自分がわりと最低な部類の人間に入るんだろうということには気付いていた。ルピが表情を曇らせる度、ジオが視線を伏せる度に、いつも思っていた。俺は最低な奴なんだろうと。
 自覚しているくせに、その最低を抜け出せない辺りが本当どうしようもない。
 深く息を吐いて思考を切り替え、ネクタイを締めて鏡の中の自分を見つめて数秒。一つ頷いて部屋を出て、今日も割り振られている仕事のために時間を費やす。
 俺が勤めている屋敷はこの辺りでは一際大きな豪邸で、庭は広く、建物もいくつかに分かれている。敷地が広いから時間管理はしっかりしないと、仕事が終わらなかったりもする。
 スケジュール帳を眺めて今日の予定をチェックして庭を突っ切って、まずはメインの館のテーブルの用意からと考え事をしながら歩いていると、メイドの姿が見えた。知らない人だったけど挨拶くらいはしておこうかと思ったらさっそく避けられていたので、まぁ諦めた。なんで避けられるのかが分からないわけではないから。
 俺はルピとジオのお気に入り。俺と親しくなることはイコールでクビに繋がると、使用人の間では暗黙の了解になっている。触らぬ神に祟りなしってやつだ。
 一使用人としてはやり辛いことこの上ない話だけど、仕方がない。おかげで俺に回されてくるのは一人でもできそうな雑用が主で、最近は無茶振りも少なくなった。
 そうは言っても、こんな広い敷地を持って館がいくつにも分かれている屋敷でやることがなくなるわけはない。それなりに大変だ。今日も朝のテーブルのセッティングをしたらルピとジオの朝食を見届けて、来賓があるからそれに対応しないといけないし、病気の薔薇があるからその世話もあるし。気難しい馬の世話も任されてるし。あとは、
待って、待って…!」
「、ルピ」
 思考に没頭していたところから我に返って振り返れば、ルピが走ってくるところだった。ぱこぱこ音を立てるブーツが長いスカートに引っかかりそうで見ていてすごく危ない。
 俺に追いついたルピは息を切らせていた。「お、は、よう」と呼吸を整えつつ朝の挨拶をくれる。
 俺の姿が見えて、わざわざ走って追いかけてきたらしい。「おはよう」と笑うとルピも笑った。走ったせいで上気している頬が淡い色に染まっていて、肩に羽織っているだけのカーディガンがずり落ちそうになる。手を伸ばして黒いカーディガンを広げて「ちゃんと着ないと風邪を引くよ」と言えば、「風邪引いたって、君が看病してくれるでしょう?」なんて返された。一つ瞬いてアメシストの瞳を見つめる。
「…そのためにわざと風邪を引くとか、しないよね?」
「しない。今のところ。君を困らせたくはないから」
 どことなく不服そうなのは、本当は風邪でも引いて俺を束縛したいんだってことだろうか。
 渋々カーディガンに袖を通したルピがぱこんとブーツを鳴らして俺の隣に並んだ。びしと差し出された手に瞬く。ぶすっと拗ねた顔をしてみせたルピを見て意味に気付いた。
 この間は自分でお嬢様じゃないって言ってたじゃないか、なんて意地悪は言わないでおこう。ルピの機嫌を損ねたいわけじゃない。
 俺が知っている限りの作法でレディーにそうするように朝食の席まで案内した。当たり前だけど、まだ準備は何もなしの、かろうじて暖炉に火が入っているだけの部屋だ。
「ルピ、紅茶でも飲む? 準備にまだかかるから」
「なんでもいいよ。ちょうだい」
「ん」
 笑いかけるとルピは顔を逸らした。どうやら照れているらしい。
 ルピの膝と肩にしっかりとブランケットを被せてそばを離れ、手早く紅茶を淹れて簡単な茶菓子を出し、テーブルの準備を進める。その間、ルピは退屈そうに紅茶を飲んだり茶菓子を食べて、ずっと俺を眺めていた。
 きっかり三十分で準備を終えた頃、ジオがやって来た。ルピがいることに気付くと一瞬だけ表情を変えたけど、すぐにいつもの少し不機嫌そうな顔に戻った。
「おはよう」
