右腕にぴりっとした痛み。うとうとしていた意識が痛みで醒めて、ぱちと目を開けて霞む視界を凝らした。 最近よく痛む。あのパーティ以来黒の使徒の影は見つかっていないし、もしかしたらあれは黒の預言書の存在を信じ込んだ狂人による襲撃だったのではないかなんて楽観視した見方まででてきている今。それでも空は暗く淀み、太陽は隠れ、長くその姿を見せていない。 ぎし、とベッドを軋ませて起き上がる。右腕を押さえれば、ぴりっとした痛みがある。 「…っ」 少し痛む。この痛みは他人に説明するならなんて言えばいいんだろう。静電気にも似たもの、かもしれない。最近よくそうやって痛む。まるで何かが近いとでも報せているかのように。 はぁと息を吐いて髪をかき上げた。だいぶ長くなってきたからそろそろ切りたい。でもこの間切りたいんだけどなぁとぼやいたらルピがまだ見てたいと言って俺の髪に触れたから、だから切るのは先送り。して、もうどれくらいだろう。 ルピと一緒に生活できるようになって、俺が望んでいた生活ができるようになって、そろそろ月もいくらか過ぎた。そして空模様はだんだんと悪くなり光が入らないようになってきていた。 預言師は詠んだ。期は満ちようとしていると。それはつまり、邪神の復活が近いことを意味していた。 (…やだなぁもう) 溜息を吐いてベッドから下りて、赤い絨毯の敷かれている床を踏み締める。 本当なら別々にあったベッドをわざわざ真ん中に持ってきて一つに合わせた。おかげでベッドは広すぎるくらい。天蓋もついてて外からは隔離。俺とルピは一緒に眠ってる。 「…痛い」 呟いて、右腕を押さえる。 きぃとバルコニーへ続く扉を押し開けた。息を吐く。白く濁る。空は黒い。 誰の目に見ても、変化は起きていた。 だから本当にもうそろそろなのだ。俺達の警備は厳重になっている。ルピは王子、俺はそのルピの義理の兄って立場で、そして雷神の力を扱える者として。本当は俺が王子でルピには何の力もないんだってことは、一部の人以外知らない。だからそのときになったならルピは逃がさなくては。王子としてではなく一人の人として外へ。 この城の向こう、街から隔離されこの城からだけ続く道で行ける唯一の場所にある、邪神が封印されし間。警備は厳重になっているだろう。誰もが知ってる。俺もルピも。 俺は、俺のためにも、ここに立っている。 ちょっと辛いしちょっと痛いし、ちょっと泣きたいけど。でも俺には誰よりも守りたい子がいるから。だから逃げるつもりはないし、そのときが来たなら受け止めるつもりでいる。ルピを守りたいと願ったときに放てた雷の一撃。たったあれだけであんなにも疲れた。邪神なんてとてつもないものを滅ぼせるだけの力を使うとなれば、俺は恐らく。 ごつとバルコニーの白い手すりに額をぶつけた。石でできたそれは夜の冷たさも含んでただひんやりと冷たい。 (それでも、俺は) 「?」 そうして右腕を押さえ込んでいたとき、呼ばれた。振り返る。目を擦りながらベッドから出てきたんだろうルピが「何してるの。まだ朝じゃないよ」と言うから笑ってそばに行った。ぎゅうとその身体を抱き締める。俺よりも小さくて俺よりも華奢な女の子みたいな子を。だけど十年も俺の代わりをして、影武者で身代わりである子を。 「起こしちゃった?」 「…だっていないから」 「ごめんね。ちょっと目が覚めただけ」 不安を隠すように拗ねた声を出したルピの顎に手をかけてキスをする。寝ぼけ眼だったルピが目を閉じて、求めるように俺の首に腕を回す。だから俺は余計に強く、その細い身体を抱き締める。 分かっていた。男同士だってちゃんと。間違ってるってちゃんと。だけどルピは俺を拒絶しなかった。俺はルピの友達になりたいんだと思っていたけど、だから尖塔から無理矢理抜け出してでも会いに行ったんだと思っていたけど、だからあのとき雷神の力を使ってでも使徒を殺したんだと思っていたけど。違った。俺はただルピのことが好きなだけだった。好きだから失いたくなくて、好きだから会いたかった。ただそれだけだった。 