夢を 見た

 すっかり見慣れた少し癖のある黒髪と、それから白い服。白と黒のコントラスト。振り返ってこっちを見たのは見慣れたアメシストの瞳。
(れ?)
 ルピだ。ルピがいる。間違いなくルピが。
 だけどまるでテレビの向こうの画像みたいに遠くに見えた。確かに近くに見えるのに遠くにいるように感じた。事実、俺が手を伸ばしてもルピには全く届かなかった。だけどルピが笑う。白くて長い袖を揺らしてその下から見慣れた白い手が覗いてこっちに差し出される。
 応えようと。手を伸ばして。遠いと分かっていながら手を伸ばして。
 すか、と空を切った。遠いと感じていたそのままに。
(あれ?)
 だから焦って何度も手を伸ばした。ルピが不思議そうに首を傾けてこっちを見てる。その瞳は俺に向けられているのかそれともそうでないのかと考えながら懸命に手を伸ばした。だけど何度でもルピの手は取れずにすかと空を切る。まるで空にある雲を掴もうとでもしてるみたいに。
 だから、声に出してルピを呼ぼうと俺は、

?」

 だけど逆に呼ばれた。それでばちと目が覚めた。
 は、と息を吐き出せばいつもの部屋。見慣れた天井とフローリングの床と、それから。
「ルピ」
 見慣れた黒髪とアメシストの瞳。腕を伸ばしてエプロン姿のルピをぎゅうと抱き締めた。ぼすと俺の胸に顔を埋める形になったルピが「? どうしたの」と困惑気味の声を上げる。
 食べ物のにおいがする。これは多分卵。いつもの目玉焼きかな。
 もう朝だ。だからルピはエプロンつけてこうしてここにいてくれてる。俺のそばに。茨の道だと知りながらそれでもそばに。
「ルピの。夢を見た」
「僕の夢? どんな?」
「白い服で、袖が長くって。なんだろう、懐かしいな」
 そうこぼしたらルピが顔を上げた。信じられないって顔。だから俺は首を捻る。
「白い服で、袖が長い?」
「うん」
「……それで、その僕がいて。どうなった?」
「どうなったっていうか、ルピが手を差し出すからさ。手を伸ばしたんだけど、どうしても触れられなくて。だからすごく焦った」
 ルピの黒い髪を撫でながら「よかった夢で。お前は今ちゃんとここにいるね」と漏らしてルピの額に口付ける。ちゃんとあったかい、うん。ちゃんと俺はここにいてルピもここにいる。
 だけどルピが呆然というか、そんな顔で俺を見つめてた。「ルピ目玉焼きが」「、あっ」それで気付いたらしくばたばたキッチンに駆けていったエプロン姿を見送ってあふと欠伸を漏らす。
(なんだろう。懐かしい)
 じっと自分の掌を見つめた。何にもない掌。伸ばしても届かなかった手。今はちゃんと届く。今は。
ご飯できた」
「はーい」
 今は朝ご飯。一度思考を区切ってぐっと伸びをして、ぎしと軋んだ音を立てるベッドから下りてリビングの方に行った。
「あの、夢なんだけど」
「うん?」
「…ちょっとだけ思い出したんだね。僕のこと」
 ご飯を食べ終わって片付けも終わって、二人でテレビ見ながらソファに腰かけてて。それでぽつりとルピがそうこぼしたから俺は瞬きしてルピを見た。テレビではどうでもいい時間潰し的な感じの芸能人の過去の振り返り映像をやってる。
 BGM代わりのテレビ。それから意識をルピにやって「過去? あれって過去なの?」と質問したらルピが視線を上げて俺を見た。「服さ、腰んとこ開いてた?」と言うから眉根を寄せて天井を見やって「えーと…多分」と付け足す。
(黒い髪とアメシストの瞳でもうルピだって思っちゃったから白い服をそんなに気にしてなかった。だけどそう言われればでも肌色が覗いてた気も…)
 ルピが俺の肩に頭をぶつけて「昔はそういう格好してたんだよ。どっかのキャラみたいな」と呟く。だから俺は少しさみしくなってルピをぎゅうと抱き締めた。
 俺はここにいるルピはここにいる。もうそれだけでよかったのに。
「く、るしい
「うん知ってる」
「じゃあ離せばか」
「やだよ。離れないよ絶対、俺は」
 ルピの首筋に顔を埋めて甘く噛む。首にかかる吐息が熱い。「どこにも行かないでねルピ」と言えば「行かないよ。なんで、どしたの急に」「…だって」ルピの肩に顎を乗っけて細く息を吐く。

