英雄なんてものいらないから、

 ずり、と柱に肩を預けながら立ち上がる。ルピが心配そうに俺を見ていた。それから何が起こったのか理解できてないんだろうぽかんとした兵士がその向こうに見える。
、」
「だいじょーぶ」
 どうにか笑って右腕を押さえる。熱い。痛い。熱い。痛い。そればっかりだ。感覚もよく分からない。熱くて痛くて。
 だから左手でルピの髪を撫でた。「時間がないんだ」と言う。ルピが俺を見上げた。その頬を撫でる。斬りつけられたのか赤い筋の走っている頬を。そして涙を流しているルピを、緩く抱き寄せる。
「ごめんね」
 ドォンと城の奥の方で音がした。「、封印の間がっ」「皆急げ、黒の使徒を行かせてはならんっ!」我に返ったらしい兵士が声を上げ正面の階段を駆け上がっていく。がしゃがしゃと鎧の音を響かせて。
 俺はこの街のためになんて胸を張れるような奴じゃなかった。俺はこの国のためになんて言えるような奴じゃなかった。一人の人間だった。大事な人をただ守りたいと願う、一人の人間だった。
 残っている兵士の一人が「王子」と迷ったような声をかけてくる。俺はひっくとしゃくり上げるルピを腕に抱きながら右腕の紋章をかざした。
「お前も行け。黒の使徒をこれ以上先へ行かせるな」
 びしと敬礼した兵が「雷神の民として!」と声を上げ階段を駆け上がっていく。
 は、と息を切らせながら、ルピの頭に額をぶつけた。右腕が熱い。いや、身体も熱い。燃えてるみたいに。
「ルピ。俺はお前を守りたい」
「、わかってる。わかってるよ」
「だから俺は行かないと」
「僕も行く。一緒に行く。もう離れるのいやだ」
 ルピが顔を上げて涙目でそう訴えた。だから俺はやんわり笑ってルピの涙を拭う。
 右腕は相変わらず熱い。だけどルピに手を握られているんだということはうっすら分かる。うっすらだけどその体温が分かるんだ。
 だからまだいけると、根拠のないことを思う。
(俺は諦めてない。この国なんてどうでもいいよ。この街なんてどうでもいいよ。だけどルピのことだけは譲れない)
 だからルピと一緒に階段を上がる。雷を操る力のある者は全員封印の間やそこへ続く道を守ってる。だからそれが破られれば邪神の復活は必須。その前に俺は、封印を解かれる前に俺は。
 だけど重いものでも引きずってるみたいに身体が重くて。かつ、と階段を踏み締める一歩一歩が重たくて。

