愛を知らない幼き日々の終わり

 昔からよくある。影武者っていう言葉。本物じゃないのに本物を演じる人のことを指すその言葉。本物の身代わりとして本物を演じる人のことを指すその言葉。
 まさか自分が、そんな存在になるだなんて、思うわけもなく。
 だから今日も今日で憂鬱な一日を過ごし。影武者として、その人が身につけないとならない作法や勉学から始まり様々なことを教え込まれる日々が続き。そしてそれをこなしていく日々がただ続いて。
 僕は今『王子』として、この場に立っていた。
「……はぁ」
 広すぎるのに何もない、退屈で仕方のないお城。王子である自分の部屋で一人になってようやくくつろげるその時間でさえ、僕にとってはくつろげるものじゃない。見た目は王子っぽく仕立てられたけれど、僕は王子じゃないのだ。いつ呼び出されたっておかしくないしそのときはどこへなりとも行かなくてはならない。都合のいい影武者、道具、人形として。
(なんで僕なのさ。ばっかみたい)
 たくさんいた子供達。みんなスラムの子供だった。捨て子だった。その中からどうしてか僕が選ばれた。唯一の空き小屋で寒さを耐えしのぐために集まった子供達の中の一人だった僕。寒さに凍えるその部屋の扉を開いた誰か。よく顔を憶えていないけど、僕と同じくらいの子供で。
 それで真っ直ぐ、寒さに凍える僕のところに来て。僕には不似合いな豪華すぎるマントを羽織らせて、この子がいいと言った誰か。
 もう顔も憶えてないんだけど。あとから思ったのは、その誰かが王子自身であったということ。
(………一回くらい顔見せたって)
 あのときは。あのときは、寒さに凍えていたし、おなかだって空いてたし、豪華な食事にお風呂やきれいな衣服、初めて目にするものばかりで僕は奇跡が起こったんじゃないかと瞳をきらきらさせていた。夢なのかって何度も頬をつねったけれど夢じゃなかった。僕は選ばれたのだ。

