本当に望んでいたことはただ、

「王子、おられますか王子っ」
 どんどんと無遠慮に扉を叩かれる。が僕より一足先に着替え終わって「はいはーい」と返事をしてがちゃんと扉を開けた。いつものような声で、いつもとは違うって分かっていながら。
 扉の向こうにいたのは神官。僕を影武者だと知りを本物の王子と知っている人の一人。
 もう老人に近いその人が「黒き法衣を纏いし者達が現れました。王子」そう告げたその人にに言う。は笑う。それは多分僕に向けるものとはまた別の、優しい笑みを。
「分かってるよ。城の皆の避難を頼む。それからルピのことも」
「は」
 畏まった老人が頭を下げた。そうして「申し訳ありません。我々が操ることのできる小さき雷では無力なのです」と、初めて参ったような声を出した。僕はに歩み寄ってその手を握った。が僕に笑いかける。大丈夫だよという笑顔。
 外では悲鳴が、そして怒声が、罵声が、血のにおいが溢れている。
「封印の間へ侵入させるな。それが無理ならせめてその足を遅らせてくれ」
「畏まりました」
 がしゃんと鎧の音がして、現れた兵士が僕の腕を取った。「」と縋るように声を出す。は微笑んだまま「行ってルピ。俺は行かないと」と言って兵士に連れられる僕を見送った。最後まで笑ったままのに手を伸ばす。
「やだ、やだよっ、!」
「…またね」
 がそう言って笑う。笑って神官の人に続いて行ってしまった。僕の視界からその姿が消える。
 兵士の人に連れられるまま僕は自分の無力を悟った。
 雷の紋章。恐らく儀式か何かによって呼び出す気なのだ、雷神そのものを。の身体を、その紋章を媒体にして邪神が復活する前に黒の組織を殲滅するかそれとも封印の間ごと邪神を滅するか。
 ぎりと拳を握る。
 僕は、無力だ。こんなにも。それなのには僕のために頑張るという。笑って大丈夫だよと。
(ちゃんと言えばよかったんだ。ちゃんと言えばよかった、全部)
 声がする。街の方では火の手が上がっている。黒の組織というのがどのくらいの戦力があるのかなんて知らないし、ただその目的だけははっきりしていて。そして僕は、無力。
 は僕を逃がせと命じた。だけど僕はそうはならないと思っている。だって影武者で身代わりだもの、王子だもの。偽物だけど王子だ。だから僕がやらされるだろうことなんて分かってる。
「…、」
 ただそれでも、やるしかないんだと。それだって分かってる。
 ぱり、と帯電した自分の左腕を見た。僕が使える雷も小さなもののみ。せいぜい相手の武器を弾き飛ばすくらいの力しかない。のように誰かを焼くほどの力はない。
 それでも。影武者らしく、僕はやるしかない。時間稼ぎにしかならなくても。が僕のためにと、そう言ったように。
◇  ◇  ◇  ◇  ◇
 条件があった。俺が雷神を宿すことに異存はない。そのために大事に慎重に生かされていた命だとも理解してる。
 だから俺は両親に条件を一つ提示した。この身体を捧げる代わりに、ルピを逃がすこと。それが成り立たないなら俺は儀式を受けるつもりは毛頭なかった。そのためだけに戦うつもりだった。俺は両親の期待を裏切ることになったのかもしれないけど、それだけは譲れない事実だった。
 最後にその約束くらい守ってくれてもいいだろうと思ってた。ルピのことを友達選びだと言ってみせて、実は王子の身代わりを仕立てるだけの人材選びだなんて知らなかった俺。友達を選ぶんだと思ってルピの手を取り、十年も身代わりをさせる牢獄へ引きずり込んでしまった。両親のせいだと言えばそうだ。俺達の出会いは両親の嘘と策略から始まった。だから俺は、その嘘は許した。ルピと俺を出会わせてくれたのだと前向きに考えるようにした。
 大丈夫。息子との最後の約束くらい、親なんだ、家族なんだ。守ってくれる。
 だけど途中、儀式の間へ向かう道すがらでばちと右腕が爆ぜた。さっきから痛くてしょうがなかったのにさらに痛く。
(何だよ)
 ぐっと右腕を押さえつける。「もう少しですぞ王子」と言われて顔を上げる。悲鳴。阿鼻叫喚。溢れるのは鎧を纏い武器を手にした兵士の姿ばかり。
