「せんせ」 慣れた声に呼ばれて目が覚めた。陽射し避けに顔にのっけてた雑誌が取り上げられて、眩しさに目を細めながら「はいお弁当」と言われて瞬きする。 ぼやけて白んでいた視界がようやく眩しさに慣れて、雑誌を取り上げたのが誰なのかを教えてくれた。アメシストの瞳に少し癖のある黒い髪の持ち主を。 「ルピ」 「寝ないでよ。寝たらすぐ終わっちゃうよ休み時間」 「ごめん」 むくと起き上がってぐぐっと伸びをした。あまりにも眠いからベンチに寝転がってみたもののやっぱりというか背中が痛い。 じいと注がれている視線にぽりと頬をかいて「えーと何かな」と言えば、ルピがお弁当の言葉通りお弁当を差し出してきた。コンビニのおにぎりかはたまた食べないか、ましならコンビニ弁当か。そんな俺の食生活を心配したルピが俺のためにと毎日お弁当を作ってくる。本人が言うには自分で。 まだ十三歳なのに偉いなぁと思いながらお弁当を受け取って「ありがとう」と返した。ふるふる首を振ったルピが「別に。ほっとくと先生ましなもの食べないから」それでそんなことを言われるもんだから思わず笑う。まぁその通りなんですけどね。 私学っていうのはそういえばお弁当なところがあったなぁと今更ながらに思って、小学校から中学校に転任した自分のことをちらりと振り返った。だけど特別思うこともなく、まぁ平穏順調に過ごして先生って職をやってきたよなぁと考える。 …この怪我を除けば。 「…あー、あのねルピ。腕はもう平気だよ?」 「胸はときどき痛むって」 「それはほら、息するのに肺は絶対動いちゃうから骨が安定しなくて仕方ないっていうか…まぁ腕より治りは遅いけどさ」 「…………」 だんまりするルピに俺は弱ったなぁと笑う。 怪我をした。どうってことない、俺が中学に転任する前、小学校に勤めていた頃の話だ。ルピが俺にお弁当を作ってきてくれるような、所謂先生と生徒を越えた関係になったのはその怪我がきっかけ。 それなりに古かったんだろう、木造の遊具が破損して生徒が下敷きになりそうになった。俺はその場に居合わせた。外で遊ぶのは好きじゃないと言って教室で本ばかり読んでるルピを校庭に連れ出して、休み時間、他の子も一緒になって何度目かのキャッチボールなんかの遊びに付き合っていたそのときだ。 ばきんと音がした。反射的にまずい音だと思った。生徒から投げ返されたボールをキャッチすることも忘れて振り返ったらいずらそうに佇んでいるルピがいた。その後ろの木造立ての遊具の要が飛んだ。 全ては流れるように起こった。金具や木の寿命が来ていたのだろうと思う。幸いにもよじ登って遊ぶその遊具には誰もいなかった。ばきばきという音に気付いて振り返ったルピと数人の生徒から悲鳴の声。 だから俺は元陸上部の足を活かして、木造の遊具が倒れ込む前にルピと遊具の間に割って入って。 「…あのさ、大丈夫だよ」 「…せんせはそればっかりだ」 むすっとした感じで弁当箱をつついているルピに弱ったなと笑う。 確かにあの事故で俺は利き腕を骨折したし肋骨もちょっとイっちゃったわけだけど、でも別に死んだわけじゃないし。それに何よりルピが下敷きにならなくてよかったと思ってるし。 あとは意識が朦朧としていたからあんまり憶えてないんだけど、ルピが泣きながら先生って俺のことを呼んでたのはよく憶えてる。アメシストの瞳が潤んでこぼれた涙が頬を伝っていた。先生と何度も呼ばれたけど胸が苦しくて息をするだけが精一杯だった。返事ができなかった。げほと咳き込んで倒れた遊具から自力で這い出して最後、意識はぶっつり途切れてる。 次に目が覚めたときは病院で。手当ても手術も一通り済んだあとだった。 ルピの両親には泣いて感謝されたけど、俺は特別何かをしたとは思ってなかった。先生が生徒を守るのは当然だろうし、まぁちょっと痛かったけど治療費なんかは学校負担になったし。あれがきっかけで学校側から遊具の破損やその他のチェックも入って、生徒の安全はより確保されただろう。そういったことの引き金になったのなら、骨を折ったのも別に悪くなかったかなぁなんて思えてくる。 