 選ばれた。そう、王子の身代わりに。

「…王子のばーか」
 ぼやく。一部の人間しか知らない。一般兵やその他の市民には僕は純粋な王子に映っているんだろう。僕は王子じゃないのに。
 一番辛いのは謁見の時間。僕は椅子に座ってないといけない。王子だから。でもその玉座に座る王様や王妃様は僕の知らない人。それなのに父上母上って呼ばないとならない。そうやって接さないとならない。人前では王様も王妃様も笑って僕に接するけれど、じゃあ人前じゃなかったらどうなるかって、僕が言うまでもない。
 言うまでもない。だって僕はあの人達の子供じゃないんだから。スラムの子供。ただの影武者、挿げ替えのきく人形。そういう目でしか見られない。
 はっきり言って。もう、限界だった。
(逃げちゃおうかな。このくらいの高さならどうにか…)
 誰も来ないことを確認してからかちゃんと開けたバルコニーの扉。そろりと顔を出して、左右に誰もいないことを確認して。ごおと吹く風で衣服がばたばたいった。無駄にひらひらしてるこの王子って格好は好きじゃない。
 このくらいの高さならと思ったけど。やっぱり高い。飛び降りたら…そう運動ができるわけでもない僕じゃ、死ぬかなぁ。
「うぉっとちょっと避けてぇ!」
「え?」
 慌てたような声が降ってきて思わず頭上を見上げた。そうしたら頭上に影ができて反射で避けたらだんと誰かが落ちてきて。上手く着地したんだろうけどじんじん痛むらしい足に手をやって「うぁ〜」とか呻いてるその人に、僕は瞬きを繰り返した。
(誰)
「あーいつ…まじ痛い……」
 足をさすりながら立ち上がったその人。格好は使用人。だけど袖のまくられた右腕には雷の紋章。
 思わずがしとその腕を掴む。「お?」と声を上げたその人にずいと顔を寄せてじっと睨んだ。憶えがないかどうか記憶と照らし合わせる。
 この子がいい。そう言ったあれは王子だった。
「…それ、聖痕」
「え? ああ」
 笑ったその人が僕の腕を取った。「ようやく初めましてだね、えーと。なんて呼べばいいのかな」それで首を傾けられて言葉に詰まる。ようやく初めまして、だって?
「君、誰」
 後退ろうとしたけど腕を掴まれたままで、誰か呼ぶべきだろうかとも思ったけど、僕はその人が誰なのかに気付いていたから。だから声を上げられなくて。
 その人は笑う。「君から言う本物だよ」と。
 使用人の格好をして。多分使用人の暮らしをして。本物なのに本物の生活を送らず、影武者の僕ばかりが王子として世間に映って。
「…?」
「君は。名前」
「……ルピ」
 ぼそりと、自分の本当の名前を言う。その人はやっぱり笑った。「ルピか。ごめんねようやくで。すんごく厳重に警備されてるもんだから会いに来ることもできないで」と言われて明後日の方向を向く。
 本物の王子に偽物の王子が何を言えばいいというのか。
 その人は笑うばっかりで。影武者の僕をなじるでもなくけなすでもなくそこで笑っている。
 影武者がさも王子かのように振る舞い表立っているのには理由がある。
 黒の歴史が再び動き出そうとしていると、預言師が詠んだのだ。封印されし邪神が再び蘇ると。
 もちろん詠まれただけの預言だ、ただの空言ならそれでおしまい。だけどその嵐は確実に迫っていることを預言師という職を持つ者誰もが詠んだのだという。それを本気に取った王様達がしたことがこれ。雷神の力を受け継ぎし直系の王子を守るため、邪神と対抗できるその雷神の子を守るために、僕という影武者を立てた。
 本来なら公の場以外では王子と扱われないのが影武者。王子は表舞台に出ないだけで城では王子でいればよかった。だけどそれすらもひた隠すほどに王様達は信じていた。預言を。
 それは未来予知だ。未来を詠んだ人々が揃って同じことを言う。邪神が蘇ると。そして雷神もまた、と。あの暗黒の歴史が繰り返されると。
 雷神。それを受け継ぐのが、右腕に雷の紋章を持つ人。そしてその人こそが王子。
 僕の右腕には何もない。だって僕は王子の偽物だから。
 本当の王子は来るべき刻に来るべき神を携え、邪神を討つため、自分を投げ打つのだ。
「…なんで今更」
 そう言葉を絞り出す。その人は笑って、あろうことか僕を抱き締めた。何が起こったのか呑み込めずにいる僕の頭に撫でて「ありがとうって。それからごめんって、言いに来るの遅すぎるだろって話なんだけど」それでそんなことを言われて僕は唇を噛んだ。
 この子がいい。そう言って僕にマントを被せたあの瞬間。どうして僕はその顔を忘れてしまったんだろうか。この人なのかどうか分かりゃしない。だけど右腕に雷の紋章があるならこの人が王子。王子なのだ。あのとき僕を選んだ人なのだ。
「腕。隠さないとバレるよ」
「あ、そうだ。はりきって腕まくりしちゃったんだ」
 その人が頭上を見上げる。だから同じように見上げてぎょっとした。お城の尖塔の一つからロープが伸びていた。道なき道を伝ってこのバルコニーの上まで。
 どう見ても途中で途切れてる。それでこの人は落ちてきた。そこまで考えてはっとして「足、王子足はっ」と慌てた。もしも本物であるこの人に何かあったら僕はどうなるんだ。
 だけど慌てる僕とは対照的にその人は笑って「へーきへーきあれくらい。っていうか王子って言っちゃダメだよ。それ俺が言わないといけないんだから」と言われて「そ、うだけど」と言葉に詰まる。やりにくい。何なんだこの人。
 まくっていた袖を戻しながら、その人に解放されて後退る。距離を取りたくなる。誰もこんなふうに接してこなかった。僕を影武者と知ってる人は僕を蔑むような目で見るし、僕を王子としてしか知らない人は僕に恭しく接する。誰もこんなふうに、抱き締めたり、しなかった。
 こういうときどうしたらいいのか。僕には分からない。
「十年たっちゃったね。ごめんね、十年も身代わりさせて。それで今日が初めましてで。俺頑張って抜け出そうとしてたんだけどすぐ捕まっちゃってさ。会いに来るのこんなに遅くなっちゃった」
「……十年?」
「そう。もう十年になるよ」
 十年という言葉に呆けた。王子になるために一生懸命で、毎日が忙しくて忙殺されていた。十年。僕が王子になってからもう十年も。
 似てる似てないとかは関係なかった。実際すごく似てない。黒髪は一緒だけど瞳の色は違うし、何より背丈が頭一個分くらい違うし。だけど十年もやってたなら誤魔化せるものなのかもしれない。十年も、僕は。
 その人が僕に向かって頭を下げる。「ごめんね」と。僕はどうしたらいいのか分からなかった。こんな日が来るとは思っていなかった。だって本物の王子に頭下げられるだなんて。
「許してとは言わないから、ルピ。ほんとなら俺が王子って胸張るべきなのにごめんね」
「、謝られても、どうしたらいいのか…分かんない」
「それもそうか」
 ぱっと顔を上げたその人が僕の手を掴んで「おー俺の部屋! 実に十年ぶり!」とか笑うから。僕はどうすればいいのか全く持って分からなくて。だってこんな日が来るだなんて思ったこともなかったから。
(っていうか…いいのかこれ)
 バルコニーを振り返る。手を引っぱられるままに部屋に連れ込まれたけれど帰り、帰りを考えてるのかこの人は。
「あの」
「んー?」
「帰り…どうするの。登れないよ」
「……あー」
 がしがしと頭をかいたその人が「そこら辺はまぁ、ね」とかウインクしてくる。まぁねって何。もしかして考えてないんだろうかこの人。あれだけ派手にやっておいて。
(……これが王子?)
 はっきり言って、僕は呆れていた。だって馬鹿っぽい。偽物の僕が言うのもなんだけど馬鹿っぽい。格好が使用人だからだろうか。王子の格好をしたらこの人は様になるんだろうか?
 ぼふとベッドに座ったその人が「あーふかふか! そして広い!」とごろごろベッドを転がる。
 …ほんとにこの人王子なんだろうか。
「…あの」
「んー?」
「人、呼んでいい?」
 ベルを持ったらがばと起き上がってこっちに飛んできたその人ががしと僕の腕を掴んで「駄目っ!」とはっきり言う。「だってまだ全然喋ってないじゃん!」と。僕は顔が近いと思いながら一生懸命逸らして「王子と話すことなんて何も」「嫌だよその呼び方。って言って」「…それだって本物の」「俺は君のことをルピって言うよ」と言われて。言葉に詰まる。本当の僕の名前。それにこんなふうに接してくれる人は、他に、いない。
「…分かった呼ばない」
 だから息を吐いてかたんとベルを置いた。その人が笑って「ありがとう」と言うから、僕は面食らう。影武者にありがとうってなんだ。何なんだこの人。ほんとに、一体。
 そんなふうにして、僕は本物の『王子』に、実に十年ぶりに再会したのだった。