「…はよ」
 眠いのか、欠伸を噛み殺して目を擦っている。首を捻って「眠いの?」と訊けば浅く頷いて返される。席に着いたジオの世話をしながら「眠れなかった?」と訊けば、ジオは黙った。それが肯定のようだ。何か、眠れない理由でもあったんだろうか。
 がたんと大きな音がしてそっちに意識を向ければ、ルピがソファを鳴らして立った音だった。ぶすっとした顔でこっちを睨んでいる。アメシストの瞳に睨まれると俺は苦笑いでジオのそばを離れるしかなかった。
「そういう顔ばかりするものじゃないよ」
「…誰がさせてると思ってるの?」
 じとりと睨まれて、俺は困った顔しかできない。ルピが拗ねたようにそっぽを向くのに、その肩を押して朝食の席につかせ、いつものように世話をすることしかできない。
 恐らく、ジオが眠れないという理由も、ルピが拗ねた顔をする理由も、全て俺なんだろう。
 俺は最低な人間だ。ルピとジオが求めてくれるからと応えるような、口付けるような、抱くような、最低な男だ。
 そのくせ抜け出せない。二人に手を伸ばされてそれぞれに右手と左手を差し出し、二人に応えている。どちらか一人だけなんて選べない。二人とも、かわいいから。
 …俺は最低な奴だ。

 好きだと言われ、好きだと返して、愛してると言われ、愛してると返して、抱いてと乞われ、その細い身体を抱いて、

 僕を、俺を、一番好きになってと乞われて、

 その願いに、俺はイエスを返せない。
「……ふー」
 来賓の客の接待が今日の一番疲れる仕事だった。
 壁に背中を預けてぼけっとしていると、目の前を忙しそうにメイドが通り過ぎた。当たり前のごとく俺はスルーだった。
 まぁいいけど。今更気にしても仕方が無いし。
 今日の予定はよくこなした方だ。スケジュール帳を斜め読みで眺めてやり残したことがないのを確かめ、ぱたんと閉じる。
 これで今日はもうおしまい。だから、宿舎に帰って寝ようかな。明日だって早いんだし。
 のろりと立ち上がってふらっと歩き出すと、向こうの方から走ってくる影を見つけた。危なっかしくランプをかちゃかちゃ揺らしながら「、いた、あのねっ」と意気込んで走ってくるのはルピだ。「待ったルピ、走ったら」それ以上言う前にルピが長いスカートにブーツの先を引っかけた。バランスを崩したルピの手からランプが離れて宙に舞う。
 特別瞬発力とかがあるわけじゃないし、そう反射神経がいいってわけでもない。ただ、ルピとジオにだけは自然と身体が動く。
 俺こんなに足速いっけな、と自分に軽く驚くくらいには速く、ルピが床とぶつかる前にその間に滑り込んでルピのことを抱き止めて尻餅をついて衝撃を受け止めることに成功した。…当たり前だけど痛い。
 かしゃん、とランプが落ちた音がして、ちらりと視線だけ投げる。カーペットがある場所じゃないから大丈夫。いや、始末した方がいいんだけど。
「ルピ? どこか痛い?」
「…痛く、ないけど。ごめん。転んだ」
「うん。床に激突するところだった」
「……君が、助けてくれたけど」
「そりゃあね」
 俺の腕に抱かれたままぼそぼそと言葉を繋げるルピの髪を撫でた。艶のある髪はジオとはまた違って、いつも濡れたような色をしている。それもまた魅力的だ。
 少し紫がかった黒い髪に頬を寄せた。ルピはまだ俺の鎖骨辺りに額を押しつけたまま顔を上げない。
 そのうちメイドが通りがかって、割れたランプを見つけると早々に片付けてくれた。
 うん、ありがたい。ありがたいんだけど、そんなにガン見しないでほしい。
(…明日辺りメイド中に広がってるんだろうなぁ)
 ぱたぱた走っていきつつ、ちらちらこっちを振り返るメイドにちょっと遠い目をしたくなった。
 女の子みたいに華奢なルピの背中を撫でる。「立てる?」と囁けばルピがのろりとした動作で顔を上げて、俺の足の間で座り込んだ。「立てない」「…ルピ」「立てないもん」そっぽを向くルピはどうやら俺を困らせたいらしい。朝食の席での仕返しだろうかこれは。
