2、好きです

(お弁当持った。暇潰しの本も持った。よし)
 今日はいつもよりちょっと卵焼きに失敗したりしたけど、それ以外は本当にいつも通りだった。母さんの代わりに台所を占領しながら「じゃあ父さんは行ってくるぞー」と間延びした声に「行ってらっしゃい」と返してがちゃんと流しにお皿を突っ込む。僕ももう行かないと。
 最後に鏡で制服が変じゃないことを確かめて、母さんどうせ寝てるんだろうなと思いながら「行ってきまーす」と残してがちゃんと玄関の扉を押し開けた。
 いつもと変わらない陽射しが僕を照らした。だけど今日はいつもの朝とは違うと僕はもう分かっていた。
 今日見た夢が、決定的にさせた。それまで濁してきた僕の感情を。
(先生はもう来てるかな)
 手提げ袋はなるべく揺らさないようにしながら、それでも早足で学校に向かう。
 最近は校門の前で代わりばんこで先生が立っていることが多い。小学生や中学生を狙った事件が昔よりも多くなったとかで、防衛対策の一つなんだそうだ。それでたまにせんせが立ってることがある。眠そうな顔で、でもお早うってみんなに笑って返しながら。
 今日は誰だろうと思いながら見えてきた校門に背伸びした。先生だったらいいなと思ったけど、今日は二年の先生が校門に立っていた。だからなんだと肩を落としながら歩く速度を落とす。先生がいたらお早うって言おうと思ってたけど、他の先生なら早く行って早く話しかける理由も何もない。
 だから手提げ袋の中のお弁当二つ分を睨みつけながら改めて考える。今日見た夢の意味を。

 夢に先生が出てきた。それはすごく嬉しかった。だけどどこかめかしこんでいた。オシャレしてるって言うのかな、僕が知る限りの先生の格好ではなかった。それがひどく印象的だった。
 それからその隣に女の人の形ができて、誰か知らないけどきれいな人で。先生と笑い合って頬を寄せ合うその姿に、僕は知らず拳を握っていた。
 見たこともない光景なのにどうしてか僕はそれを恐れていた。こわいと思っていた。先生が誰か知らない女の人と一緒にしあわせそうに笑っている、僕が手を伸ばしても届かないところへ行ってしまう。そう思ったらとてもこわくなった。
 こわいと強く思って目が覚めた。息が切れていた。布団を掴んだ手は必要以上に力がこもっていた。目が覚めてもその夢はただひたすらに鮮明で、僕のお弁当作りを邪魔して卵焼きを失敗させるくらいに僕の頭の中で場所を取っていた。
 小学校の頃、古くなってた木造の遊具が倒れてきて下敷きになりそうになった。そのとき先生が助けてくれた。僕を庇ってくれた。そのときも心臓がばくばくいってたけど今は違う意味でばくばくしていた。とても痛かった。あのときはただ早鐘みたいに心臓がどきどきしていた。だけど今は痛みを伴ってずきずきしていた。
 先生は骨を折った。きっと痛かったろう。げほと咳き込んだ先生に僕は泣いて縋った。先生と何度でも呼んだ。だけど先生は息をするのに手一杯で、僕は頑張って先生を押し潰してる木材をどかそうと必死だった。そのうち他の先生がきて僕は先生から引き離された。救急車の音と瓦礫から這い出した先生が倒れ込む姿。先生と呼んでもあの人はいつもみたいに笑ってくれなかった。ただ苦しそうに息をしていた。
 そのまま救急車で搬送されて病院に行った。擦り傷だったけど僕も一緒だった。その間もずっと先生と呼んでたけど先生は目を覚まさなかった。
 先生が僕を見てくれたのは、先生の怪我の手当てと手術が全部すんだあと。僕の両親が学校の連絡を受けて飛んできて、僕の怪我が大したことがないと分かってほっとして、でも代わりに先生が大怪我を負ったことにひどく打ちひしがれていた。そんなときだった。
 先生っ、先生! 僕は先生に泣いて縋った。先生ごめんなさい僕のせいで。だけど先生は白いベッドに埋もれて包帯だらけになりながらいつもみたいに笑った。大丈夫だよルピと。
