悔は一度もない。白い肌は甘くて啼く声も理性を揺さぶる。誰を抱いても虚しさしか憶えてこれなかったこの俺が、今までの人生って何だったんだって言いたくなるくらいに放浪癖だったこの俺が、こんなにも誰かに固執する。それは俺がルピを探し求めていたから。ルピが俺のずっと探していた人だったから。
 ルピはまだ色々怒ってたり納得してなかったりするけど、それだけは自分の中で確かな事実として噛み締めていた。
 俺にはお前の言うような前のときの記憶はないけど。だけどそれすら凌駕するくらいにお前のことを思ってるよ。

「で、何頼む? はい」
 メニューを広げてみせる。ルピが拗ねたような顔で「君はずるい」と言うから、俺は笑った。ずるくて結構。ルピを他の場所へなんてやらせないよ。俺のところへ来ればいいんだから。進路はそれに決定。嫁で。
「君は何頼むの」
「んー、ぶっちゃけなんでもいいんだけど。野菜ならさっきジュースで摂ったし」
「…君ってさ、相変わらず食べ物どうでもいい人なんだね。もうちょっと太れ」
「それ俺の台詞。ルピこそもうちょっと太ってよ」
「絶対やだ」
 頬を膨らませたルピに笑って唇を寄せた。ああかわいいなぁもう。思わずキスしたくなる。
 もうちょっと太ったっていいのになと本気で思ってるんだけど、俺は料理そんなにできる方じゃないし、意図的に太らせるなんて器用なことできない。甘いものが好きだって知ってるからお菓子類は常時置くようにはしてるけど、なんか気にしてるみたいだし。華奢なくらいなのになんで気にしてるのか分からないけど。
 首を傾けて「ルピ今何キロ?」「…やだ」「やだって。もうちょっと太ってよ。その方が抱き心地が」そこまで言ったら余ってる袖でべしと頭を叩かれた。「公の場で何言ってんのっ」と怒られるも、その顔が赤いもんだから怒られてるのになんだかかわいく見えてしまう。
 その顔に顔を寄せて「ねぇ、今の俺と昔の俺どっちがいい?」と言う。ルピが眉根を寄せて「何言ってんの」と言うから「だって前世を知ってるんでしょ? 今の俺と昔の俺、ルピはどっちがいい?」と訊く。訊きながら舌で額を舐め上げた。甘い味がする。
「し、らない。どっちも君だもん、順番なんて」
「そう? 俺は俺の知らない俺に勝つ気でいるんだけどな」
 笑いかけたら、ルピが呆けた顔をした。その髪を撫でながら「俺はルピの一番になるよ。競争相手は昔の俺」と囁く。吐息に弱いルピはすぐ耳を塞ごうとするんだけどその手を掴んで止めた。
「俺は誰にも負ける気なんてないからね」
「、分かった、分かったから離せっ」
 顔を真っ赤にしたルピにしょうがなくぱっと手を離して顔も離す。俺からメニューをひったくって顔を隠すようにしたルピが「考える、進路も自分でもうちょっと考える」と言うから笑う。そうして。家族のことは俺口出せないよ。出したら出したでえらい騒ぎになるだろうし。
(あ)
「ねぇ、それで俺のとこ泊まるの理由何にしてるの?」
「……勉強会、って」
「ふーん」
「…やっぱり無理がある?」
「まぁねぇ。だって連絡先とか教えてないんでしょ。無理があるっちゃあるよ」
「……じゃあどうしよう。そろそろ父さんがうるさいんだけど」
「あー」
 がしがしと頭をかいた。「何なら彼氏ですって顔出しに行くけど」「…冗談?」「どっちでも」笑ってルピの頭を撫でた。ルピがその方が都合がいいならそうするし、俺はルピが楽になれる方に動くよ。
 頬杖をついてルピを見やる。メニューで隠していた顔をそろりと覗かせて、ルピがぼそっと「ホストやってたって言ってたよね」「? うん」「…絶対そのせいだ」「何が?」「色々」ぷいとそっぽを向いたルピがまたメニューの方で顔を隠すから、俺は苦笑しながらテーブルに頬をつける。冷たい。
「ねぇ、まだ怒ってる?」
「…別に。怒ってない」
「ほんとに?」
「…………ちょっと怒ってるけど。なんで」
 俺は目を閉じた。たとえ死んでも、生まれ変わって、きっとまた一緒に。最初の方にルピが口にしたその言葉。もしも昔の俺がそんなことを言ったんなら、そのくせ俺がそれを忘れてるんならルピが怒ったってしょうがない。ほんと、しょうがない。
 ぱしと叩かれて目を開けた。一つ瞬きすれば、メニューで俺の頭を叩いたルピが「超えてみせるんでしょ」と言うから。だから笑ってその肩を抱き寄せキスをする。一応公の場と言われたのですぐに離して「そのつもりです」と笑う。ルピは拗ねたようにそっぽを向いたけど、もう最初の頃みたいに泣いたりはしない。さみしいって泣いたりはしない。だからそれだけはよかったかなと思う。
 ルピが泣けば、俺の心は軋みを上げるのだから。俺は俺のためにもこの子を幸せにする。絶対に。