そんなこと言ったらルピがますますだんまりになるだろうから言わないけど。 (今日もおいしいなー) ルピお手製弁当をいつものようにいただいてぱちんと箸を合わせて「ごちそうさまでした」と言った。ルピはまだ隣で自分の弁当箱をつついている。食欲がないのかあんまり中身が減ってない。 「ルピ? 食欲ないの」 「…うん」 「昼休み終わっちゃうよ。残すとめんどくさいなら俺もらおうか?」 ルピが上目遣いでこっちを見て「じゃあせんせ食べて」と弁当箱を差し出してきた。一度はごちそうさまをしたけどもう一回いただきますをしてルピが残したお弁当をいただく。たこさんウィンナーに卵焼き、ミニトマトとポテトのサラダにレタスがあってブロッコリーがあって、ご飯はふりかけで雑ぜご飯。 俺のより一回り小さいからすぐ空になった。お腹いっぱいと思いながらぱちんと箸を合わせてまたごちそうさまをする。その間ルピがじっとこっちを見ていた。先生って職で人の視線には慣れてるけど、さすがにこそばゆい。 「えーと、何?」 「…今日夢に先生が出てきた」 「俺? へー、何してた?」 「…………」 「?」 まただんまりになったルピに首を傾げる。するとキーンコーンカーンコーンと予鈴が鳴った。ルピの手提げに弁当箱を二つ入れて「はいルピ。午後の授業もしっかりね」と言ったらルピがまた上目遣いでこっちを見上げた。 「先生の授業午後ない」 ぼそりとそう言われて頬をかく。午前にあったじゃんかもう。 「いいよ、放課後待ってても。今日は早く上がれそうだから」 「ほんと?」 「ん」 くしゃとルピの髪を撫でる。さっきまでだんまりであんまり元気のなかったルピがぱっと表情を輝かせて「じゃあ僕待ってるね! 先生絶対だよっ」そう言って手提げをぶんぶんさせて屋上から走り去っていく。 ばたんと閉められた扉に吐息した。それからそばに置かれた雑誌を取り上げる。 いつからこういう関係になったのかはよく分からないけど、お弁当には感謝してる。ただルピに対して俺は先生として生徒に接するというより個人的に接している。事情が事情だから小学校じゃそれは黙認されたけど、中学校だ。場所が変わった。俺ももうルピに他の生徒と同じように接していかないとどこかで何かとつつかれるだろう。 だけどあの子はそんなこと気にしないのかもしれない。体裁とかそういうもの。大事なことではあるんだろうけど、多分俺と体裁とを天秤にかけたらあの子は俺を選ぶんじゃないだろうか。 (なーんて。アホか俺) 雑誌を小脇に挟んで屋上を出て職員室に向かう。予鈴が鳴った廊下は教室に戻ろうと走っていく生徒なんかでばたばたしていた。こういうのは小学校から変わらないなぁと思いながらがらりと職員室の扉を開けて今日やっておかないとならない書類なんかを頭に思い浮かべる。 先生っ、先生! だけど頭の中では別の声がする。 先生ごめんなさい僕のせいで。涙ですっかり赤くなった目元でルピが俺に泣きついた。痛いちょっと胸が痛いと思いながら大丈夫だよルピと何度も言った。ルピも何度も謝った。ごめんなさい先生ごめんなさい、ごめんなさいと。何度だって。 かち、と針が一つ進む音。職員室独特の空気に包まれながら誰かのお下がりの椅子に腰かけて右腕をさする。 少し痛む。名残だ。多分、これはずっと続くだろう。息をする度に骨が軋むような微かなこれも多分ずっと。 体育が得意分野で暇なら放課の度に生徒に混じって遊んでたけど、怪我をしてからはそれも無理になった。足には問題ないけど呼吸に問題があった。すぐに胸が苦しくなる。日常生活に支障はないけど運動系はできればしない方がいいだろうと医者の先生に言われた。そうだろうなぁと思いながら、だけど今まで校庭で生徒と一緒に遊んでたのをいきなりなしにしろと言われてもなと悩んだりもした。 結局全部、入院中毎日お見舞いに来るルピがごめんなさい先生と謝るから。俺の思考はそっちに持っていかれてルピが謝ることじゃないんだよ、もとはと言えば俺がお前を連れ出したからと別なことを考えないといけなかった。