 そのときにも心臓はどきどきしていた。もう目を覚ましてくれないんじゃないかと僕はすごくこわかった。先生が目を覚ましてくれて嬉しかった。でも怪我を負わせてしまったことはすごく悪いと思った。謝っても謝りきれないと思った。
 何度だって謝った僕に、先生はルピが謝ることじゃないんだよと笑ってくれた。くしゃと髪を撫でていつもみたいに笑う先生は僕の世界の全てだった。
 先生を中心に小学校でも生活してた。先生がずっと担任だったから。偶然だったのかもしれないけどそうだったから。中学校は担任にはなれなかったけど、転任して僕と同じ学校になったから。とても奇跡的な繋がりだと思った。僕はその繋がりを切りたくなかった。
 切りたくなかった。どうしても。どうしても僕は先生と繋がっていたかった。その理由は先生が僕の見知った人であるとかそういうのじゃなかった。
 僕は、ただ先生のことが、
「…せんせ」
 昼休み、職員室を除いても先生がいなかった。だから屋上に行ったら予想通り先生がいた。雑誌で顔を隠して陽射しを避けながら眠っているようだった。ばたんと屋上の扉を閉めて手提げの中を確認しながらベンチに歩み寄る。
 先生が目を覚まさないんじゃないかという恐怖に駆られて手を伸ばして、ばさと雑誌を取り上げて「せんせ」と呼んだ。ぱちと目を覚ました先生にほっとしながら「はいお弁当」といつもみたいに手提げを揺らす。
「ルピ」
 先生が目を細めて僕を見た。陽射しを眩しがってる顔。ただそれだけでも、先生に見つめられると僕はすごく心臓が暴れる。色んな意味で。
「寝ないでよ。寝たらすぐ終わっちゃうよ休み時間」
「ごめん」
 むくと起き上がった先生がぐっと伸びをした。右腕とその胸に視線が行く。腕は手術しないですんだけど先生の胸にはメスが入った。きっとまだ今も痛いんだと思う。先生は陸上部だったって言ってたけど、怪我をしてからは、適度な運動以外は禁止されていた。
「えーと何かな」
 先生が困った顔で頬をかく。だから僕はふるふると首を振ってすとんと先生の隣に座った。手提げから今日のお弁当を取り出して先生に預ければ「ありがとう」と笑ってくれる。また心臓が暴れるのを感じる。それを誤魔化すように首を振って「別に。ほっとくと先生ましなもの食べないから」と返した。そうすると先生が参ったなって感じで笑う。
 それから少し痛そうな顔をした。一度は折った右腕、今はもう大丈夫な右腕で胸を押さえて深く静かに息をする姿。その姿に、僕の胸もずきりと痛んだ。
 肋骨なんて折るもんじゃない。肺に刺さらなかっただけよかった。もし違った方向に折れてて先生の肺を骨が突き破ってたら、先生は死んでたかもしれない。そんなことになったら僕は。
「あー、あのねルピ。腕はもう平気だよ?」
「胸はときどき痛むって」
 今もそうだし。そう思いながらぱかとお弁当の蓋を開けた。視界の端で先生が困った笑みを浮かべて「それはほら、息するのに肺は絶対動いちゃうから骨が安定しなくて仕方ないっていうか…まぁ腕より治りは遅いけどさ」と言う。僕は口を閉ざして箸を取り出した。今日は卵焼きに失敗したけどあとはいつも通りにできた。だけどどうしてだろう、いつもくらいの食欲はなかった。

 今日見た夢が、頭を掠めていた。
 先生は僕以外の誰かにあんなふうに、こんなふうに笑うんだろうか。そう思ったらきゅうと胸が苦しくなった。
 僕は決定的に、あの瞬間から。先生が僕を庇って怪我をしたあの瞬間から先生を求めていた。何度だって呼んで何度だって泣いたあの頃から。

「あのさ、大丈夫だよ」
「…せんせはそればっかりだ」
 お弁当の方をつつきながらぱくとブロッコリーを食べる。