 こめかみに手をやってぐりぐりして、俺は諦めた。所詮使用人、主人には従うものだ。
「それでは俺がお運びしましょう。お嬢様」
 ルピの脇と膝の裏に腕を回して抱き上げる。ルピの視線がかなり惑ってたけど、この際それは気にしない。ルピが立てないって言ったんだから、俺は立てないルピを運ぶだけだ。
「で、なんだった? 最初に何か言いかけてたけど」
 階段を上がりながら、落ち着きなく視線があっちこっちへいってるルピに首を傾げる。気付いた顔で俺を見上げたルピが「使用人の新しい制服、僕のデザインが通ったって言いたかったんだ」ちょっと嬉しそうに、というか、褒めてくれと言わんばかりに期待を込めた目で見つめられるとちょっと困る。
「そうなんだ」
「今のは地味で気に入らないんだ。にはもう少しいいものを着せてあげたい」
「…俺はこれでも十分だけどな。どうせ汚したり引っかけるし」
「僕がいやなの」
 ぷくーと頬を膨らませるルピがかわいくて、知らず笑っていた。
 ルピはナチュラルにスカートが似合うし、女の子の格好をしてもおかしくない高い声をしてるから、ときどき間違える。本当に女の子なんじゃないかって。そんなの、何度だって抱いてきたんだから、もう分かってることなのに。
 使用人と主の許されない愛なんてレベルじゃない。これはもう罪だ。
 立てないと主張するルピの自室まで行き、鍵のかかっているドアを解く。
 ソファにルピを下ろした頃には腕が疲れ始めていた。軽いとはいえ、人一人ずっとお姫様抱っこはキツい。
 さて、それじゃあ俺も自分の部屋に、と思ったところでくんと袖を引かれた。「ねぇ」と囁く声が艶っぽく俺の理性を揺さぶる。おまけにぎゅっと抱きつかれて、それを突き放すことなど、俺にできるはずもなかった。
「駄目だよ。ここでは」
 強く俺を抱き締めるルピがじっとこっちを見ている。乞うように揺れるアメシストの瞳に、キスだけを許して口付けて、首に回された腕に応えてその身体を緩く抱いた。
 ここはルピに与えられてる専用の別館ではない。ここにはジオもいるしメイドも給仕もたくさんいる。いくらでも流れている噂とはいえ、決定打となることは避けるべきだ。
 秘め事は秘めたまま、公にすることなく、影で続けるべきもの。
 お前がどうしても欲しいというなら俺をあげる。
 でも、それは然るべき場所で、然るべきときに。
 艶のある髪がゆらゆら揺れるランプに照らされているのを見ていると、気持ちまで揺れてくる。
 絡めた舌がいつまでもその味を貪りたいと貪欲になるのを抑え込み、ルピの舌から逃げて唇を離した。不満そうな顔で唇を舐めるルピが俺から離れようとしない。もっと欲しいと、ルピの瞳が揺れている。
 …ルピのことが好きだ。ジオのことも好きだ。二人とも愛してる。
 どちらも同じくらい愛している。だから決められない。どちらかになんて、手を伸ばせない。
 どちらかに決めた瞬間どちらかが崩れてしまうと、痛いほど、分かっているから。
 どちらも生かすためには、どちらを選ぶこともできない。
 俺は、それでもよかったんだけれど。二人はそうじゃないんだと知ってる。ルピはジオがいなくなっても構わないし、ジオはルピがいなくなっても構わない。でも俺は、それじゃ困る。
 ……俺はどうすればよかったんだろう。どうすれば、一番、二人を傷つけずに、生かすことができたんだろう。
 愛が欲しいと俺を求める二人を同じように愛する。
 キスをして、舌を絡めて、お互いの味を貪って、細い身体を抱いて、それ以上を求める二人のために俺の熱でその身体を貫いて。愛して、愛して、愛して、愛して、ただただ愛して、尽きることなく愛し続けて、また愛して。
 愛して、愛して、愛して、愛して、愛して、愛する。愛し続ける。そのために在り続ける。そのことにもう疑問はない。
