ピンチ。だった。簡単に説明するなら。
 がちゃんと玄関の扉を開けた向こうで仁王立ちしている父親と母親。思わずげっと呻いたのは言うまでもない。その先の展開なんて口にするよりも簡単だ。
「今日という今日は説明してもらうよ。毎回毎回どこに泊まってるんだい?」
「……別にどこでもいいじゃない」
「ルーピぃ? 母さん達これでも心配してるのよ。そろそろ教えなさい。あんたがよからぬ人と手を組んでるっていうんなら母さん達も黙っちゃいられないのよ」
「、よからぬって」
 ちょっとかちんとくる。の何を知るわけでもないくせに知ったふうに口利いて。しかもよからぬって何。は全然悪くないのにまるで悪者みたいな言い方。
 これだから面倒なんだ人間は。破面だった頃は親なんてものいなかったし強さが全部だったから、ただ強くあればそれでよかった社会だったのに。それを思えば人間社会はなんてめんどくさい。
 だからざりと後退ってもういいやんちにって考えたところだった。背中側から肩に手がかかって、それが知ってる体温で、でもここにあっちゃいけないはずの体温で。だから思わず目を見開く。
「やっぱこれ以上は無理だと思うんだよね、俺」

 振り返ったらやっぱりがいて。仕事へ行くのか行かないのかいつもの部屋着じゃなくてちゃんとしたものを着ていた。それで僕に笑いかけて「いい機会だから説明しちゃおうよ」「君、なんでここ」「ルピのあとをこっそりね」それでウインクしてみせるからいっそ呆れた。気付かなかった僕も僕だけど。
 母さん達が眉根を寄せる中、は営業スマイルっぽいのを浮かべてさらりと言ってみせた。
「初めまして。ルピの彼氏やらせてもらってるっていう者です」
 さらっと。そう言って。
「…君さ。ばかでしょ」
「いっつ…馬鹿馬鹿言わないでよもう。さっきからそれ何度目」
「だって」
 それで今は公園。なんていうかお約束な展開になって父さんがを殴ったから。息子をたぶらかしたななんてどこかのテレビの陳腐な台詞みたいなことを言ってをぐーで殴ったから。だから僕だって父さんを殴った。殴って手につくもの全部投げつけて出てきた。スリッパも誰かの靴も最後には花瓶も投げてやろうかと思ったけど、がルピと僕を呼んで手を引っぱったから。だから花瓶を投げるのはやめた。
 ついでに携帯も投げ捨ててやろうかと思ったけど、着信履歴もメールも全部ので埋まってるのが頭を掠めて。それがバレるのはまずいと思ったから投げないでポケットに突っ込んである。さっきからバイブがうるさいけど知るもんか。
 とりあえず鞄に突っ込んであったタオルを濡らして絞っての頬に当てているところ。暗くなって陽の落ちた公園には他に誰もいなくて、真ん中に一本だけある外灯が頼りない光を落としている。
 さすがに寒くなってきた。くしとくしゃみをしたらが笑って羽織っていた上着を僕の肩にかけた。視線を上げればやっぱり笑顔のがいる。
「寒いんでしょ」
「それじゃが寒い」
「いいよ、痛いから暑い」
 適当なこと言ってぎしとベンチの背もたれに背中を預けたが頭上を仰ぐ。「さーて、これからどうしようね」と。だから僕はそっぽを向いた。

 どうせ本当に大切なものなんてあの場所にありはしない。だったら僕はこのままとどこかへ行ってしまったっていい。いやむしろそうしたい。そうしてどこか遠い場所へ二人で。
 人間なんて、家族なんてしがらみに囚われることなく。はもうそれを断ち切ってる。なら僕だって断ち切りたい。断ち切って、の言う通りにじゃないけど家事とか全部引き受けるから一緒に暮らしたい。
 部屋に帰って、一人ベッドに潜り込むとき。すごくさみしくなる。すごくすごく、泣きたいくらいに。
 がいない、それだけで、僕は死にたくなるくらいさみしくなる。

「…携帯」
「え?」
「捨てていいかな。全部デリートする」
 ポケットから携帯を取り出した。あんまりにもバイブでうるさく呼んでくるからまずは両親の携帯番号も家のも全部着信拒否に設定して、メールも全部受信拒否にした。
 眩しい画面に目を細めて、携帯内のデータを全部デリートにしようとして。暗証番号を入れて。はいいいえの選択画面になって。はいを選んでボタンを押そうとしたところで手から携帯を取り上げられた。
「ルピ」
「いらない。そんなのいらないから捨てる。携帯って逆探知されるんでしょ今」
「そうだけど。そんないきなりじゃない。行方不明で捜索願い出されちゃうよ」
「…それでいいよ。もうやだあんなところ」
 そうこぼしたら、息を吐いたがぱんと携帯を閉じた。「ちゃんと話し合わなきゃ。ね」という言葉と一緒に緩く抱き寄せられる。父さんを殴った左手が熱い。じんじんしてる。
痛い?」
「んーまぁね。これくらい大丈夫だよ」
「…ごめんね」
「お前が謝る必要一つもないよ」
 が笑って僕の髪を撫でる。だからその胸に顔を埋めた。ワイシャツ一枚じゃ絶対寒いのに。僕はの上着があるからあったかいけど。
 ぎゅうと拳を握る。

