目を閉じて浮かぶのは、

 ようやく会えた影武者の子は、十年前に憶えのある女の子みたいなかわいさを残したままだった。白い肌もアメシストの瞳もきれいなままで、少し疲れたみたいな顔色をしていたけど、でも元気そうだった。
 もう寒さに凍えてはいないし空腹を耐えてはいないだろう。そこから救い出せたことだけは、よかったかなと、思ってたんだけど。
 その子は名前をルピと言った。
 俺の代わりを演じる子。王子として扱われる子。俺は使用人って立場で城にいる。名ばかりで仕事をしてるかと言われれば暇でしてることもあるけど、基本自由で。だから俺は隙を見ては影武者をしてるその子に会いに行こうとしてたんだけど、その度に掴まって掴まって。そもそも勉学とかその他もろもろはやっぱり授業としてあったから時間も削りに削られて。
 結局、十年もかかってしまった。あの日から再び会うまでに十年。

 邪神が蘇る暗黒の時代が訪れるとされているこの暦。雷神の直系の子である俺の右腕に刻まれている雷の紋章。もしもそんな時代が訪れた場合の対処法は俺。俺を使い雷神を呼び出すこと。そうして邪神に対抗する。過去にそうして暗黒の時代に終わりが訪れた。だからもしも、もしもそんな場合が訪れた場合の備えだこれは。馬鹿かって話だけど、俺の両親はそれを信じ込んでいたから。
 黒の預言書やその預言書を正とする組織。歴史の端々に登場し暗躍しているその組織を、両親は信じ込んでいたから。
 だから十年前のあの日、友達を選びなさいと言われて連れて行かれた寒くて暗いその小屋で。目の前で寒さに震えるアメシストの瞳に見上げられて、俺は自分のマントを外してその子にかけていた。この子がいいと、そう口にしていた。
 それが友達選びなんかじゃなく、影武者選びだったんだと、知る由もなく。
(黒の預言書ね。ほんとかな)
 こっそりと柱の影から顔を出す。上下左右確認。よーし誰もいない。今はパーティの最中でいつもの厳重な警備も手薄。だから俺もあっさり目当てのものを入手できた。コックの上下の格好。これなら料理のカートを押して会場に入っていけば顔見知りでない限りバレやしないだろう。
 今日も王子として、あの子は俺の代わりに王子を演じている。
(酷い話)
 だから俺はあの子に対してとても申し訳ない思いを抱いていて。あの寒くて暗い場所から連れ出せたことはよかったんじゃないかと自分に何度も言い聞かせてきたけど、結局十年も言葉を交わす機会がないままここまで来て。
 言い訳もいいところだ。分かってる。俺はあの子に言い訳したいんだと。
 許してくれなんて都合のよすぎる話だ。俺自身両親に騙されていたとはいえ、俺はあの子を選んだ。それは事実。だから俺だってほんとは色々、友達選びって言われてたから本当に友達を選ぶつもりでいたから。だから本当に、本当に本気だったのに。
 両親を、怨んじゃいない。それはこの国を思いまぁちょっとは俺のことも案じてくれての影武者仕立てを選んだのだろうから。
 だけどルピは、かわいそうだ。望んだわけでもないのに王子を演じる強制的な日々を続けてきて、あの子は疲れている。
 あのままあんな場所にいて育っていたらちゃんとした道を行くこともできなかったろうし、そもそも飢え死にしたり凍死したりしてたかもしれない。それを思えば満たされてるのかもしれない、ここは。
 だけど心は。心は物じゃ満たせない。
(よーし)
 何気ない顔で厨房に入る。「次はこれかい?」と声を上げれば「おぅよ! 急いでくれ、足りてないらしいんだ!」と俺を王子だとは露知らずの声が飛んできて、別のところから「さっさと行ってこい!」と一喝された。うへと肩を竦めてがらがらとカートを押しながらあーいいにおいと思って、思いながら広間の方へ行く。
 がやがやと人混みの音を聞きながら会場に入って、ルピはどこだろうと視線を巡らせる。王子の格好なんて久しくしてないからどうにも憶えてない。きらびやかな色が溢れ返る広間で目を細める。ルピは、ええと。