 ここにあの子はいない。ちゃんと逃げて。
 びり、と腕が痺れるように痛い。
(……まさか)
 俺の歩みは止まった。俺を率先するように歩いていた神官の爺も歩みを止め「王子お急ぎ下さい」と言う。だけど俺はこれ以上先に進む気が起きなかった。
(父さんも母さんも最初から…何一つ守る気なんてないんじゃ)
 最初に言った言葉。友達選びよ、という言葉を信じた俺。だけど実際は影武者選びだったそれ。
 この腕が最初に痺れたときに、俺はルピの危機を悟ったのだ。
 だから踵を返した。かつと歩み出せば両脇を固めていた兵士がガシャンと槍を交差させ目の前を塞ぐ。
「退けよ」
「王子」
「ルピを囮に使うんだろう?」
 自分の声が信じられないくらい冷めているのに気付いていた。頭も氷水でもかけられたみたいに冷たくなっている。
 俺は何度だって説明した。ルピがいるから俺は俺を捨てられるのだと説明した。ルピの無事が約束されないなら意味はないと。力を使うつもりはないと。両親は約束した。必ず逃がすと。俺の意思を汲むと。
 だけど俺の両親はいつだって俺の力を見ていて、俺自身を見ているわけじゃなかった。
「退けよ」
 ばり、と右腕が帯電する。左手で右肩から下の袖をびいと破って捨てた。紋章が淡く発光している。それを畏れるように兵士二人が一歩引く。腕を突き出しばちんと帯電するそれを行使した。ぱんと武器を持つ手が弾かれ槍が宙を舞う。
「ルピのところへ行かないと」
 勢いで転がった兵士二人を無視して俺はかつと一歩踏み出した。「王子」と背中にかかる声に肩越しに視線をやる。爺は俺を見ていたけれど、やっぱりそれは俺の力を見る目だった。
「王子。邪神に対抗できるのはあなただけなのですぞ」
「…俺はルピが守れないなら、そんなものいらないよ」
「王子っ」
 縋るように出される声に俺は背中を向けて走った。少しでも両親に期待した俺が馬鹿だった。国を治める人間はそのためなら息子の命も少ない誰かの命も捧げてみせるのだ。そんなこと十年も前に分かってたはずなのに。
 俺がすべきことなんてたった一つだ。十年前にあの子の手を取った。好きだった。十年間会えなかった。会えずじまいで王子の役職を押しつけじまいで、本当に申し訳ないって思って。
 だけど一緒に生活するようになって、言葉を交わす度に俺はルピのことがただ好きになっていく自分に気付いていた。ただルピのことを望む自分に。その唇に初めて口付けたときの感触をまだ憶えている。繋いだ手の体温を。そのあたたかさを。あの笑顔を。
 あの子が守れないんだったら。俺はもう、こんな世界、どうでもいい。
◇  ◇  ◇  ◇  ◇
(くそ)
 がらんと剣が落ちる。よりにもよって刃が欠けた。武器庫もっと充実させとけよと今更ながらに思った。手にしている盾で黒いローブを纏う奴の攻撃をぎりぎり防ぐ。一撃一撃が重い。躊躇いがなさすぎる攻撃に逆にこっちが躊躇う。
「…っ」
 どうやら僕はまだ王子だと思われているらしい。だから僕を守るように固めた兵士が次々減っていく。
 僕ら、というか僕を殺そうと黒の組織が戦力を割いてきた。予想通りだ。雷神の子は消すに限る、そういう思考。だから城の最奥にある封印の間へ行く前に僕らを消していこうとしている。
 持ち慣れない重い盾に、ぎしぎしと腕が軋んでいるのが分かる。
(ああもう。僕は力ないんだってば)
 もう片手を懐に突っ込んでダガーを抜く。それを薙いだ。人なら無理だろう高さを跳躍し僕の一撃を避けた相手はまるで獣みたいな動きで向こうの方に着地する。その間に「王子っ」と腕を引かれ中央に引き寄せられた。僕を取り囲むように兵士。そして、それを取り囲む黒いローブを纏った一団。
 はぁ、はぁと肩で息をする。左腕を突き出してばちんと敵一人の武器を弾いたけれど、僕にはそれくらいが限度。みたいに相手を殺すことはできない。そしてこれだけのことでも左腕が少し痺れる。