 ルピが俺の腕を肩に回して手伝ってくれる。だけど身体が重たかった。あれだけの使徒をこの手で焼き殺したんだ、一人殺ったときでさえあんなにも辛かった。意識を失うほどに。今だって視界が霞んでる。こんな状態の俺が行ったところで一体何ができるのか。
 それでも、俺の身体を支えてくれる体温のためにも、俺はまだ倒れられなかった。
「、」
 そうして辿り着いた封印の間へ続く道。ルピが息を呑んで歩みを止めた。俺は唇を噛む。
 そこは死屍累々の死体が転がるだけの場所と化していた。神官も黒いローブ姿の敵も甲冑姿の兵士も、全て皆倒れ伏し動かなかった。
 封印の間へ続く唯一である道も、倒れ伏している姿はあれど、動く者はいない。
「…もう遅いか」
 ぽつりと漏らす。俺の身体ももう限界だった。崩れ落ちる俺をルピが支えるようにして、だけどルピも限界なんだろう、一緒に倒れ込んだ。死者ばかりが転がる場所は血のにおいに満ちている。
 ルピが俺の胸に顔を押しつけて「なんで…なんで黒の預言書なんてあるの。なんで邪神なんているの。なんで君なのさ」と震える声を出すから。俺は動かない右腕をぎこちなく持ち上げてルピの髪を撫でる。分からない。いつものように動かない。体温が、感覚が、ない。
(…………、)
 拳を握る。その感覚さえ俺には届かない。自分の目で見て拳を握ってるって分かるだけ。
 約束した。全部終わったら俺はルピを抱きたいって。約束じゃないかもしれないけど、そう口にした。嘘にするつもりはない。両親みたいに嘘はつきたくない。だから俺はそれを事実に、現実に変えたい。
 もう雷神の力を使えるか分からない。身体の節々が痛い。まるで端からばらばらになっていくかのよう。
 だけどそれでも。それでも、俺は行かないとならない。この子のために。そして俺のためにも。
 ざしゃと膝をつく。「?」と呼ばれて顔を上げた。涙で滲むアメシストの瞳でルピが俺を見ている。
「ここにいな。俺は行かなきゃ」
「、やだ。もういいよ、もういい! 最後まで二人でいようよ、僕もうそれだけでいいよっ」
 俺に縋ってルピが首を振る。もういいからと言う。だけど俺は嘘にするつもりはなかった。ちゃんと全部終わらせたかった。だから死ぬつもりだってなかった。この身体はどうしようもないくらい脆いけれど、雷神の力の一部を使っただけでもこんなにもぼろぼろになる身体だけど。人間だから神の力なんて使えないのかもしれないけど、それでも俺はお前のために、まだ立たないと。
「全部終わらせて。そしたら、一緒になろう?」
「、」
「俺は嘘にするつもりなんてないよ。だから」
 だから唇を寄せてキスをした。右腕が熱い。さっきからもうずっと。
 ルピが涙をこぼしながら俺のキスに応えて舌を絡める。
 そのときだった。地を割るような咆哮が聞こえたのは。
「っ、」
 反射で右腕を跳ね上げる。動け動け動け動けと念じながら願いながらばちと帯電した腕を振りかざす。死屍累々だったその場所が、轟いた咆哮が衝撃波となって襲ってきたことにより全てが風に吹かれる枯葉のように吹き飛ぶ。ルピが俺の首に巻きつきぎゅっと目を瞑った。そんなルピを左腕で抱いて、俺は右腕の力を行使した。雷神の力を、神の力を。
 崩れ落ちる城の音。落ちてくるどころか崩れた端から恐らく吹き飛んでいる。その咆哮はそれぐらいの衝撃波となってびりびりとここまで轟く。
 俺はルピを抱き締めたままびしと音を立てた右腕に歯を食い縛った。身体中がばらばらになっていくかのような感覚。痛い。痛くて痛くて仕方ない。それに熱い。熱くて熱くて仕方ない。だけど負けられない。俺は、生き残る。
 過ぎ去った衝撃波。は、と息を切らせながら右腕から力が抜けてぶらりと垂れ下がった。
 咆哮のあとには何も残らず、城は瓦礫が残るだけの場所と化した。ルピが息を呑んで「あれ」と掠れた声を出す。
 俺にも見えていた。封印の間があった場所、邪神が封印されていた場所。神殿があったその場所ががらがらと崩れ去り、そうして烈火の如く燃え盛る六対の翼を持つ邪神が。邪竜が。見える。
 黒の預言書を絶対とする黒の組織にとっては成功なんだろう、それは。
 今、邪神の封印は解けた。
「…くっそ」
 右腕が動かない。ルピが心配そうに左腕で俺に触れた。そのとき少しだけ、体温が分かった。あたたかい温度が。それから微かな光が見えた。一つ瞬きしてルピの左袖をまくれば、淡く浮かび上がる紋章。
「ルピ、」
「あれ。僕、こんなの…あったかな」
 ルピが不思議そうに呟いて自分の腕に触れた。遠くでばさと羽音がして俺は顔を上げる。
 邪神の咆哮は地を割り、その爪牙は天を裂くほどの力。ここにいてもよく分かる。あんなものにどうやって対抗しろっていうんだよと歯噛みした。
 そしてその暗黒色の瞳がこっちを見る。俺達を。この場所を。
 だから構えた。ルピの左腕を取って、俺は右腕を突き出した。「」と呼ばれて俺はルピに笑いかける。不安そうな顔。今にも泣き出しそうな、恐怖に駆られた顔。だけどね大丈夫だよと俺は笑いかける。
「約束。全部終わったら、一緒になろうね」
「、うん」
 ルピが頷いた。俺は邪竜を睨みつける。咆哮を上げ爪を振りかざすその姿。まさしく邪神。ぎゅうと重ね合わせたルピの手を握り締める。
(俺に力があるって言うんなら。俺が雷神の直系だって言うんなら。俺に守らせろよ。大切な人を、守らせろよ!)
 念じる。願う。俺にまだできることがあるならしたい。俺の右手に左手を重ね合わせたこの子のために、俺は。
 あのパーティのときそうしてルピを助けることができたように。誰かを守るためにこの力があるのなら、今使わないで、いつ使う。