 先生がいつも通りお弁当を食べてくれていることに少しほっとした。誰かのお手製のお弁当が他にあるってわけじゃない。先生には僕の知らないきれいな女の人なんていない。彼女なんていない。先生は、先生だ。
「ごちそうさまでした」
 先生はすぐに食べ終わった。僕の方はまだ半分も残ってた。やっぱり食欲がないと思いながら、頭のはしっこには夢がある。夢で見た先生の笑った顔。しあわせそうな顔。そういうのはまだ見たことがない。だって僕らは学校で会うだけの先生と生徒なんだから。
 僕は生徒で。先生は先生。先生と生徒って境界線は学校の中じゃ破れない。破っちゃいけない規則だ。
「ルピ? 食欲ないの」
 顔を覗き込まれてびくと震えてしまったのはどうしてだろう。「うん」と返すと「昼休み終わっちゃうよ。残すとめんどくさいなら俺もらおうか?」と言うから自分のお弁当に視線を落とした。食べかけだけどと思いながら視線を上げて「じゃあせんせ食べて」とお弁当を預ける。
 夢がぐるぐる頭のはしっこで回っている。しあわせそうに笑う先生と知らない女の人。だけど今現実の先生はここにいて僕のお弁当を食べてくれてる。僕は先生と一緒にいる。僕が先生と一緒にいる。知らない女の人じゃない。
 僕が考えごとをしている間に先生はお弁当を空にした。「えーと、何?」と困った顔で訊かれて言葉に詰まる。夢と現実を比べていたらあっという間に時間が過ぎてしまった。何をどう言おう。
「…今日夢に先生が出てきた」
「俺? へー、何してた?」
 何気ない問いかけだったんだと思う。だけど僕はそれに正直に言葉を返せず黙り込んだ。先生が首を傾げてこっちを見ているのが分かる。
 そのうち予鈴が鳴った。そうするともう授業まで五分しかない。ここは屋上だから教室まで戻るにはそれなりに急がないといけない。先生が空になったお弁当箱を手提げに入れて僕の手に預けて「はいルピ。午後の授業もしっかりね」と言うから早く戻らないといけないと思っていた気持ちが急に萎えた。だって午後の授業は、授業はあるけど。先生の授業はない。午前中にもうあったから。
 だから先生の授業がないって分かったらすごくめんどくさくなった。「先生の授業午後ない」と漏らせば困った顔で頬をかく先生がいる。それからふうと息を吐いて「いいよ、放課後待ってても」と言われてぱっと顔を上げた。「今日は早く上がれそうだから」と言う先生に「ほんと?」と顔を寄せる。くしゃと髪を撫でられて「ん」と返された。だから僕はまた先生に会えるってところに元気をもらってすっくと立ち上がった。早く戻らないと本鈴に間に合わない。
「じゃあ僕待ってるね! 先生絶対だよっ」
 手提げをぶんぶん振り回して屋上をあとにした。嬉しさで胸が高鳴っていた。久しぶりに一緒に帰れる。途中までだけど、先生は自転車通勤だし。僕が歩きだから合わせて歩いてくれるし。
(言わなくちゃ。チャンスだ、これはチャンスなんだ)
 空になったお弁当箱。二人分。それを意識しながら教室に戻った。午後の授業は気だるかったけど、先生にまた会える。一緒に帰れる。そうしたら僕は先生にこの気持ちを伝えるんだと胸がどきどきしていた。痛くないどきどきの方だった。先生が何を言うのかは分からない。だけど僕はもうこの気持ちを手離しにはしておけないし無視もできない。
 僕の世界の中心にはいつも先生がいる。それを、伝えなくちゃ。
(終わった…)
 キーンコーンカーンコーンと鐘が鳴った。がたんがたんと生徒が席を立って授業の終わりの礼をする。
 そこからはホームルームの担任の先生待ち。僕はその間に宿題のためにいる教科書を鞄に突っ込んだ。それから暇潰し用の本を取り出した。
 早く上がれそうって言っても先生は夕方までは学校だ。職員同士で会議とか打ち合わせがあるから。だから僕は先生を待って教室で時間を潰す。ホームルームが終われば生徒はまばらになって部活に行ったりそのまま帰ったりする子に別れる。僕は教室に残っていた。先生を待つ間に適当に本を読む。友達らしい友達はまだいなかった。だけどそれでよかった。僕の世界の中心は先生って決まっていたからだ。