十年前のあの日、俺はルピのことをきっと好きになってしまったんだろう。 自覚するのが遅すぎたけれど、俺がこの子を守りたいと思うのは好きだからなんだと。俺がこの子と一緒にいたいと願うのはただ好きだからなんだろうと。そう思ったのだ。 だから俺はたとえこの身が滅びようとも、この子のために、散る覚悟でいた。 邪神の力なんて知らない。ただ邪神とまで言われるんだからすごいんだろうってくらいだ、分かるのは。過去の書物だって曖昧にしか記してないしそもそも記してるもの自体が少ない。そこで一度人は滅びそうになっているのだ。そのことを書いている書物は少なく、発見されたいくつかの書物には、唯一邪神に対抗できたのは雷神の力だったと記されていた。当時英雄と呼ばれしその人は雷神と契約を交わしたのだという。街を救う力を、邪神を滅ぼすだけの力をその身に宿し、命をかけて邪神を封印したのだと。 俺がそうあれるかは分からない。そんなふうに立派になれるかどうかは分からない。っていうかむしろ無理なんじゃと思ってる。俺は別に雷神の民と呼ばれるこの街の人が好きなわけじゃなかったし、両親みたいに国を治めてるんだって意識も薄い。 だけど、守りたいものがあった。だから俺は街のために何かはできなくても、守りたい人のためになら力を振るうことができると思っていた。 この子のためなら俺は、と。 「…空が暗い」 「ほんとにね」 白い息を吐くルピを抱き締めたまま空を見上げる。この頃の空は暗雲が立ち込め昼間も薄暗い。まるで本当に暗黒の時代が訪れたかのように。 そこでルピがくしゅんとくしゃみをしたから慌ててバルコニーから引き返して部屋に戻った。ぱたんと扉を閉じて「ごめん、寒かったね」と言う。だけど俺の右腕はじんじんと熱を持っていた。そのせいで身体も熱くて感覚がよく分からない。 ルピが手を擦り合わせて息を吐きかけながら「ベッド戻ろうよ。寝よう」と言うから、その手を取ってベッドの方に行く。 よいしょと上がってごろんと転がった。最近すこぶる右腕の調子がよろしくない。溜息を吐きたくなる。近いって言いたいのか。定められた時が近いと。邪神が蘇るときが近いと、そう言いたいのかこの腕は。 右腕を天蓋へと伸ばす。滑り落ちた袖の下に覗く、刻まれし刻印。雷神の直系の証であるその紋章。 ルピが俺の腕に掌を当てた。ゆっくり撫でるようにしながら「痛くない?」と訊くからちょっと笑う。「実は痛いんだ」と言えばルピが少し悲しそうな顔をするから、俺はルピのそんな顔が見たくなくて「いいんだよ。気にしないで」と言う。どうせどうにもならないことだ。運命ってやつだ。拒否したって仕方ない。受け入れる以外。 ルピが俺の上に乗っかった。一つ瞬きする。「何?」と首を捻れば、「別に」とそっけない返事。俺の胸に頭を乗っけてルピは目を閉じた。心臓の音でも聞いてるんだろうかと俺は首を傾げる。 「あ、のね」 「? うん」 「あの…僕ら、キス以外、したことないでしょ?」 「そうだね」 「あの、だから…その」 俺の胸に顔を埋めたままのルピ。また一つ瞬きしてその髪を撫でた。 何が言いたいのかは、そこまで言われたら分かっているつもりだ。だけどそれは、 そこでかっと外で雷鳴が轟いた。天蓋の中にまでそれが届いて、右腕にびりっとした痛みが走って息を詰める。ルピが顔を上げて「」と心配そうに俺を呼ぶから、どうにか笑って「大丈夫」と返しながら起き上がった。ああくそこんなときに限って。 「ルピごめんね。無理みたい」 ごろごろごろと外で雷鳴。ルピが唇を噛んだ。「僕は何にもできないのかな」となんだか泣きそうな顔をするから思わず笑う。こつとその額に額を当てて「できるよ。俺はお前のためにここにいるんだから。だからね、全部終わったら、俺お前のこと抱きたいな」と言う。ルピが涙で潤んだ目で俺を見た。だから俺はその髪を撫でつけてキスをする。舌を絡める深い方。 外が騒がしくなっている。街からは悲鳴が。そして城内では甲冑がぶつかり合う音が。そんな中舌を絡めてキスをする。最後だとは思いたくない。最後にしたくはない。だけど。 期は、とうとう満ちたのだ。 |