 手を伸ばしても届かなかった。それが自分で思ってるよりもずっとショックだったんだと思う。
 最初に手を伸ばしたのはルピから。ルピが憶えていたから。俺は憶えてなかった。それでもルピのことが好きなのは自分でもよく分かった。だからこそ多少強引な手を使ってでもここまで、二人で生活できるまでにしてきた。
 できることは全部してきた。だけどどうしてもルピの言う昔のことが思い出せなかった。どうしても。
 でも今日、夢を見た。それは俺の知らないルピだった。

(…そうか。ルピもこんなふうに不安だったのかも)
 知ってるはずなのに知らないルピ。不安になるはずだ。俺だって今すごく不安。
 過去の自分に勝つなんて簡単に言い切ったけど、無謀なことだったのかもしれない。俺の知らないルピがいることがこんなにも。
「ルピ。俺のこと好き?」
「好きだよ。どうしたの」
 腕をつっぱらせて身体を離したルピが困った顔をする。白い指が俺の目尻を拭って「何泣きそうな顔してるのさ」と言うから口元だけで笑う。
 そうか。これが不安で。そして恐怖か。
「俺の知らないルピってどんなだったのかなぁって。考えたらさ。夢なのに。なんだか不安だよ」
 だからルピに口付ける。今ある知っている知り尽くしている体温に唇を重ねる。キスをする。溶け合うかと勘違いするまで深く長く絡め取る。目を瞑ってる睫毛の長さとか吐息とかがくすぐったい。知ってる体温知ってる吐息知ってる全て。それなのになんだろう、すごく、不安だ。すごく。
「ルピ」
 ちゅ、と音を立てて唇を離す。熱っぽい瞳が揺れて「」と俺を呼ぶ。だから手を伸ばしてリモコンのスイッチを探してぶちとテレビを消した。
 もうBGMはいらない。年末だからって振り返りばっかりなのもどうかと思うんだよ俺は。知ってることを反芻するのって確かに大事だけどさ、知らないでいてもいいことってあるし。そういうの揺り起こすようなのはやっぱり冒涜っていうか。
(ルピ)
 だから、何も予定がないからとスウェット姿のままのルピの服に手を滑り込ませる。正体不明の黒い霧が心を覆おうとするのを防ぐかのようにスウェットをまくり上げてその下の肌に口付けながらソファに押し倒す。
 知ってる体温知ってる吐息知ってる声。全部俺は知ってるはずなのに、どうしてこうも今。俺は不安に囚われているんだろう。
「…あれだよ。君、不安定」
「そう? ごめん」
「謝るようなことじゃないけどさ。僕はここにいるんだし、そんな顔することないんだよ」
 結局ソファじゃやりにくいからってベッドに行って、白い肌と甘い声を貪っていくらか落ち着いた頃にルピにそんなことを言われた。つんと頬を白い指がつついて「今の顔も。情けない」と言われて困ったなと笑う。情けないと言われても今はこんな顔しかできないよ俺。
 ふうと息を吐いたルピが「僕はどこにも行かないし、生涯好きになるのも君だけ。君以外いないの。僕には君だけ。分かった?」びしと指をつきつけられて「うん」と笑う。
 ルピには俺だけ。俺にはルピだけ。これからもきっとずっとそう。分かってる。
「…まだ顔が情けない」
「ごめん許して。今日だけ。明日からきっともう大丈夫だから」
 黒い髪に口付けながら「今日だけだから」とこぼす。どうせ明日は仕事だからきちんと切り替えをしないとならない。だから嫌でもしゃきっとする。でもルピといる間くらいほんとの俺でありたかった。だけど今の俺はルピから言わせると情けない顔をしてるらしい。それも嫌ではあるんだけど、それが俺でもあるから。
 溜息を吐いたルピが「いいけど。無理はしないでね」と俺の頭を撫でる。「ルピは無理してない?」「してないよ」すぐに返ってくる声に小さく笑う。
(今日だけ。今日だけ甘えてもいいかな。ルピ)
 華奢な肩から首筋にかけてを唇でなぞって「今日だけ甘える」と呟けばくすぐったいとばかりに押し殺した笑いと「別にいつでも甘えていいよ」という声。
 ルピのアメシストの瞳と俺の頭を撫でる掌とその体温とその存在。何もかもが、今の俺には必要不可欠なもの。