 ぱらとページをめくる。陽射しが斜めになって赤く染まってきていた。
 陽が沈むまでに先生が迎えに来てくれるかどうか。それを思いながらぺらりとまたページをめくった。遠くで部活をしてる生徒の声が聞こえる。

「ルピ」
「、せんせ」

 呼ばれてがたんと席を立った。いつの間にか教室の入り口に先生が立っていた。だから鞄に本を突っ込んで慌てて駆け寄りながら「お待たせ」という言葉と笑顔に「いつもよりは早いよ」と返しながら、心臓がどきどきと脈打っているのを感じていた。「そうかな」という言葉に「そうだよ」と返しながら人気のなくなった廊下を歩く。
 生徒と先生の下駄箱が違うから廊下で一度別れた。その間に僕は自分の決意を固めた。
 この気持ちを伝えなくては僕はずっとぐるぐるしたままだ。今日の夢ではっきりしたこの気持ちを、好きだってこの想いを。僕は先生に打ち明けなくちゃ。
 拒絶が、こわくても。先生が僕にそういう気持ちがなかったとしても。もう僕だけの中に、留めておけないから。
 校舎裏の駐輪場で先生と落ち合った。
 からからと自転車を引いて歩く先生の隣を歩いて、そばにいるその時間は。とても至福だった。
「ねぇ先生」
「ん?」
「せんせは結婚とかしないの?」
 どきどきいってる心臓を感じながらそう言った。先生が首を傾げて「え、どしたの急に。俺に彼女いるみたいに見える?」と言うからそっぽを向いて「知らないもん」と返す。
 僕は先生と仲がいいけど、だけど携帯のメルアドだって電話番号だって教えてもらってない。先生と生徒の境界線、それを越えてはいけないからだ。
「いないよ。いないんだから結婚はできません」
「だってお見合いとかあるじゃない」
「そこまでして結婚してもなー。っていうか何、なんで結婚? どこから来た話題?」
 先生が困ったように笑う。だから僕は決意していたことを口にした。だけど「夢で」とこぼした自分の声は決意とは裏腹にすごく弱っていた。頭の片隅で知らない女の人と先生がしあわせそうに笑っている。
「ルピ?」
 呼ばれて顔を上げた。斜陽が眩しい中、先生は確かに僕の世界の中心で、輝いていた。
「夢で。そういう、先生が結婚してる夢を見たんだ。先生、きれいな女の人と一緒で。しあわせそうに笑ってた」
「ふーん…?」
 先生が首を傾げる。心当たりはないって顔。だけど心配で「先生は結婚なんてしないよね」と訊いた。少し声が掠れて上手く言えなかった。
 先生が口元を緩めて笑って「しないよ。相手いないし。夢でしょ、忘れなよ」と言う。
 僕は唇を噛んで覚悟を決めた。
 たとえ傷ついても。拒絶、されるかもしれなくても。僕はあなたにこの気持ちを伝えたい。知ってほしい。狂おしいほど輝く世界であなたが僕の光なんだということを、どうか。
「だけど僕、それで気付いたんだ。すごく大事なことに気付いたんだ」
「何に?」
「僕、」
 すぐそばをごおと音を立ててトラックが通り過ぎた。そのせいでせっかくの言葉が先生に聞こえたのかどうか疑わしかった。先生が不思議そうに瞬きして首を傾げて僕を見つめた。しあわせな瞬間だった。先生の瞳の中には今僕だけしか映っていない。僕だけしか。
「ごめんルピ、車の音でよく聞こえなか」
「僕は先生が好きだよ」
 今度ははっきりと、音の邪魔のない夕暮れの中で、はっきりとそう言った。顔が熱い。僕は人生初めての告白をした。それも先生に。
 僕だけの先生に、僕だけの人に。なってほしかった。
 答えがこわい。だけど一番こわかったのは、病院のベッドに埋もれて静かに息をしていた先生の姿。もう目を覚まさないんじゃないかと錯覚したあのとき。
 それに比べればこれは、このどきどきは、こわくない。