 僕はこの世界にあるもの全部とを天秤にかけられたなら手離しでを選ぶ。そんなことを思い出したときからずっとずっと決まってた。
 だから今更。今更すぎたんだ、全部。取ってつけたような家族という鎖。社会という仕組み。断ち切りたいその鎖。
 鬱陶しかった。僕との邪魔をするものは全部消えればいいと、僕は。

「ルピは痛くない? 手」
「…ちょっと痛い」
 僕の左手をの手が包む。じんじんする。初めて誰かを殴ったから。それも父親。が僕の手の方にタオルをやって「冷やした方がいいね」と言う。だけど僕はの頬の方が気になった。父さん思い切り殴った。だから僕も思い切り殴ってやったけど。
 の頬に手をやる。やっぱり痛いんだろう、が片眉を顰めてみせたから僕は申し訳ない気持ちになった。よりにもよって僕の親が君を傷つけるなんて。
「とりあえず今日はうちおいで。帰りづらいだろうし、俺も帰しづらいし」
 そう言われて頷く。携帯はが取り上げたまま。デリートする寸前で閉じられたまま。
「あー痛いー」
「ごめん」
「ルピが謝ることないけどさ。うー沁みる」
 冷凍庫の保冷剤をタオルで包んで頬に当てたがそうぼやくから、思わず謝って。そうすると笑われる。僕の手には冷えピタ。保冷剤がいるほどおおげさに痛いわけじゃなかったし、冷やしてれば治るだろうし。
 だからが首を傾けて笑うことの方が僕にはよっぽど痛い。やっぱりあれから頬は腫れてきた。当たり前だけど。
「あの、」
「謝るのはなし」
 先手を打たれて言葉に詰まった。困ったように笑ったが「どうせいつかはこうなったよ。まぁ一発ならましな方だろうし」と言うから。だから眉を顰めて「何それ」と言えば、ひらりと手を振ったが「ほら、サスペンスにはよくあるでしょ。逆上して何回も相手を殴り倒して思わず殺害、なんてパターン」とか言うから頬を膨らませて「あれ以上やったら僕の方が親張り倒してたよ」と言い返す。そうしたらがきょとんとしてからまた笑った。
「ルピはほんとに俺が一番なんだね」
「うるさい」
 なんだか幸せそうに笑う顔からそっぽを向いてがしゃとテーブルのかごに常備されてるクッキーの袋を掴んだ。びりと封を破ってちらりと携帯を見やる。が取り上げたまま、ポケットの中。
「明日学校でしょ」
 頬に保冷剤を当てながらが同じくクッキーの袋に手を伸ばした。「別にどうでもいい」と言えばは笑う。
「ね、お風呂入ろっか」
「、は?」
 思わず素っ頓狂な声を出してしまって、ぽろと袋からクッキーが落ちた。だって今までの話の脈絡から言って出てくるはずのない単語なのに。
 慌てて手を伸ばしたけど、クッキーはかしゃと音を立てて床に落ちて割れてしまった。それで視線を上げれば面白いものでも見るみたいにが僕を見てて。だからどう返せばいいのかと迷って。
「でも、頬。冷やしてないと」
「腫れたんだからどうせすぐには治らないよ」
 ぽいと口にクッキーを放り込んだ。僕は割れたクッキーを拾い上げてふぅと息を吐きかけた。別に食べられる。
 しゃくとクッキーを口にして。がクッキーを口に入れて少し噛んで、「あ、噛むとちょっと痛い」とか言って苦笑いするから僕は視線を逸らした。
「あの」
「ん?」
「一緒に、入って…くれる?」
 ぼそぼそとそう言えばが笑った。保冷剤をまた冷凍庫の方に放り込んで頬をさすりながら「着替え俺のでいい?」「ん」「じゃあちょっと待ってね」と寝室の方に消えていく背中を見やってひっそりと息を吐く。
 随分無理矢理な話題転換の仕方だけど。僕にとって効果的なのは、確かだ。
 それでお風呂。は。意識しないようにして。だけどどうしても僕が引っかき傷を作った背中だけは目がいって。
 昔から僕はこれが苦手だった。傷を作ったのは僕だし作ったなら当然背中に痕で残るんだけど、それがどうにも苦手で。
「…あのさ」
「ん?」
「痛くない、の。背中」
「今日殴られた頬の方がよっぽど痛いよ」
 は笑って僕を背中から抱いた。その腕をぎゅうと握る。工事現場してたこともあるんだよなんて言ってただけあって筋肉は人並みにある。運動部入ってる人みたいな感じに。