 くそと歯噛みする。どうせ時間稼ぎにしかならないって分かっていた。そして僕を本物の王子だと思い込んでいる兵士達は「王子をお守りしろっ」「雷神の民の誇りを捨てるな!」と声をかけ合い剣を振るい槍を突き出し戦っている。
 は、と息をする。盾が重い。
 こんな修羅場なのに、僕はどうしての笑った顔を思い出しているんだろう。
 どんと音。はっとして赤い血飛沫を上げる兵士を見やる。突っ込んでくる黒いローブを纏った相手。僕の腕を引いた兵士が「させるかっ!」と剣を振り上げた相手と刃を交える。がんと音。左腕がまだ痺れてる。
 ああどうして。ありもしない人の姿が、見えるんだろう。笑って手を差し伸べてルピと僕の手を取る姿が見えるんだろう。
 ごん、と僕の手から盾が落ちた。鉄製で、すごく、重い。
「王子っ!」
 兵士の誰かに声を上げられた。顔を上げる。頭上には剣を逆手に持ち切っ先をこっちに向けた黒いローブを纏う誰か。それを視界に収めるも、もう反射で動くだけの力が、僕には。
 ああこれで最後かと思った。影武者で身代わりらしい最後だ。王子と勘違いされて死ぬ。僕は王子じゃないけど、でもそれが役目だった。だからそれは多分間違ってない。王子と勘違いされたまま死ぬことは。
 だけど僕の目からは知らず涙がこぼれていた。と、今はここにいない人の名前を呼ぶ。唯一僕を僕として見てくれて、こんな僕のことを好きだと言ってくれた人のことを。
(本当なら最後まで。最後まで、僕はあの人のそばにいたかった)
 迫る刃に僕は目を閉じようとした。だけど、ドォンと雷が落ちた。ばちと稲妻が舞うその一瞬に目を見開く。
 前にもあった光景だったからだ。憶えのあった光景だったからだ。
 それは、パーティのときと同じ。僕を狙い黒いマントを羽織った襲撃者。それを焼いた雷の一撃。そしてその一撃を放ったのは、
「ルピ」
「、」
 その声に振り返る。突き出した右腕には淡く浮かび上がる雷の紋章。
 が。ここにはいちゃいけないはずの人が、立っていた。
「…なんで」
 僕は思わずそう漏らしていた。雷神継承の儀式受けるって言ってたくせに、なんでここに。どうしてこんな場所に。
 が右腕に左手をそえた。床に落ちた焼け焦げた使徒を無視して僕は駆け出す。転がる剣を拾い上げ、兵士の相手をしている黒いローブを纏う相手を斬り捨て走った。が何か言っているのが聞こえる。僕には分からない言葉。でも輝きを増す紋章が、それが何かを物語っている。
「やめてっ、!」
 手を伸ばす。顔を上げたが笑う。苦しそうなのにそれでも笑う。
 そうしてヴンを音がして振り返る。黒いローブを纏う奴らの上にだけ出現した雷の紋章。それが雷の槍を放ち全ての敵を貫き焼き焦がした。電撃の嵐に目を閉じる。ばちばちばちと耳にうるさい音。
 一瞬にして、敵は滅された。雷神の力で。
っ!」
 どんと柱に肩をぶつけて苦しそうに息をするその人に駆け寄る。崩れ落ちるその身体を抱き止める。
「あ、はは、ちょっと無理しすぎ、た」
 苦しいんだろう心臓を押さえ込んで、息を切らしてそう言って。それでもが笑うから。僕は涙の滲んだ視界でぎゅうとその身体を抱き締めた。
「ばか、なんでこんなとこに。雷神継承の儀式受けるって言ってたじゃない」
「だって、ルピが無事じゃなきゃ、意味ないんだってば」
「僕は影武者なんだよ、君の代わり! 君は世界を、救う人なんだよ。ねぇっ」
「…いらないよ。ルピが救えないんなら、俺はそんなの、いらないよ」
 息を切らせながらがそう言う。僕は膝をついてその身体を抱き締めた。涙が、止まらない。

 ああ全く本当にどうしようもない。この人も、僕も。こんなときになってもお互いのこと以外が考えられないなんて。
 本当に、本当に。この人はどうしようもない人だ。そして僕も、どうしようもない。どうしようもなくこの人に焦がれているのだから。こんなときでもまた会えたことがとても嬉しいのだから。
(こんなときだからこそ嬉しいのかも。どうでもいいやもう)
 ルピと、僕をそう呼んでくれる人がいるのなら、僕はそれでよかった。この世界が滅んでも、それでもいいとさえ思った。僕はと一緒にいたかった。ただそれだけだった。