 その姿を探しながらがらがらとカートを押していく。「おせぇぞ、次だ次!」と押さえた声で言われて「了解っす」と返してカートを預けてコック姿の誰か知らない人にカートをバトンタッチして踵を返して。
 そうしたら視界の端に黒い髪が見えて、視線で追えばルピがいた。誰か知らない、多分どこかの貴族の子なんだろうお嬢様と一緒にいる。
(ああ…そういえば婚礼の歳。か)
 俺ももう18だったと思う。ルピが18かどうかは知らないけど一応あるんだ。形だけだろうけど。
 どうせ声なんてかけられやしないから、とりあえずその姿を見つめて、視界に収めて頭に焼きつけて。どうにか笑ってるって笑い方をしてるルピに胸が痛くなった。
 嫌な役をやらせてる。そんなことは分かってる。本当なら俺がするべきなのに、あの子は俺の代わりにあんな場所に立って。きっとすごく嫌だろう。だから疲れた顔をしているんだろう。そんなこと分かってる。
 だからってコック姿の俺が出て行ったところで何が変わるわけでもない。むしろ余計に俺への警備が厳重になって、きっともう二度と会わせてもらえない。
 それは嫌だったから。だから俺は視線を外した。柱の影にある厨房へ戻る道を辿り、コックの帽子を握り締めて床に叩きつける。
(ああくそ)
 王子のくせに俺は無力で。親の言うがままで。
 右の袖をめくる。そうするとそこには雷の紋章がある。気付いたときから刻まれていたその紋章が、雷神の直系の証なのだという。だけど全然実感なんてない。力を使う暇もなかったしそもそも俺は預言を信じちゃいない。
 黒の預言書というものがあり、それを正とする組織があり、その預言書が記すがままに動くのだという組織がある。黒の組織。だけど俺はそんなもの信じちゃいない。度々歴史の端に顔を出す黒の使徒。だけど俺は信じちゃいない。だって俺の目で見たわけじゃないんだから。
 それなのにそれを信じている両親のせいで、本当に、十年も城で缶詰状態で。俺だっていい加減限界だ。
 俺の両親だって黒の預言書なんてそんなお伽噺信じちゃいないだろうって思うけど。だけど実際俺は再び黒の歴史が動くと預言されたせいでこうして無理矢理な生活を。
(ルピと話したい。もっと話をしたい。もっと一緒にいたい)
 ぐしゃと前髪を握り潰す。
 俺はあの子に笑ってほしい。だってそう思って、俺はあの子の手を取った。
「くそ…っ」
 実感するのは自分の無力さ。だんと壁に叩きつけた右の拳がただ軋む。無力を訴えるように。
 そのときだった。ぱり、と身体を何かが走ったのは。
 どくんと右腕が鼓動する。刻まれている紋章が痛む。思わず押さえつけて大きく息をした。
(なんだ? 痛い)
 どくん、と心臓が大きく鼓動する。それから広間の方で悲鳴。弾かれるように顔を上げて考えもせずに駆け出した。悪い予感。右腕が熱い。紋章が刻まれている部分が熱い。熱い。
(ルピっ)
 広間に駆け込む。ばさと目の前を黒いマントを着た誰かが駆け抜けた。ばちんと右腕で何かが爆ぜる。右腕から右肩にかけてまである紋章が熱い。まるで警告か何かのように。
「ルピっ!」
 叫ぶ。顔を上げたルピが目を見開くのが分かった。あいつの名前を知っていて呼べるのは極小数。そして俺はその一人。

 黒いマント。それは黒の歴史を正とし黒の歴史を遂行する黒の使徒。黒の預言書、そう呼ばれるものの使徒。それはつまり、邪神を目覚めさせようとしている、邪神によって世界を征服しようとしている、その力に唯一対抗できる王子を敵とする、組織。
 預言の通りなら。預言者の誰もがそう詠んだその通りなら。それなら黒の組織は本当に実在し動き始めている。
 そしてその目的は。邪神の封印を本当に解くのだというのなら。そして邪神が世界を支配することを正としているのなら、そいつらにとって俺は、王子は。雷神の直系の子は邪魔でしかない。

 ばち、と右腕で雷が爆ぜた。黒いマントの使徒が鈍く光る刃を振り上げるのが見える。剣。誰よりも素早すぎた使徒に控えていた兵士がルピに駆け寄る暇はない。
(俺に力があるって言うんなら、俺が雷神の直系だって言うんなら! あの子を守らせろっ!)