 本当は嬉しかったんだ、なんて。今更すぎてもう言えなかったけど。だけど僕は本当は嬉しかったんだ。僕のこと心配してわざわざ来てくれたが。俺が悪いんですルピを責めないでやってくださいって言ってくれたが。
 破面だった頃はわりと何でもありだったしこういうシチュエーションは少なからずなかったわけで。だから本当は嬉しかったんだ。庇ってくれて。殴られたのに笑ってくれて。僕が謝る必要ないって言ってくれて。

 ちゃぽんとお湯に浸かる。そんなに広いお風呂じゃないから、うちよりは狭いし二人はきついくらいだけど。でも僕は広すぎる一人のベッドも一人のお風呂よりも、狭くて誰かの体温がある方が好きだったから。
 熱いくらいだ。暑いくらい。
「君、どうするの」
「何が?」
「僕を」
 濡れた髪が額にはりついている。それを払った手を握られた。振り返ればがいる。お湯のせいでとけるくらいに熱いのに、暑いのに。が僕の額に口付ける感触はよく分かる。唇の温度も全部。こんなに熱くて暑いのに。
「俺がルピに言えるのは一つだな」
「…何?」
 ちょっと、少し不安に思いながらその手を握り返す。は笑って「お嫁にくればいい」と言う。あっさり、僕の両親に彼氏やらせてもらってる者ですってさらっと言ってみせたみたいに。躊躇いなんてなくあっさり。
 だからぱしゃんと水音を立ててに抱きついた。その首に腕を回してぎゅうと抱きつく。そんな僕をは抱き返してくれた。

 今更だったけど。それでもは僕のことを、以前のことを憶えてないから。人間のときしか憶えてないんならもうめんどくさいって僕を捨てることだって、ないとは言い切れない自分がいて。だから色々すれ違ったりして。でもやっぱりは、なんだ。どんなことを経ても。時代や時間が僕らを隔てても。住む世界が違っても、何にも変わらずに。

「行く。のお嫁さんがいい」
「ん」
 僕の頭を撫でる掌にぎゅっと目を瞑った。熱い。暑い。身体だけじゃなくて目も。
 流れる涙は多分、喜びのせいだ。
「…ねぇ」
「ん?」
「寒いんだけど」
 ぶるりと一つ身震いする。いつものスウェットだったけどなんか首のところが寒い。「あ、ちょい待ち」とが窓を閉めにいった。ついでに放置だった洗濯物も回収してきた。ベランダに干してたタオルとかもろもろを。っていうか窓開けてたのか、そりゃ寒いよ。
 はぁと息を吐きかける。そろそろ朝晩冷える時期だ。昼間はそうでもないけど朝と夜は寒くなる。
 だから「あったかい紅茶飲みたい」と言えば、が「はいはい。フレーバーの何がいい?」「ストロベリーキャラメル」かたんと席に腰かける。がやかんに水を入れてお湯を沸かす間その背中を見つめたけど、Tシャツの向こうに僕の引っかき傷は。
「そんなに気になる?」
 振り返ったが苦笑いするからはっとして視線を逸らした。「別に」と返しながらがしゃとテーブルのクッキーに手を伸ばしてしまうのはもう癖だ。どうしていいのか分からなくなると、僕は逃げるようにクッキーに手を伸ばす。
 かたんとカップとフレーバーの紅茶の箱からストロベリーキャラメルを取り出して、がそれをぽんとカップに放り込む。「ルピぐらいしか見ないからいいよ」と言うけど。それじゃあ君、夏になったら海とか行けない人になっちゃうじゃないか。背中見せられないってそういうことだ。温泉にだっていけないし。それって色々不便じゃないか。
 ぽいとクッキーを放り込む。は手を伸ばして僕の頭を撫でた。視線を上げれば「俺の方が年上なんだし。頼ればいいよ」その優しい言葉と優しい笑顔。だから僕は視線を伏せる。
 破面の頃の記憶があるから。僕の方が年上だと思うんだけど。でも別に、そんなのはどうでもいい。
 要はがいるかいないかの現実で。が僕を求めてくれるかくれないかの現実で。僕にとって大事なのはだから。がそう言うんなら僕はそれでいい。
 向かい側に腰かけたがまだちょっと濡れてる僕の髪を弄びながら頬に手をやった。「まだ痛い」と笑うから、僕はしょうがなく笑う。そりゃあ殴られたら痛いよ。当たり前だけどさ。
 手持ち無沙汰で。余ってるスウェットの袖をいじった。
 これでいいのかはよく分からない。だけど僕が望んでることは、これだから。
「ねぇルピ」
 呼ばれて視線を上げる。はちょっと腫れた頬で、でもいつもみたいに笑ってる。
「家事、よろしくね?」
「…頑張る」
「いい子」
 席を立って僕の額に口付けるに目を細めた。
 だから、僕が望むのはこの人だけで。それ以外は本当に、どうでもいい。