それに遊具も古くなってたんだ、これくらいですんでよかったんだよと涙を浮かべるルピの頭をよく撫でた。 あの子は。ルピは、同じ学校に行くことになったことをすごく喜んでたけど。これで先生とまた一緒だねと喜んでたけど。あの子は俺のことを慕ってくれているけど、俺達はそろそろ区切りをつけないといけないんじゃないだろうか。 頭の中で先生と涙で腫らした目元で俺のことを呼ぶあの子がいる。 (……先生と生徒。先生と生徒) 線を引け線を。そう思いながらも今日の放課後は一緒に帰れると言ってしまった自分を思い出して溜息を吐く。 早く仕事を終わらせないと、ルピに怒られる。 (終わったぁ) がっちゃんと盛大に椅子の背もたれに背中を預けたときにはもうだいぶ時間が経っていた。 職員同士での会議が終わってからそそくさと鞄にいるものだけ突っ込んで立ち上がる。まだ慣れてない場所に長い時間いるのもなかなかに苦痛だ。 だからすぐに職員室を出て、誰かに呼び止められないことにほっとしながら一年生の教室に向かった。途中で何人かの生徒とすれ違って「さよなら先生」と言われて「さよなら。気をつけて帰れな」と返しながら1−4に顔を出す。 陽射しが弱くなって斜めに照りつける夕暮れの教室の中、ルピだけがまだ残っていて頬杖をついて本か何かを見ていた。ぺらりとページのめくられる音と静寂。遠くからは部活に励む生徒の声。 「ルピ」 「、せんせ」 がたんと席を立ったルピが本を閉じて鞄に押し込むとこっちに駆けて寄ってきた。こういうのっていけないんだよな多分ほんとはと思いながらも俺は笑っている。「お待たせ」「いつもよりは早いよ」「そうかな」「うん」並んで会話しながら下駄箱が別だからと一度別れて駐車場で落ち合って、そこから俺は自転車片手に、ルピは鞄を肩に引っかけながら帰り道を歩く。 その時間は多分。今までの中で一番落ち着いた、過ごしやすい。息のしやすい時間だった。 先生でなくていい時間。俺は確かに子供が好きだったから教師になったけど、嫌なことがないわけじゃない。教師同士の牽制っていうかそういう上下関係はもちろんめんどくさいし仕事なんだから我慢しないとならないことだって多い。先生っていうのはある種の仮面みたいなもの。それが外せるのは先生でないときか、それともそれを忘れてしまうときかのどっちかだけ。 「ねぇ先生」 「ん?」 「せんせは結婚とかしないの?」 「え、どしたの急に。俺に彼女いるみたいに見える?」 「…知らないもん」 「いないよ。いないんだから結婚はできません」 「だってお見合いとかあるじゃない」 「そこまでして結婚してもなー。っていうか何、なんで結婚? どこから来た話題?」 「…夢で」 会話が途切れた。ルピが立ち止まったから数歩遅れて立ち止まって振り返る。夕暮れの陽射しが斜めに視界を射す中ルピが思いつめたような顔をしていた。それは俺がルピを庇って遊具の下敷きになったとき、瞳がこぼれるかと思うくらいに目を丸くしていたあのときのルピと重なった。 「ルピ?」 「夢で。そういう、先生が結婚してる夢を見たんだ。先生、きれいな女の人と一緒で。しあわせそうに笑ってた」 「ふーん…?」 きれいな人ねぇと思ったけど思い当たる誰かもいない。だけどルピが「先生は結婚なんてしないよね」と少し掠れた声を出すから思考を打ち切った。アメシストの瞳がこっちを見ている。真っ直ぐに俺を。 「しないよ。相手いないし。夢でしょ、忘れなよ」 「……だけど僕、それで気付いたんだ。すごく大事なことに気付いたんだ」 「何に?」 「僕、」 思いつめた顔でルピが口を開いた。すぐ横をトラックが通り過ぎてルピの言葉が掠れて聞こえた。だけど耳に届いた。微かだけど確かに。 (今、お前、なんて?) 「…ごめんルピ、車の音でよく聞こえなか」 「僕は先生が好きだよ」 赤い夕陽の中でルピがそう言った。夕暮れが真っ赤すぎてルピの顔が赤いことに気付けなかった。ただ陽の光が眩しいと思いながら目を細めた。何をどう言えばいいのか、俺の中で形にならない思いがぐるぐると回っていた。 |