 右腕を突き出してばちばちと帯電する腕を感じながら構える。頼む頼む頼むと願いながら。
 そして、ルピに刃が振り下ろされるよりも早くばちんと使徒の手から剣を弾いた。雷。走った閃光。どくんと暴れる心臓をもう片手で押さえつける。駄目だまだ。まだ。まだ。
「言うこときけよ、俺の力だろうっ!」
 叫ぶ。まだ駄目だ。使徒は生きてる、生きてる。まだルピを殺そうとしている。その懐からまた刃。兵士がルピに駆け寄ろうとしている。だけどやっぱり遅い。
 全てが止まったかのようにゆっくり流れる時間の中、ルピが俺を見たのが分かった。遠かったけど目が合った。ようやく目が、合った。
 そのときドォンと音を立てて雷が落ちた。使徒だけに。
「、」
 崩れ落ちる使徒と、ルピに駆け寄る兵士と、そのルピが俺に向かって何か言っているのが分かったけど聞こえなかった。手を伸ばされた。と、もしかしたら呼んでくれているのかもしれない。だから俺は薄く笑う。俺の名前を呼べる奴だってそう多くはない。だって俺はここでは使用人で偽名なんだから。
 は、と息を切らせながらどんと壁に背中をぶつける。視界が霞む。心臓が痛い。右腕が火傷したみたいに熱い。熱い。伸ばされている手に手を伸ばし返したかったのに、もう腕も動かない。
(くっそ。これくらいで…っ)
 ぜぃと息をする。両親は明らかにルピではなく俺を見ていたし、その顔は驚きが大きかったけどどうしてここにいるんだって顔もしていたし、広間は焼け死んだ使徒の姿に阿鼻叫喚となっていた。だけど何より右腕が熱い。肩にかけてまでが熱い。熱い。意識が、
(ああ、くそ)
 そうして次に目を覚ましたとき。次に意識が戻ったときは、見覚えのない部屋だった。
「あ…?」
「、
 憶えのある声に一つ瞬きする。俺を覗き込んだのは他でもないルピだった。「ルピ」と思わず安堵の息が漏れて、右手を伸ばそうとしたら動かないのに気付いた。遅れて痛み。息を詰めて右腕に視線をやる。っていうか俺なんで上着てないんだ。右腕、おかげでよく見えるけどさ。
「ばか、僕は影武者なのになんで出てきたの、無意味じゃんか。王様達怒ってたよ」
「…だって、俺、ルピを守らないとって」
 だから左腕を伸ばしてその頬を撫でた。なんだか泣きそうな顔をしてるから俺は逆に笑う。泣かないでと笑う。「ルピはどうしてここに」「うるさい、無理言ってここにいるんだよ。ほんとに君ってばかでしょう」と言われてまた笑った。馬鹿。確かにそうかも。
 ぐっと腹筋に力を入れて起き上がる。右肩から下が動かない。じんじんしてる。ちょっと痛い。「寝てなきゃ、腕のいい医者呼ぶって言ってたから」というルピに緩く首を振る。左腕でぐっと右腕を握った。まるで麻酔でもかかってるみたいに鈍い痛みしか分からない。
 これは多分。医者とかじゃどうにもならないだろう。
「…力を。使えたんだ」
「え?」
「雷神の直系。その力、ちょっとだけ。お前を守りたかったから」
 心臓を押さえる。少し痛い。もしかしたら雷神の力って身体に負担がかかるんじゃないのか。っていうかそうだとしか考えられない。神とまで呼ばれる力が簡単に人に扱えるだなんて、そんなの都合のいい話すぎるし。
 そう思って顔を上げたところで、やっぱり泣きそうな顔をしてるルピがいて。「君、分かってる? 君が無事じゃないと意味ないんだよ」と言われて。俺は弱く笑って返した。
「俺はルピと一緒にいたいんだ」
「、」
「初めて会ったあの日。本当はね、俺は俺の代わりを選ぶだなんて知らなくて、両親には友達選びだって言われてた。だから素直に友達になりたいってお前のこと選んだんだ。俺」
 心臓を押さえて深呼吸する。「ごめんね、言い訳だけど、ほんとなんだ。だから俺、お前を影武者とかそんなふうには思えない」と言い切る。ああくそなんかちょっと鼓動がおかしい。気が。
 どくん、と大きく鼓動する心臓。ルピが泣きそうな顔で笑って「君ってばかだよね。今更そんなこと」そう言って涙をこぼした。だから俺は困ったなと思って左腕を伸ばす。右腕は動かないんだよ。
 ベッドに腰かけるようにしたルピを片腕で抱き締めて、「ごめんね。でも俺ほんとにお前と友達に」「うるさい。遅い。無理」「やだよ。俺はお前を、守りたい」そうこぼす唇から力がなくなって、座っているだけの力がなくて背中からベッドに倒れ込んだ。は、と深呼吸する。熱い。
 ルピが俺の額に手をやって「熱、あるよ。」と俺を呼ぶから。だから俺は笑った。王子とは呼ばれても名前では呼ばれない。それがこの場所での今までだったから。使用人のときは偽名だし。
「ルピ。俺、お前のこと」
「もういいよ、分かったから。誰か呼んでくる」
 俺から離れようとするルピの細い腕を掴む。振り返ったルピの目から涙が散った。
「そばに、いてよ」
 誰か来たらルピはここからいなくなるんだろう。いやいられなくなる。だから俺はそう言った。離れてほしくなかった。少しでもそばにいてほしかった。そばにいたかった。心から。
 ルピがぐいと目元を擦って笑う。「僕がいても治るわけじゃないんだよ」と。だから俺も笑う。「それでもルピと一緒にいたい」と。
 ルピがしょうがないなってふうに笑った。ベッドのふちに膝をついて「ばか」と俺を罵るから、俺は別に馬鹿って言われてもよかったから笑って。どくどくと鼓動する心臓が痛いくらいだったけど、満足だったから、笑った。
(お前を守れた。力、ちゃんとあるんだ。俺…お前を守れるよ。ルピ)