 ルピの部屋を出て、深く息を吐いて歩き出す。
 向かった先は自分の部屋ではなくジオの部屋。こんこんとノックして「誰だ」という眠そうな声に「俺だよ」と返せば、ほどなくして内側からドアが開いた。眠そうな顔をしたジオが「なんだよ、お前もう仕事終わってるだろ。どうした」と俺を部屋に招き入れる。暖炉の火が入っていることや部屋に変わりがないことを投げた視線で確かめて、眠そうなジオに微笑んだ。
 ルピだけ、ジオだけを贔屓することができず、どちらかを愛したのなら、もう一方にも愛を捧げると決めていた。
「眠る? なら帰るけど」
「…お前が来たんなら、まだ起きてる。あと少し書類が残ってるし」
 眠そうに目を擦りつつジオが書机に向かった。ルピと同じように華奢だけど、ジオはパジャマ姿だった。ルピならもっとフリルのついたかわいいもので眠ってそうだ。
 ジオが腰かけた椅子の隣で机に腰かける。行儀がいい行為ではないけど、ジオが何も言わないってことは、これも肯定なんだろう。
 まだ少し疲れている腕を伸ばして指先でジオの前髪を揺らした。じろりと睨まれてにこりと微笑む。視線は逸れて、迷ったあとにまた書類へと戻った。
 ジオとルピに共通しているのは父親だ。母親は違う。二人とも、所謂愛人の子供の一人だ。
 その父親に俺は会ったことがない。どうしようもない人なんだろうってことは他にも何人も腹違いの子供がいることから分かっていたし、会って、言いたいことだってない。
 たくさんいる子供達の中で、ジオは懸命だ。競争相手の中で少しでも生き残りをかけて日々をこなしている。
 ルピは、諦めている。そうやって頑張ることにはもう疲れたからと、いつか姓を剥ぎ取られてしまうのではと怯えながらも諦めている。
 二人とも疲れている。自分の出自に。そこから限定される未来に。
 逃げるために手を伸ばしたのが俺だとしても、俺は二人を救ってやれない。ただ、愛してやることしか。
「…なぁ」
 ぼやくように声をかけられて思考を中断した。さらりと流れる前髪を指で揺らして首を傾げれば、ジオの金に近い黄色の瞳が俺を捉えた。
「お前はずるいな」
「…うん。知ってるよ」
 罵られても、俺は笑うことしかできない。微笑うことしか。そんな俺を睨みつけてジオは言う。「お前のそういうとこは嫌いだ」と。俺はまた笑う。「知ってる」と。
 次には惑ったように視線を俯け、ジオは言う。「でも、俺はやっぱりお前が好きなんだ」と。
 嫌いになれたらどんなに楽だったかと、そう言いたいのだろうか。
 そうやってどちらかが俺を嫌ってくれたなら、俺も、どちらか一方を愛して、この牢獄から抜け出すことも考えたのだろうか。
 がしと襟首を掴んだ手に引っぱられて、噛みつくようにキスされた。すぐに離れた唇と揺れている瞳が「どうしようもなく愛してる」と囁いて、また俺の唇を塞ぐ。
 突き放す理由なんて浮かばず、ジオの手に掌を重ねて指を絡めて握り合い、何度でもキスをして、結局、俺が自分の部屋に帰ったのは夜中辺りだった。ジオの仕事が終わるまで付き合ったし、そこから眠るまで付き添って火の始末もしたから、かなり遅くなった。
 これじゃあまた眠いままだ。いい加減まとまった時間を取って眠らないと、どこかで居眠りしそうだ。
 簡単に入浴をすませて他に何もせずにベッドに潜り込む。目覚ましをセットして枕に頭を預けるともう眠気が襲ってきて、俺は早々に眠った。
 夢の中でも俺はルピとジオに両手を取られて、あっちだこっちだと主張する二人がいがみ合い、それに困った笑顔を向けていた。
 妥協案で真ん中を取る道を示すか、二人が行きたいところへ順番に行くか。どちらか一方の手を離すことはできず、拗ねた顔をする二人の手を引いて、俺は歩いて行く。
 …恐らくこれからもきっと、この先もずっと。俺を欲しいという二人のために、俺は在り続ける。