『覚醒めよ 勇敢なる右腕を持つ者よ 直系の力を受け継ぎし者よ』

「、」
 聞こえた声。顔を跳ね上げる。かっと音を立てて光の柱が俺達のいる場所を貫いた。ルピが「何これ」と不安そうな声を上げるから、その手をぎゅっと握り締める。邪神が咆哮を上げた。だけど光の柱に守られた俺達にそれは届かず街の方を破壊しただけだった。
(これ、は)

『かつて私は邪神を封印せし折 雷の槍を放ったが故右腕を失った。今その力を解放すれば、右腕はおろか全身が吹き飛ぶやも知れぬ』

「…
「……ああ」
 頭上には薄く、何かが見えた。多分竜が。邪神と対を成すような六対の透き通る翼と、輝くその姿が。
 ルピがぎゅうと俺の手を握り締める。「ねぇ」と不安そうな声を出す。縋るようなその瞳が言いたいことは分かっていた。
 俺の身体は確かに限界。もしもこれ以上力を使うんだとなれば、俺は粉々になる可能性だってある。右腕は僅かにルピの体温を感じるだけ。
 だから、俺は唇を噛み締めて顔を上げた。覚悟は、できている。

『御主にその覚悟はあるか?』

 その声に。ばさりと飛び立った邪竜に。邪神に。俺は雷神であるその竜を見上げて笑う。
 やるかやらないのか、なんて、決まってる。
◇  ◇  ◇  ◇  ◇
 自分の左腕に浮かび上がる雷の紋章。の右手と重ね合わせた左手。
 僕はを見た。は雷神を見上げて笑っていた。雷神の言葉なんて考えるまでもないのだには。だから笑ってる。
(全身が吹き飛ぶって。、)
、」
 だから呼ぶ。全身が吹き飛ぶって。そんなこと許せるわけがなかった。だけどもし今救いの道があるのだとしたらが雷神の力を使う、その一択だけ。分かってる。分かってる。分かってるけど、でも。
 頬を冷たい涙が伝った。
 僕にできることはなんだろう。は僕を守りたいと言う。分かってる。僕もを守りたい。一緒に生きたい。分かってる。それだけだ。僕はに会ってから心からそう願うようになったのだから。
(だから、僕にできるのは)
 ぎゅっとの手を握り締める。
 だから僕にできるのは、僕を守ると言ったを信じること。ただ信じること。

『ならば今こそ覚醒めよ。雷神の右腕よ!』

 降っていた光が止む。その代わりにの右腕が輝き出す。眩しいくらいの光にそれでも自分の左手を重ね続けた。負けるもんかと思った。邪神なんかに僕は負けてやらない、僕らは負けてやらない。
 光が眩しくて何も見えないはずなのに、僕にはが笑いかけてくれたのが見えた。

 だから僕はその手を強く握り締める。突き出したの右腕、それに重ねた自分の左腕。僕に何ができるのかは分からない、何もできないのかもしれない。ただそれでも、僕は信じる。この人をといる未来を。
 振り上げられる邪神の爪。咆哮。猛狂うその目。六対の翼。光の増す感覚。槍のように細く、暗雲を貫くように光の刃が顔を出す。雷の槍が。
(一人では耐え切れない力でも。二人なら大丈夫。僕らなら大丈夫。僕は、信じる)
 次に目を、覚ましたとき。視界に入ったのは暗雲ではなく、それが遠のいていく蒼い空だった。
「……、」
 身体が動かないのを感じながら視線をずらす。はと意識が求める。
 はいた。右腕も身体もちゃんとあった。瞼を震わせて「いって」と呻くとうっすら目を開けて、それから僕を見て。それで笑った。いつもみたいに。ぼろぼろのくせに笑った。いつもみたいに。
「成功、かなぁ」
「…、ばか
「まだ馬鹿って言うか」
 が笑う。僕は涙が溢れて伝うのが分かった。ほんとに君は、笑うばっかり。
 全身痛いんだろう「いっつ」と声を漏らして、は動くのを諦めた。僕の方はまだ手が動くのが分かったから、繋いでいる左手をぎゅっと握る。「ねぇ感覚は?」「あー、今はちょっと分かんない。全身痛い」と笑いかけられて思わず笑う。
 ああほんと、君は笑うことしかしない。

 暗雲は去り、視線を巡らせる限り邪神の姿は見えなかった。その声も聞こえなかった。
 空は晴れてきている。最近は暗くてしょうがなかったのに、今は眩しいくらいに太陽を覗かせて。